Horkheimer/Adorno「言語と認識についての討議(1939)」(仮題)
0. 編集者によるまえがき
議事録はグレーテル・アドルノによって書かれたが、1939年10月13日付の2番目の議事録だけは例外で、その複製品質は他のものに比べて明らかに劣っている。「T」と「M」はそれぞれテディとマックスを表す。2番目のプロトコルでは、「W」と「H」はそれぞれヴィーゼングルントとホルクハイマーを表している。印刷物では、この情報はADORNOとHORKHEIMERという姓に統一されている。第2プロトコルでは、「L」という略称も時折使われているが、これはレオ・レーヴェンタールを指しているらしい。
一連のディスカッションは、厳密に定義されたテーマに沿って行われることは通常よりも少ない。最初の議論では、パネリストたちは、本巻に掲載されたホルクハイマーのテキスト「繋辞と包摂」に言及する。[2]、[6]、[7]の議論は、1940年に出版されたフッサールに関するアドルノの著作に密接に関連している。残りの論考は、より大きな著作—この計画から『啓蒙の弁証法』が生まれる予定であった—と、いわゆるマニフェストの議論に捧げられている。しかし、この「マニフェスト」は、批判理論としてのマルクス主義の基本的特徴をプログラム的に提示することを意図していたようだが、このような形で最終決定されることはなかった。
1. ホルクハイマーの原稿「繋辞と包摂」を受けての討議(1939/10/2)
アドルノ:完璧な問題設定というのは、繋辞〔Kopula〕の存在論的高位を前提としています。決定的なのは、そうした繋辞の存在論的高位が存在するのかどうか、そして、繋辞一般が何も含んでいないような基準がどのようにして実証主義の主張と両立するのか、という繋辞の分析を故意に立証せねばならないということです。
ホルクハイマー:論理学とドイツ観念論の歴史の中で、繋辞というのは実際に主観概念の本質に通じていることは確かです。例えば、この主観概念は人間であります。種属概念は本質として機能しますし、個々の本質を本質に従属させ、現実を本質に転用する機能を繋辞は持っています。本質の下に個々の本質を包摂すること〔Subsumieren〕は、個々の本質を破棄することと同義です。「現実は単純に本質である」のです。個々の本質は語り〔Sprechen〕の中で抹消されます。ヘーゲルのもとでは次のように言われます。すなわち、もはや包摂不可能であるものは、堕落した存在〔Existenz〕である、と。
アドルノ:根本的な思想はこうです。つまり、存在の意義というのは、常に存在が述べられ〔ることで〕存在が存在するとき、すでにそこにあったものが何かしらへと落ち込んでいくのだということを主張するという方法によって、原理的にある一定の関係を描き出すということです。
ホルクハイマー:問題なのは、存在の解明、つまりとにかく存在する何かについて言われるとき、実際に生じた試みについてです。
アドルノ:その何かは根本においてすでに、同一性〔Identität〕の契機を、本質の下で特殊なものを包摂するものとしての存在に差し出しています。いまここにあるもの〔was jetzt hier ist〕は、存在と同一であります。と同時に、存在の概念は、同一性の機能に完全に還元されてしまっています。
ホルクハイマー:いいえ、違うと思います。私が「彼は強烈な人間だ」と述べるとき、私は他の人間に単に何かへの注意喚起をしているだけであります。〔何かしらの〕意図に従って私は「ここ」〔hier〕を包摂しているわけではありません。そうではなく、いわば新たなものがすでにそこで生起していたもの〔Dagewesenen〕の形式の下で「このいま」〔nur〕を告示しているのです。
アドルノ:あなたの理論は言語に対するとてつもない攻撃ですね。言語のうちに存在するものは、よりいっそう弁証法的にはならないということでしょうか?私が何かに名付けるとき、言語のうちに存在するものは、いつでも分析的な機能でしかないのでしょうか?ありうる場合全ての中で繋辞は、言語のうちに存在するものを意味するのでしょうか?
