人間やめます宣言
人間であることを誇りに思う人々よ。お前のその哀れなアイデンティティを軽蔑する。お前はたった一人では何もできないただの動物に過ぎない。なのに、お前は人様の偉業を我が物顔で誇らしげに、さも自分こそが自然の支配者だと思い込んで威張り散らしている。全く見るに耐えない醜いチンケなプライドだ。
そして成功を収め、得意げな人々よ。お前のその傲慢さを軽蔑する。全ての現象には原因がある。お前の成功の原因をそしてその原因を辿っていくと、お前のその有限の命なんて軽々と超え、最早お前にはどうすることもできない宇宙の運動へと辿り着くのだ。主観的世界しか認識できない人間が自分を主人公だと錯覚しているだけだ。自意識過剰もいい加減にしてほしい。
私は公然と人間に反旗を翻す動物である。そして、私は公然と人間に服従する動物である。私は私という主語を捨て、そして私という主語を使う。ここでいう「そして」とは論理記号の「かつ」とは意味が異なる。ここでいう「そして」とはこの接続詞が繋ぐ前後の命題が真であり偽である状態を併せ持つ論理である。
私はダダイストではない。私は人間の理性を信じる。人間であることにアイデンティティを持つことは理性の放棄である。あるいは理性への冒涜である。私はこの世界にある一つの現象として現象する。ある一つの火という現象にもある一つの木という現象にもある一つの猿という現象にもある一つの人間という現象にも、どの現象の間にもその質に隔絶はないのである。そのことを理解するには理性の力を働かせなければならないだろう。だから私は理性を信じる。
さてここで、文学ということについて考えてみたい。文学とは当然人間が書くわけであるから、人間の関心に基づいて書かれるものである。それに関して私は文句はない。しかし問題は何故神々は人間的であるのかということである。何故我々は自然に人間的なものを見てとるのか。それは事物と事物の関係を我々が理解することができないからである。その関係を理解している場合もあるだろうが、その場合敢えて自然に人間的関係を持ち込もうとしていることになり、より悪質である。
一方、我々は我々の人間的関係の中に事物的関係を持ち込むこともある。「石頭」であるとか「心に火がつく」というような言い方がそれである。何故このように双方向に矢印が向かっているのかというと、これが人間と事物との関係のあり方であるからである。ある対象とある対象が関わるとき、双方の力は一方通行ではなく双方向に流れるのだ。
文学が人間の関心に基づいて書かれることに文句はないとさっき書いたが、やはり不満はあるのである。文学は人間と事物との関係を記述するに留まっていていいのかという不満だ。人間と事物との関係のみを描いているとき、いくら人間を卑下したところでそれは結局人間中心主義でしかないのである。
故に、私の文学の目標は、人間というものを介さずに事物と事物が関係し合う宇宙、というフィクションを描くことだ。人間を介さないことは不可能である。しかし、人間を隠蔽することはできるはずだ。だが、それは人間を描かないということではない。人間も等しく対象の一つなのである。その相対主義に基づいて事物と事物の関係を記述するとき、脱人間的文学が完成するのだ。
以上のような論理のもと、私は筆を取るとき人間であることをやめることをここに宣言する。
2020年5月28日kagema
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