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ノクターンの誕生(202)

『エドワアド・カアルリイチ、何卒どうぞ、モシュウ・フィイルドの、あたし大好だいすき夜曲ノクツルヌを弾いてください』と、客室きやくまから老伯爵夫人らうカウンテスこゑつた。

レオ・トルストイ著、馬場孤蝶訳『戦争と平和』国民文庫刊行会、大正四年

1803年6月にクレメンティがサンクトペテルブルクを去る際、彼は弟子を連れていきませんでした。ジョン・フィールドはクレメンティのエージェントとしてロシアに残されたのです。

フィールドは現エストニアのナルヴァの司令官で音楽愛好家のマルコフスキー将軍(彼はグランドピアノをクレメンティに注文しました)の邸宅で家庭教師として雇われ、その夏をナルヴァで過ごします。秋が来ると一家と共にフィールドもサンクトペテルブルクに戻り、アパートを借りて一人暮らしを始めました。彼はようやく自由を得たのです。

Saint Petersburg, 12 May 1803, feast given by Emperor Alexander.

1804年3月、サンクトペテルブルク・フィルハーモニアにて、フィールドは5年前にロンドンで演奏した《ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調》H 27 を披露します。ここではなお一層の大評判となり、一夜にしてフィールドは現代最高の音楽家と持て囃されることになりました。フィールドの友人の俳優で劇作家のフリードリヒ・アルベルト・ゲプハルト曰く「フィールドを聴いていないということは、芸術と良き趣味に対する罪とみなされた」。

たちまちフィールドにはレッスンの依頼が殺到します。ゲプハルトによれば、フィールドはすぐに裕福な暮らしができるほどの金を稼ぐようになり、豪華な部屋を借りて、召使いを雇い、自家用馬車も手に入れました。

彼はレッスンを終えると、大抵はレストランに来て、そこで最高級のハバナ葉巻を吹かし、お気に入りのシャンパンを飲み、しばしば酷い駄洒落を自分で言っては笑いながら朝方まで居たといいます。その頃にはフランス語がそれなりに話せるようになっていたのでしょう。なおフィールドの駄洒落癖は死ぬまで治りませんでした。

まだそれほど怠惰ではなかったらしいフィールドは、1805年に現ラトビアのリガとミタウ(イェルガヴァ)に遠征し、その後、旧都モスクワに向かい、1806年3月2日に上演されたモスクワでの最初のコンサートでも華々しい成功を収めます。

Red Square in Moscow (Fyodor Alekseyev, 1801).

フィールドは1806年の夏にはサンクトペテルブルグに戻り、様子を見に再訪したクレメンティを迎えますが、1807年4月に再びモスクワに行き、それからしばらくはモスクワを本拠地としたようです。フランスの女優ルイーズ・フュジルは、後に回想録で当時のモスクワのフィールドの部屋の様子を記しています。

 そこはそれなりに豪華なところがあったが、持ち主の奇抜さが目立っていた。低いソファで囲まれ、ロシアの多くの家で見られるようなクッションが山積みになった広い部屋は、フィールドの怠惰で無精な性格に見事に合致していて、彼が毛皮の縁取りがされたガウンをまとい、長い白檀のパイプを吸っている姿にはまるでパシャのような雰囲気があった。側には小さなテーブルがあって、その上にトレイ、ラム酒のカラフェ、アルコールランプが置かれていた。壁にはシガーホルダーや、各国から集められたあらゆる種類のパイプ、カシミヤのトルコ煙草の小さな袋、ハバナ産の葉巻が掛けられていた。これらすべてが贅沢なもので、パイプやシガーホルダーには非常に高価なものもあった。宝石で飾られたダマスカス鋼のヤタガン、トゥーラ産の鉄や金の工芸品などもあり、これらは崇拝者たちから贈られたもので、部屋中に無秩序に置かれていた。楽譜で覆われた大きな円卓、倒れかけた文房具入れ、絵のように投げ出された羽ペン、乱雑に置かれた椅子、カーテンのない四つの窓、そして仲間たちのためのとても美しいピアノ――これがこの新式のパシャの部屋の調度品であった。

Louise Fusil, Souvenirs d'une Actrice, 1841.