ホルクハイマー:繋辞がいつでもそうしたことをするわけではないのだとしたら、ひとは多元論に向かってしまいます。ときに繋辞が〔分析的な〕機能を持ち、ときに機能を持たない場合もあり、それと同時に、私が統一論理と名付けたものが崩れ去ることだってあります。そのとき他の関係はどのようにあるべきなのでしょうか?私は言語に大いなる尊敬の意を示し、言語を大真面目に使用します。
アドルノ:ヘーゲルのもとでは、次のようなモチーフがあります。あらゆるものは存在するものであるのと同時に、存在するものではないのだ、と。
ホルクハイマー:しかし、このモチーフは、根本においていつまでも持続する修正プロセス、すなわち絶えず具現化され細分化された同一化作用〔Identifikation〕であります。しかし同時に、完全な体系は、存在するもの全てを包摂する結果になり、存在が顔をのぞかせます。実際、ヘーゲルのもとで「〜である」〔ist〕というのは、存在そのものによって論述されます。言語は存在するものを表示する必要がある、ということがそれとともに十中八九除去されねばならないような表象を、私は依然として持っているのです。
アドルノ:なるほど、それでも、思考のこうした方法が、同時に“es ist”という形式の下で「このいま」存在するものを超え出る唯一の可能性をそれ自身の内に取り囲んでいるということもまた、可能であるのかもしれません。本来的に同一化作用の方法などでないのかもしれないような批判を、私は想像できません。このようにして、私たちが生活する場である論理〔学〕は、現実の前に立ちはだかる壁となります。しかし、その壁を遥かに凌ぐものが同時にその壁の中に留まるような方法とは異なっては不可能であることの内に、ひとは閉じこもっています。あなたのテキストは、ひとは本来的に他の言語を持たねばならないかのような感情を呼び起こします。
ホルクハイマー:私は、この感情が事象の一側面でしかないことを信じていますが、他なる言語を指し示すことはかなり難しいです。唯名論的な逃げ道はお粗末であり、無限なるもの〔Unendliche〕における悪しき後退であります。
アドルノ:この原稿は存在論と唯名論を区別していますね。私は、もし繋辞の分析が正しいのならば、存在論と唯名論の区別それ自体が消失することが帰結として生じることになると述べることになるのかもしれません。これらは再認識〔Wiedererkennende〕と包摂の両方を持っています。
ホルクハイマー:この点については私の著作の中で述べられています。
アドルノ:ですが、それと同時に存在論と唯名論の違い一般が生じうることが考慮されることはないのかもしれません。
ホルクハイマー:存在論と唯名論は両方とも構造を受け入れています。
アドルノ:存在が同一性の機能にほかならないのだとしたら、そのとき存在論と存在の形而上学的な概念を語ることは一般に何と呼ばれるのでしょうか?存在の概念に実体性が付与されうるのはなぜでしょうか?
ホルクハイマー:言語というのは、解釈〔Deuten〕へと還元されます。
アドルノ:存在がすでにここに〔da〕あったものの下では包摂でしかないのならば、あなたが急き立てる存在論的な重みは、なおも存在一般の概念に認められうるのでしょうか?
ホルクハイマー:しかし私には、この存在、つまり事物や自然なるもの〔Naturding〕の暗示には別の何かがあるように思えるのです。もし私が類的存在、すなわち既知ないし古の事物の存在について語るのならば、いわばその中であらゆるものが古きものと共存せねばならないような永遠なる自然によって持続は、その〔語りの〕中に隠れてしまいます。
アドルノ:論理学者が、存在のこうした要素を、同一化機能の単なる呪術化〔Fetischisierung〕と名付け排除することによって、少なくとも彼はこの持続の解明が可能になるのでしょう。
ホルクハイマー:しかし、道は正反対の方向を向いています。加えて、呪術化された同一化機能が最初に存在するのではありません。永遠もしくは実体的な存在についての信仰が初めに存在しているのです。そして、この信仰が根底にある限りにおいて、同一化機能一般は構成されうるのです。現実に基づいて神々が発見されるのではなく、一義的な現実一般の概念が最後まで誇示されうるのと同時に、神々は前提されるのです。私は、同一的な存在を神話化せず、同一的な存在に意味〔Bedeutung〕しか付与しません。事実、私はこうした出来事へと引き返しています。
