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ジャック・デュフリ後編(鍵盤楽器音楽の歴史、第146回)
この規則は指使いに完璧を期す優れたクラヴサン教師であるデュフリ氏から得たものであり、自信を持って紹介する。
1756年の『第3巻』から12年を経て、1768年にデュフリの『クラヴサン曲集 第4巻』が出版されました。これが彼の最後の曲集になります。
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献呈先はマルキ・ド・ジュイネ夫人、クロード=シャルロット・ティルー・ド・シャムヴィル (1743-1827)、マリー・アントワネットに仕えた女性です。
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曲集には出版元のカタログが付属していますが、ここに挙げられている作曲家のうち、現在その名が知られているものは如何ばかりか。
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前作から随分と間が空いたにもかかわらず、この『第4巻』の収録作品はたったの6曲、それも大方は安易なアルベルティ・バスに頼った凡作です。1760年代にてデュフリの創作力は枯渇してしまったのでしょうか。
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それでもこの《ポトゥアン La Pothoüin》は傑作と言っていいでしょう。
低音主体の単調で物憂いロンドーは最後のクプレで堰を切ったように疾走し、刹那甘美な思いを垣間見ますが、やがてそれも暗冥に没します。
題名が指す人物ははっきりとしませんが、この作品はその深い哀惜の調子から故人に捧げられたトンボーではないかとも思われます。
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最後の作品は《La Du Buq》。題名は両インド局長官の Jean-Baptiste Du Buq (1717-1795) に因むものとされます。
哀れなほど簡素な作品ですが、怠惰な平行6度の連続がなぜか心にしみます。アルベルティ・バスを用いた当世風の作品とは異なり、この曲はたしかにフランス流です。これは今や滅びゆくシャンボニエール以来のフランスのクラヴサン音楽100年の伝統の最後の姿といえるでしょう。
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1760年代にはデュフリはパリ最高のクラヴサン教師として知られていましたが、その後彼は静かに忘れられていったようです。
かつてパリでクラヴサン教師をしていたデュフリ氏の現況を乞う。彼は1767年にはパリ在住であった。もし彼がもう生きてはいないのであれば、伝えることがあるため相続人を知らせていただきたい。
この尋ね人の広告が出た時、まだデュフリはパリのオテル・ド・ジュイネ2階の眺めの良い部屋で一人の召使いとともにひっそりと暮らしていました。
遺産目録によれば、そこには「ヴォルテールとルソーを含む104巻の書物」と「19巻の古い音楽」があり、それから250本のワインも彼は所有していましたが、しかしもうクラヴサンはありませんでした。
翌年、バスティーユ監獄が襲撃された次の日、1789年7月15日にデュフリは亡くなります。彼がその後の革命の惨状を見ずに済んだのは幸いだったでしょう。彼に家族は無く、遺言によって遺産はすべて30年来の召使いであったニコラ・デポミエに与えられました。