1809年頃からフィールドはようやくロシアでの作品出版を始めるのですが、彼に仕事をさせるにはアルコールとカフェインが必要でした。

 フィールドはコンサートが迫って追い詰められた時だけ働いた(彼が演奏するのはいつも自作の曲のみだった)。しかし、彼がピアノに向かい作業を始めるには、友人たちが長い時間をかけて励まし、やる気を引き出さなければならなかった。
 まず彼はグロッグを要求し、それをかなり頻繁に飲んだ(もっとも酔っ払うことはなかった)。それから袖をまくり上げて、ようやく作業を始めた。その時にはもはや怠惰な男ではなく、インスピレーションに満ちた芸術家であり作曲家となっていた。彼は書いては紙を空中に放り投げるようにして作業を進めた。それはまるで巫女が神託を撒き散らすかのようであり、友人たちはその紙を拾い集めて整理していった。
 彼の書き記したものを解読するのは難しい作業だった。それはほとんど形をなしていないものだったからだ。しかし友人たちはそれに慣れていた。彼は創作を進めるにつれて情熱が高まり、助手たちが彼のスピードに追いつけなくなるほどだった。
 その後、彼は自ら紙に書き留めたものを試し弾きしたが、それは彼自身の演奏によって取り分け見事なものとなった。彼の手にかかればピアノは只の楽器ではなくなった。夜中の三時か四時になると彼はついに疲れ果て、ソファに倒れ込むようにして眠りに落ちた。その間、友人たちは楽譜を仕上げる作業を続けた。
 翌朝、彼は目を覚ますと、何杯もコーヒーを飲み、再び仕事を始めた。この時はどれほど緊急の用件であっても彼に話しかけるべきではなかった。彼の友人は誰もが名のある人たちだったが、彼を理解し、宗教的とも言える沈黙を保った。彼の才能を正当に評価していたからである。

Louise Fusil, Souvenirs d'une Actrice, 1841.
《Pastorale A major (Nocturne No. 8)》H 14, Autograph manuscript.

1810年3月31日にフィールドは生徒であったフランス人ピアニストのアデレール・ペルシュロンと結婚します。後に彼はイギリスに戻った際「授業料を払わなかったので妻にしたのだ」などと広言して顰蹙を買うのですが、しかしフュジルの報告によれば、フィールドは不器用ながらも彼女を愛していたようです。遺憾なことに二人は程なくして不仲となるのですが。

 ママは自分の先生のフィルドが作つた、第二コンツェルトを弾いてゐた。わたしはうとうとしてゐたが、頭の中には何かしら軽々と明かるい、すき通るやうな追憶が湧いて出た。ママがベートーヹンの悲愴曲パセチツクソナタを弾き出すと、わたしはなにかもの悲しく重くるしい、陰鬱な或るものを思ひ起こした。お母さんはよくこの二つの曲を弾いたので、わたしはその曲によつて呼び起こされる感情を、よくはつきりと覚えている。その感情は追憶に似かよつてゐた。けれどなんの追憶だらう。わたしはかつてなかつた事を思ひ起こすやうな気がした。

トルストイ著、米川正夫訳『幼年時代』岩波書店、昭和七年
Piano Concerto No. 2, H 31 (Breitkopf und Härtel 1819)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/432469

《ピアノ協奏曲 第2番 変イ長調》H 31 は、フィールドの最も成功した作品で、シューマンやショパンが絶賛し、19世紀末までコンサート・ピアニストの定番レパートリーであり続けました。正式に出版されたのは1816年ですが、おそらく1811年頃には概ね完成していたはずで、この年サンクトペテルブルクの婦人雑誌に第1楽章の抜粋が掲載され、また第2楽章の室内楽編曲版が「セレナーデ」としてモスクワで出版されています。

この第2楽章はオーケストラ伴奏付きノクターンとでもいうべきものであって、ピアノ単独でも十分成立します。実際フィールドはしばしば協奏曲の緩徐楽章に既存のノクターンを転用しました。

つまり、この時点でフィールドは彼独自のノクターンの様式を確立していたわけで、おそらくノクターンはモスクワのフィールドの混沌とした部屋で、葉巻の煙と水割りラムとブラックコーヒーが作用して生まれたのでしょう。


しかし十八世紀末にあって、これぞニセものというべきピアニストはダニエル・シュタイベルトである。

ハロルド・C・ショーンバーグ 『ピアノ音楽の巨匠たち』
Daniel Steibelt

この頃フィールドはそろそろサンクトペテルブルクに戻ろうかと考えて、ゲプハルトに相談の手紙を出したりしていますが、当時サンクトペテルブルクにはダニエル・シュタイベルト(1765-1823)が来ていて、ヴィルトゥオーソとして名を馳せていました。シュタイベルトは悪評の尽きない人物ではありますが、彼の作品には光るところもあり、先駆的なペダル技法の開拓者でもあります。

