ハザマ感。
学校休校の裏で日に日に現場に押し寄せてくるICT化の波。しかも、この「ついにきたか」的な本物感。コンピューターが得意な人や、好きな人、たまたまの情報分野担当というレベルの話ではなく、全員が有無を言わさず巻き込まれてる感。一旦始めたら、坂を下る石ころのようにもう引き戻れない感。そして、その分からなさ感や不安感もまたひとしおに感じる。
コロナ禍を経て、明らかに日本の公立教育が大きく変わろうとしている。そしてまさに今、現場にいる私たち(教師)が「まさにそのハザマにいる」ということを感じずにはいられない。まるで立っていた地面にヒビが入って、その割れ目に入っているような感覚。そして、改めて今までの教育や仕事の仕方を振り返ったり、これからのことを考えたりするような時間。それがどの教員にも起こっているのかと思うと、そのインパクトは大きすぎるほどである。
このハザマ感の中で、同時に私は、なぜ公立学校のICT化がこのような形で急にしか進まなかったのかということを考えずにはいられない。学校現場におけるICT化が進むことにはもちろん大賛成。しかし、もっと前から準備をしていたら、こんな乱暴なハザマ感を感じる必要もなかったのではないか。どうして、日本の公立学校制度では世界の潮流を汲み取りながら一定水準の生徒の能力やスキルを準備させることが困難なのか。
もちろん、パソコンやタブレットを利用した授業は日本全体を見渡せばたくさんあるし、世界標準を目指している学校もたくさんある。私立の高校やSSH指定されている高校などがそれに当たる。しかし、それらはどこの社会でも国でもある一定層エリートが存在するのと同じようにまだまだ「特別」なこと。私が問題にしたいのは、そのような特別な学校ではなく、それ以外の一般の学校でなぜICT化に向けた準備が間に合っていなかったのかということ。世界的に見ればオンライン授業ができる環境にあることや、それを見据えたインフラ設備が整っていることはすでに特別なことではないはず。ハザマに落ちた今、その落差にこんなに慌てているのに、どうしてそれに今まで気づかなかったのか。または気づかぬふりをしていたのか。
どのようにすればできるかは思考停止状態の様子。私自身、アメリカで見てきた学校現場のテクノロジーの活用の様子をもっと発表したかったけれどできる機会もあまりなく、近くに誰も聞く人がいないならと、私がnoteを始めたのにはそんな理由もある。
語弊のように断っておくが、新しいことに挑戦される先生ももちろんいる。しかし、私の経験から言ってそのような先生方はとても限定的で、多くは無関心で、変化への意欲が異様に低い、または低いように見える。このある意味私自身の偏見を超えるようなムーブメントがない背景には教師として勤務を重ねる上でできるなんらかのステレオタイプが教員の自由なメンタリティの足を引っ張っていると言わざるを得ないのではないかと思う。
日本のようにトップダウンで、ヒエラルキーがはっきりしていると、個の単位で変えられることなんてないと思ってしまう。個より集団を重んじる文化も相まって「今まで通りやってればいい」「自分の意見を言ってもしょうがない」という雰囲気が教員の間に蔓延し、まさに、麹町中学校の工藤校長が言っていたような「手段の目的化」が起こる。
つまり、何のためにやっているかがわからないまま進むことが当たり前になって行くのだ。だから、生徒は携帯を使って様々な情報に簡単にアクセスできるのに、学校ではチョークと黒板で教科書を使ってみんなで一緒に授業することが平然とできる。そこに、批判的思考も想像力もない。だって一個人にできることなんてないんだから(諦め)。自分の責任でも誰の責任でもない(責任転嫁)。まさに「教育における空気の力」だと思います。
実際、校長ですら、教育委員会の指示や許可がないと出来ることなんて本当に少ない。一般的な校長のリーダーシップとは「「決められたことを決められたように遂行できるよう、的確な指示を出すこと」。
おそらく、それはそれで価値のある能力である。決まったことを決まったようにするだけで良い社会においては。しかし、もはや日本ですら多様な時代。コロナという世界同時多発的に起こった危機により、公教育制度にもひびが入った。そして、それは現場にいる教員全員が今感じている。「既存の教育枠組み」と「新しい教育枠組み」の間でもがいているのが今の私たちではないか。
「言われたことを正確に言われた通りにするだけの」ループにある学校ではイノベーションは存在しないし、学校環境そのものがディスエンパワーメントの場である。生徒たちは、卒業したら自分の力で生きていけと言われるが、学校は彼らに何のスキルを与えてあげているだろう。新しいこと、世界に目を向けることなんて二の次だった今までの公教育。コロナ以前の教職員の感覚としては、インターネットを使って授業することやオンライン授業なんてきっとクレイジーぐらいにしか思っていなかったんだろうと思う。
ポストコロナはまぎれもない多様な時代。生徒が自分で考え、今までなかったような答えを導いていかなければならない。学校の役割とは、いかに生徒をエンパワーし、社会を変えて行けるうような人材育成ができるか。全く新しい生徒のスキルや能力が必要になるだろうし、それを支える教師もハザマから抜け出して行く強さと固定観念にとらわれず自ら考える力や行動力が益々求められるに違いない。
ちなみに、4月27日実施の中教審が史上初のオンライン開催とか。コロナ禍で変わる教育の姿が参考資料にも書かれており、必読もの。