クレメンティのピアノ(197)
1767年、クレメンティがベックフォードに買われてイギリスに来た頃、ジェームズ・ロングマンがロンドンのチープサイドで楽譜店を開業しました。1769年にはチャールズ・ルーキーが共同経営者となり、さらに1775年にフランシス・フェーン・ブロデリップが事業に参画しますが、ルーキーは1776年に死去し、その後の "Longman & Broderip" という社名が良く知られています。
ロングマンは自社で楽譜を出版すると共に、ウィーンのアルタリア社など外国の出版社とも提携し、あらゆる楽譜を提供できると豪語していました。
ロングマンは楽譜だけでなく様々な楽器も取り扱っていました。しかし当初はどれも自社で製造していたわけではないようです。
現存する “Longman and Lukey & Co. Cheapside London” の銘を持つスクエア・ピアノは、内部に1769年の日付とヨハネス・ツンペの署名があり、ツンペのOEMであったことがわかります。
転機が訪れたのは1786年、アルザスのシルティカイム出身の楽器職人ジョン・ゲイブが独自のエスケープメントを備えた新型のスクエア・ピアノ用アクションの特許を取得し、これに目をつけたロングマンは彼と独占契約を結びました。
ゲイブのエスケープメント機構はいくつかの改良段階を経て1788年頃には完成の域に達します。この「イングリッシュ・ダブル」や「グラスホッパー」などと呼ばれるゲイブ式のアクションは好評を博し、後に他社でも採用されてイギリスのスクエア・ピアノの標準仕様となっていきます。
さらに1794年にはアイルランド出身のウィリアム・サウスウェルの発明した新型のダンパーと音域拡張方式についてもロングマンが独占契約を結びました。
優秀な技術者を囲い込むことで、ロングマン&ブロデリップ社は短期間でヨーロッパ有数のピアノメーカーにのし上がります。
ハイドンは1794-95年のイギリス旅行時にロングマン&ブロデリップのグランド・ピアノを購入してウィーンに持ち帰っています。もっとも、ロングマンのグランド・ピアノはブロードウッドの模倣品なのですが。
しかしながら、フランスとの戦争により輸出が困難になったことでロングマン&ブロデリップ社の売上は悪化。折しも事業拡大のために多額の借り入れを行っていたことが裏目となり、負債を返せなくなったロングマンとブロデリップは1795年に破産し、債務者監獄に収監されてしまいます。
とはいえ資金繰りに行き詰まったのはタイミングが悪かっただけで、事業自体は依然として有望、というわけで以前からロングマン&ブロデリップ社に投資していたクレメンティが中心となって、1796年に "Longman, Clementi & Co." を設立し、チープサイドの事業を継続することになります(ややこしいことにこのロングマンはジョン・ロングマンで、創業者のジェームズとは別人)。その後1800年にジョン・ロングマンが独立し、ロングマンの名前が抜けて "Clementi & Co." になります。
ジェームズ・ロングマンとブロデリップは1年ほどで釈放され、再起を図りますが、ブロデリップの方は1798年にブロデリップ&ウィルキンソンという会社を起こし、元会社のヘイマーケット店の事業を引き継ぎます。クレメンティと会社を分割した形で、製品もほぼ同一でした。一方、創業者であるところのジェームズ・ロングマンは再び監獄送りになり、1803年に63歳で獄死。
その後も含めた系譜は下図のようになります。ちなみにジョン・ゲイブは1797年にアメリカに渡り、ニューヨークでオルガン製造会社を立ち上げています。
クレメンティはあくまで経営者であり、実際に楽器を製造する工房はロングマンと変わらず、当初は製品も銘板以外全く同じであったわけですが、その後の製品の発展についてクレメンティが何かしらの役割を果たしたのかについては判然としません。もちろんピアニストの第一人者の監修によるピアノと喧伝されてはいましたが、彼はエンジニアではありませんし。
後の後継者の一人であるウィリアム・フレデリック・コラードが、ブリッジの向こう側の弦を共鳴させて響きを付加する「ハーモニック・スウェル」というギミックを発明し、1821年に特許を取得していますが、これはスイスのクリスティアン・ミュラーによる1784年製のスクエア・ピアノに原型が見られ、同じく1784年にスイスを訪れていたクレメンティがこの楽器を覚えていてアドバイスをしたのではないかとも言われています。
クレメンティ自身がピアノの製造に口を出した直接的な記録としては、弦のメーカーの指定に関するものや、ロシア向けピアノについて温度変化に配慮するよう指示したものがあります。
ロシアの気候はもちろん寒冷ながら、ピアノが置かれるような裕福な邸宅はしばしば暖房過剰で、楽器にとっては非常に過酷な環境だったといいます。そのためクレメンティのロシア向けモデルでは膨張収縮に耐えるためにケースの隅に金属の補強を施したものが見られます。
ローカルな事情にクレメンティが通じていたのは、本人が現地に赴いていたからです。1802年から1810年にかけてクレメンティはヨーロッパを巡る長い旅をしますが、今回の目的は演奏ではなく、製品の売り込みと楽譜出版の契約のためでした。彼のピアニストとしての国際的な名声はマーケティングに大いに役立ったことでしょう。
ヴァイオリニストのルイ・シュポーア(1784-1859)は、自伝で1802年頃にサンクトペテルブルクでクレメンティに会った時のことを回想しています。
この哀れなジョン・フィールド青年については次回。