それはともかく、両者と知り合いであったゲプハルトは二人のポジションを交換する案を示します。つまりお互いの住居と仕事をそのまま交換すれば、同じところで客を奪い合うことが避けられるし、諸々の引き継ぎの面倒もまとめて解決するということです。

そうしてフィールドは1812年3月に夫婦で出演したコンサートを最後にモスクワを去ってサンクトペテルブルクに拠点を移し、一方シュタイベルトはというと、モスクワに落ち着いて間もなくナポレオンの軍勢が押し寄せてきたため、避難民の群れと共に来た道をまた戻るはめになりました。

しかしそれも無駄にはせずに、シュタイベルトは《大幻想曲「モスクワ炎上」》を出版しています。かなり変な曲なのですが、残念ながら録音は無いようです。

Daniel Steibelt, The Conflagration of Moscow (c. 1812)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/485019

フィールドが最初の3つのノクターンを出版したのはそんな頃のことでした。しかしご承知のとおり、これらには当時の血なまぐさい世相を思わせるものなど一切ありはしません。

Nocturne No. 1, E-flat major, H 24(Dalmas 1812)

まず「ノクターン(ノクテュルヌ)Nocturne」という名称について。これはイタリア語 Notturno に相当するフランス語ですが、18世紀の野外音楽であるノットゥルノとは内容的にはまったく関係ありません。

ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク(1760-1812)《Notturno Concertant》Op. 68 (1809) あたりとなると、まあまあ近い雰囲気を持っていますが、違いも大きく、やはりこれもフィールドが参考にしたとは思えません。

夜想曲ノクターンというタイトルは単に言葉の雰囲気だけをもってフィールドが気まぐれにつけたものかと思われます。

Nocturne No. 1, E-flat major, H 24 (ed. Liszt, Schuberth & Co. 1870)

次に内容に関して言えば、たとえフィールドのものだけに限っても、ノクターンにはそれを定義できるような確たる楽式などはありません。

それでもあえてノクターン様式というものを考えるなら、フィールドの第1番と第2番は正しくその典型でしょう。ペダルでぼやかした分散和音にのせてリリカルな旋律を歌うという平明なスタイル、今も飽くことなく再生産されている有象無象の "Chill" なピアノミュージックの原点です。

分散和音のバスといえばアルベルティ・バスでしたが、フィールドのノクターンがそれとは違うのは、片手で掴みきれないような広い音域に散らばった音をペダルによって繋ぎ、茫漠たる背景を作り出していることです。イギリス式グランドピアノにおいてこそ生まれた技法といえるでしょう。

Nocturne No. 2, C minor, H 25 (ed. Liszt, Schuberth & Co. 1870)

こういったペダル用法の先人が他ならぬシュタイベルトです。彼の左手も広い範囲から音を拾い上げますが、しかし彼のペダリングはかなり大雑把であって、フィールドのように細かく切り返しはしません。これでも当時のピアノならそれなりにいけるのですが、やはり静かに旋律を歌わせるには雑音が多すぎます。

なおペダル記号に関して、ダルマス版のフィールドのノクターンでは Ped でペダルを踏んで、丸十字で離すというようになっていますが、一方シュタイベルトの場合は反対に丸十字で踏み、*で離すようになっているので注意を。このあたりもいずれまた。

Daniel Steibelt, Piano Sonata in G major, Op. 64 (1807)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/94582

ペダルの切り返しもドゥシークに先例がありますが、大きく波打つような分散和音をペダルで宙に漂わせる「ノクターン的」伴奏法は、やはりフィールドの創始によるものであるようです。

Jan Ladislav Dussek, Air de troubadour, Recueil d'airs connus variés, Op. 71 (1810)
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/176243

フィールドの洗練されたペダル技法は、その後のピアノ演奏の基本的な技術となりました。フィールドこそがピアノという楽器を最も美しく鳴らす方法を見出したのだと言っても過言では無いでしょう。

かつてシャンボニエールはそのクラヴサン演奏で「ついにこの楽器は最後のマスターに出会った」と評されました。フィールドもそれと同じ栄誉をピアノについて与えられても良いはずです。

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