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血と精液と糞尿

 私の創作の指針には大きく5つのものがあります。それは血、精液、糞尿、アイロニー、パロディの5つです。この5つは前の3つと後ろの2つで分けることができます。前者が目的であり、後者が手段です。
 私は芸術と社会との関わり方には大きく分けて2種類あると思っています。つまり、オーバーグラウンドからのアプローチとアンダーグラウンドからほアプローチです。
 前者のオーバーグラウンドからのアプローチには「街の美化」なんかに使われるようなパブリックアートがあります。例えば最近大阪のアメ村ではストリートカルチャーを取り入れたアメ村らしいパブリックアートが用いられています。これは一見アメ村の文化に歩み寄っているように見えますが、その実はその文化を取り込むことによって馴致させ元来もっていた汚らしさを締め出しているのです。
 もう一方のアンダーグラウンドからのアプローチこそ、私が始めに掲げた5つの創作の指針と密接に関係しています。
 血、精液、糞尿、これらを描くことは(もちろん、必ずしもこれらのモチーフが織り込まれている必要はなく、あくまでも象徴物です)すなわち抑圧された人間のフラストレーションを表現することです。人間は誰しも社会に抑圧され無意識の中に折り合いのつかないフラストレーションが溜まっています。このようなフラストレーションの表現を見た人はもしかすると、無意識の中にあった不満を意識の層まで顕在化させることができるかもしれません。このように芸術を介して、折り合いのつかないままであった不満に形が与えられます。不満に形を与えることには2つの効果があります。1つは個人のレベルの話で、今までわけもわからずモヤモヤするだけだったのが、不満の正体を知ることによって解決法や対策が見出せるかもしれないということです。もう1つは社会的なレベルの話です。つまり、不満に形を与えたとき個人の中で起こったことが社会レベルで起こるということです。芸術を介して不満を共有することによって、改善すべき点を明確にすることができ、やがて社会的な運動へとつながることだってあるでしょう。
 私が掲げた血、精液、糞尿という3つのものはすなわち人間の精神の低い部分(それゆえ根本的である部分)を象徴する事物です。暴力的であり、エロティックであり、下品であり、そういった人間の根幹にあるものというのはとてつもないエネルギーを持っています。それはいくら社会が押さえつけようとしたところで到底ダメです。これは人間の歴史が示している通りです。これらのエネルギーは人間にも扱いきれないような諸刃の剣でもあります。しかし、これらのエネルギーを否定することはできません。
 芸術は人間の生のエネルギーとコンタクトをとる謂わば魔術のようなものだと思います。芸術には社会を変えるだけの力があります。
 しかし、このアンダーグラウンドからのアプローチの手法を権力者が用いると、それは大変悲惨なこととなります。人々は洗脳され、為政者の都合のいい人間として、戦争をしたり、特定の人種を差別したりなんかもするでしょう。だからこそ、芸術は常に権力に批判的でなければならないのです。
 もちろん、だからといって権力に批判的な人が芸術の力を好き勝手に用いていいかというとそれはあまりよろしくないだろうと思います。芸術が目指すのはあくまで不満の源の提示です。というのも、もしある権威に対する明確な対立軸をたててしまうと、こんどはその対立軸が新たな権威となってしまうのです。それゆえ、芸術の役割は不満の正体を暴くことであって、解決法の提示ではないのです。
 これは非常に難しいバランスです。不満の正体を提示する段階で既になんらかの権威的な思考が紛れ込んでいるかもしれないからです。そこで必要となるのが最初に掲げたうちの後ろ2つ、アイロニーとパロディです。
 新たな権威をつくらないために芸術ができることは、ある権威を笑い飛ばすことです。ある権威を笑い飛ばすときは全てを笑い飛ばさなければなりません。自分が依拠している思想そのものも例外ではありません。皮肉やパロディによって権威を失墜させ、その批判さえも批判して笑い飛ばすのです。
 何も権威を失墜させるというのは悪いことではありません。皆が信じている権威が実は絶対的なものではないのだということを知らしめるということです。喩というのはあるものとあるものを言葉によって結びつけることをいいますが、パロディというのも喩の一種であろうと思います。事物というのは全てが関係しあっているわけでありますが、普段我々にはそれが分からない。だから喩を以ってその関係を示してやるのです。そうするとそれまで無関係に見えた複数の事物は互いに手を伸ばし関係し合うものであることが分かってくるのでありまして、その時事物と事物との間には相互に力の行き来が生じるのです。パロディにおいてその力の行き来というのは権威的なものと下劣なものの間に生じるのでありまして、丁度濃度の違う水溶液同士が平衡を保とうと混ざり合っていくのと同じように、権威の側にもその下劣なるものが移っていくのです。これは、権威を引きずり下ろすというよりもむしろ、権威的なものでさえ、下劣なるものと同等の一存在物でしかないことを暴露するということなのです。
 芸術が出来ることにはもう1つの可能性があります。それはただひたすらにフラストレーションを表現することです。ですが、ここにも皮肉の利いたユーモアが必要です。ユーモアの全くない芸術というのは共感に乏しい芸術でしょう。そうなると、前に挙げたように人々や社会にアプローチすることはできなくなります。

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