アドルノ:論理学と神話の星座的布置〔Konstellation〕ですね。論理学は神話的です。論理的思考は前論理的思考です。体系としての論理学の強制は、ひとが陥った自然の強制の契機であります。それと同時に、もっとも論理学については二つの解釈がありえます。
①繋辞は、総じて何も意味しないということです。実証主義者らは機能的空位〔Leerstelle〕を表しています。
②言語は、盲目な自然の固く保持されたもの–生成〔das Festgehalten-Werden〕によって委ねられているということです。私は、固く保持されたもの–生成から自然の事物をもぎ取ることで、いわばこの固く保持されたもの–生成を再び自然のなかに突き戻し、同時に私がそれを包摂する原理である自然こそ、一様にこの固く保持されたもの–生成であるということ以外は何も言っていません。
ホルクハイマー:この世界で言語は、常にあらゆるものを一様に悪しき秩序に関連付けてしまっているように思えるのです。まるで世界がこの悪しき秩序それ自体を表現するように、です。しかし、良い言語というのは、その言語がもはや必要ではないのかもしれないような、より良い世界の中でのみ姿を現します。全体としての言語がこの世界を超え出る何かを送り出すようなより良い世界というのは、いつでも言語的に論拠を示すことができるのです。
アドルノ:全体性の機能としての存在は、実際には実証主義におけるそれのように、全くの無であるとヘーゲルは述べています。そこからヘーゲルは、存在というのはどうじにまた、無でもあるのだ、ということを推論します。存在はその推論によって存在が存在しないという、こうした包摂に他ならないということによって、そこから存在を他のものにする苦痛の種というのは、それ自身の内で定められた包摂原理に添えられるものなのでしょうか?
ホルクハイマー:存在は存在であると言われることによって、存在は結局のところ、すでに繰り返し否定されています。しかし、もはや存在は、存在が存在することにはなりません。存在、無、そして生成の弁証法は、ヘーゲル弁証法全体の中でいわば特殊な地位を占めています。ヘーゲルは言います。ひとが何かを包摂するとき、属というのは通過点の種類であることしかありえない、と。ただ、存在の同一化、そして存在と無の同一化を措定することは、後から生じたすべてのものよりも抽象的であります。
アドルノ:ヘーゲル論理学の端緒は次のように呼ばれますね。すなわち、存在、つまりあらゆる細部を規定することのない存在である、と。命題などではありません。この命題は、繋辞というものを「tode ti」〔『カテゴリアイ』における第一実体の表現〕に適用することなくその抽象性の中に立てるのです。ヘーゲルのもとで存在に着手したのは偶然などとは思っていません。その意義は、「tode ti」から存在を際立たせることにあるのです。
ホルクハイマー:秘密、つまり最上位のカテゴリーは自身にとって、そして実質的に比量的な論理学全体にとって存在であり、繋辞はそれ自身の下で包摂されていなければなりません。
アドルノ:無もしくは自然のどちらかは実体化されています。これらは、管理上のものではない何かが総じて述べられうるか思考されうることが不思議なことであると述べたのです。私は、こうした「〜である」〔ist〕の完璧なまでの無価値さは次のような事実でしかないと述べることになるのかもしれません。すなわち、存在というのは規定された何かに従うことにほかならないのであり、それゆえ、ある意味で、実行された操作とは反対の方向に向きを変えたのだ、という事実であります。また、こうした包摂はなにものでもないということが論理学の中に隠されています。こうした包摂の無–存在〔Nichts-Sein〕は、どの個々の同一性であっても病気に冒されるということを意味します。まさにヘーゲルは、そこにある内容を持たない存在概念が全くもってとるに足らないものであること、そしてどの有限な包摂も偽もしくは不十分であることを認識していたのでした。
ホルクハイマー:ですが、ヘーゲルのもとでは、持続的な訂正が存在します。隔絶されたどの命題も不適切であります。ですが、それでも言語は、存在が最終的に再び良くなるものとして、相応の権利を再び与えられるのです。しかし、存在が最終的に良くならないのだとしたら、諸命題はその意味を失います。
