『モデナ写本』
中世末期フランスのアルス・スブティリオルの最重要資料である『シャンティ写本』は(後に追加されたボード・コルディエの2作を除いて)多分にフランス語を理解していないイタリア人によって写されたものと考えられており、サンレーシュのハープ型楽譜を収録する『シカゴ写本』も、パヴィアのヴィスコンティ家に由来するものです。
このようにイタリア側資料が目立つことからも、当時のイタリアにおけるフランス音楽の人気のほどがわかります。
かくして、フランチェスコ・ランディーニ (c.1325-1397)に代表される優美な「トレチェント」音楽を謳歌していたイタリア人音楽家たちにも、フランス風の複雑な音楽を作る者が現れるのです。
この15世紀初頭の北イタリアにおけるアルス・スブティリオルこそは中世音楽の最後の徒花と言えるもので、ここにおいて音楽史は一つの極限に達します。
イタリアのアルス・スブティリオルの資料の筆頭は、モデナのエステンセ図書館所蔵の α.m.5,24, "ModA" 通称『モデナ写本』です。
モデナ写本は、15世紀前半に編纂されたものと考えられており、当時既に「古典」であったギヨーム・ド・マショー(c.1300-1377)から、ルネサンスに片足突っ込んでいるヨハンネス・チコーニア(c.1370-1412)まで、フランスやイタリアの作品、合計104曲を収録します。
驚くべきはイタリア人の作品でもフランス語のものが多いことです。
モデナ写本の代表的な作曲家が マッテオ・ダ・ペルージャ (d.1418) です。全体の1/3ほどを彼の作品が占めており、おそらくこの写本の編纂に彼自身が関わっていたものと見られています。
ペルージャはミラノ大聖堂の初代楽長であった人ですが、彼の作品は同時代の他の資料からはまったく見出されず、当時広く知られた作曲家というわけではなかったようです。しかしながら、その作風は個性的な魅力に富むもので、この写本によってかなりの量の作品が生き残ったことは僥倖です。
Matteo da Perugia《Le greygnour bien》
まさしくアルス・スブティリオルといった譜面、歌詞もフランス語です。
これはペルージャの作品でも特に晦渋なもので、全体が2拍子でありながら、コントラテノールは3拍子で、その上シンコペーションに満ちており、もはや崩壊寸前のように聴こえます。
歌詞はフランス語には違いないのですが、どうにも難解なので、英語からの重訳でお茶を濁します。形式はバラードで、内容は作者の芸術家としての自戒といったところでしょうか。歌にするようなものでもないと思いますが。
Matteo da Perugia《Serà quel zorno mai dolze》
比較的穏当な譜面。実際ペルージャでも《Le greygnour bien》のようなグロテスクな作品は例外的なものです。彼の作風はフランスの先人たちに比べて明快さを目指しており、ルネサンスの足音を感じさせます。
しかしそのリズム、旋律、和声は、あくまで中世の仄暗さの中にあり、独特の幻想的な雰囲気が魅力です。
これはイタリア語のバッラータです。なんとなくイタリア語の曲のほうが後期の作品のような気がします。歌詞内容は月並みな騎士道物語の恋歌のようなもの。
この曲に関しては Mala Punica による18分を超える記念碑的な演奏を挙げなければなりません。しかもアレンジで膨らませていたりするわけでもなく、ほぼ楽譜のままなのには驚かされます。
作品自体とはあまり関係ないのですが、後半にリコーダーと歌唱が重なり響く美しさは、あまりにも荘厳。
流石に長すぎるので気軽におすすめできないのが残念なところ。
Matteo da Perugia《Hélas avril par ton doulz revenir》
春の愁いのヴィルレー。この曲の美しさに説明は不要でしょう。
モデナ写本の録音で特筆すべきは、『Ars Subtilis Ytalica』(1993) に始まる Mala Punica の一連のCD、通称「モデナ写本三部作」。
ペドロ・メメルスドルフの鬼気迫るリコーダーや、ジル・フェルドマンのクラシック音楽らしからぬ歌唱など、音楽史的な興味に留まらない魅力にあふれた演奏。それまでのアルス・スブティリオルに対する「退廃的、エリート主義的、形式主義的、数学的、頭でっかちで、知性に富んでいるが、不自然で情感に欠ける」というイメージを刷新する画期的な録音でした。
以前は入手に苦労したものですが、今は各種サブスクリプションで合集版が簡単に聴けます。
一方、マッテオ・ダ・ペルージャの曲を集めた『Hélas Avril』(1998) は、エラートからリリースされたので比較的入手容易でしたが、現在は何故か配信されておらず、聴くのが困難かもしれません。しかし《Hélas avril par ton doulz revenir》は、是非ともこの盤で聴いていただきたいものです。