モフモフはなんでも可愛い
蚕は人の手により改良された虫だ。紡ぐ繭は一本の糸でできており七十メートルにも及ぶ。
繭の中で蚕は蛹になる。それは孵化することがない。繭から出る前に絹糸を取るために煮られるからだ。煮沸される大量の繭からは動物的ななんとも言えない嫌な臭いが漂う。
成虫になった蚕の羽は飛ぶのに適さない。食物を取ることもない。口は食べるための機能を備えておらず退化している。そのまま2週間ほど生きて卵を産み一生を終える。ただ次に命を繋ぐために。
優美な触覚を持ち大きな複眼は愛らしく、ふさふさと白い絨毛に包まれた姿は愛玩動物のようだ。人はなんという生き物を作り出してしまったのか。
繭の中で死ぬか繭からでても生きる力を持たない蚕は哀れだ。緑の葉にまみれてただひたすら食む姿は荒々しいほど生命力に溢れているというのに。
人の手により断ち切られた未来を思うたびに、人は自分が生きのびるために無数の命を殺しているのだと思う。高等生物?とんでもない。本能が壊れた人という生き物は、餓鬼に似ている。貪っても貪っても満足しない。
それは資本社会の宿命という人がいるけれど、では共産主義なら解放されるのか。権力が集中した先はどうなるのか既に歴史が証明済みだ。生き物のシステムから追い出された人間は機械に頼るばかりか機械になり永遠に生き続けようとしている。少し昔ならば何をバカなと笑ってしまえたことが本当になろうとしている。
人の貪欲さから生まれる様々な懊悩を解決しようと宗教が生まれた。宗教は余剰な命のエネルギーを削る。悟らなくてもいい。爺い婆あになるに従い生命エネルギーは衰え死に至るように身体はできている。死と共に貪欲さも消える。
自分と他を分ける我が生じてからは、今度は死にゆくさだめを悩むようになる。なんとも生きるのは大変だ。
生きるのが大変なのはこの世に修行をしに生まれて来たからだという。寿命まで生きたら修行は終わり。皆ほっとした顔をした死顔なのはそのためか。いやいや、力が抜けたせいとはわかっているけれどもそう信じたい気もする。
ことはどうあれ、生きるように身体はできている。腹が減る。食べる。食うためには金がいる。働かなくてはならない。自己啓発とか自己実現とかいろいろあるけれど本当の自分なぞどこにも存在しない。どこにもないものを自分と言い張り探しているのだ、と誰かが言った。
人間とは何か、なんて、皆考えては答えがわかる前に死んでいく。遺伝子の乗り物と揶揄されながら次の命に同じ命題を託しながら。
と、ここまで書いて虫嫌いの人もいるのだと気づいた。ごめんなさい💦青臭いことをいまだに考えながらモフモフはなんでも可愛く思える。何故だろうね。