アドルノ:ヘーゲルは、論理学の始まりに実存的な要求を据えなかった点で、全く抜け目がありません。彼は実際に現象学〔Phänomenologie〕を作り出したのです!事実、彼はその端緒で存在を口にしましたが、この存在は、存在自身を自分自身から陳述しないという試みを率直に表しています。確実にひとは比量的な論理学から抜け出ることはできませんが、他の方法で、ひとはこの論理学を超え出ることができます。
ホルクハイマー:語ることの畏怖は、述語的な思考を前にした畏怖と関連していますね。
2. フッサールの遺伝子論理学。言語の根源的機能としての名付け(1939/10/13)
ホルクハイマー:形式論理学と遺伝子論理学の相違は重要に思えます。というのも、遺伝子論理学は、弁証法を持ち込む試みであるからです。フッサールにとって遺伝子的かつ超越論的〔という用語〕、そして遺伝子現象学というのは、ほとんどフッサールのものであります。遺伝子論理学の落ち度は次の点にあります。すなわち、判断といった何かしらから構造を、虚構の主体の中で基礎づけようとした点であります。
アドルノ:形式論理学それ自体がそうであるように、こうした超越論的主体の選択は、様式の中、精確には虚空の中で宙吊りになっています。真理の性格が失われる場である経験を前にした不安から、フッサールはこの超越論的主体を抽象化してしまっています。
ホルクハイマー:彼による遺伝子論理学は、本質的な意識心理学と同一ですね。
アドルノ:形式論理学を超越論的に基礎づけようとしたフッサールの試みは、思考は思考であるように、トートロジーという結果に陥ります。
一つ目の意味は理論〔の中でのトートロジー〕であります。
二つ目の意味は、いくつかの思考作用〔Denkakt〕の遂行としての思考、抽象的な主体つまり超越論的自我〔das transzendentale Ego〕に適用された思考〔……〕すなわち主体理論の構造〔の中でのトートロジー〕です。
ホルクハイマー:この理想は、純粋にカント的なものですね。遺伝子心理学というのは、それなくして当該の諸構造が実現されたとは見做されえない、心理学それ自身の機能を示しています。
アドルノ:一方を他方から基礎づける試みは、すでに不条理なところがありますね。
ホルクハイマー:我々は、一方を他方から基礎づけようとはしません。主体との関係など、もはや我々の関心の範囲外であります。むしろ、我々は初期の『論理学探求』に戻りたく思います。
アドルノ:構成的主体は存在するということが判明した、フッサールについての批判は『論理学探求』の範囲で推し進められるということはありえるのでしょうか…???彼が論理的な形式主義を基礎づけようと試みたときに媒介とした形式主義というのは、決められた内容に関する前提諸条件を持っています。彼が成したことといえば、観念論の立場を最後の最後まで推し進めるといった試みです。そこで我々は、観念論が転換した時点を決めることができます。
ホルクハイマー:そこで彼が成したのは、例えば何があるのでしょうか?フッサールは、論理的な意味における主体について、遂行の一連が継続される中で同一であるものとして語っています。このことは、すでにこうした同一のものを、およそ次のような理解されたものとして仮定しています。すなわち、これら遺伝子構造によってはじめてその理解が解明されねばならないようなものであります。
アドルノ:完全にカテゴリー的であるような物の見方というのは、そこから構成されています。フッサールは次のように述べています。「自己疎外の契機は、思考を決して理解しなかった。その中でこの契機は、進歩した観念論の背後に取り残されているのだ」と。
ホルクハイマー:実を言えば、私は第一に〔このことを〕制限しようとしていました…。
アドルノ:フッサールは、どの判断もそれ自身の意味に従って、たったひとつの〔自分の〕創世記を自己のうちに引き受けていると述べています。
ホルクハイマー:このことは、カントが超越論的演繹の中で行ったことですね。純粋に超越論的な哲学というのは〔……(不明)〕。
アドルノ:自発性の概念がそこから引き離されているような〔……(不明)〕。
ホルクハイマー:しかし、そこでフッサールは、同一化作用といった機能の中に再び戻ってきます。
アドルノ:フッサールはあとになってハイデガーによって薄められてしまいましたが、彼による仮初の具体的表現を引き受けています。
ホルクハイマー:さらに、自発性というのは、カテゴリー的な物の見方にあります。〔……〕と同時に、我々は何もできません。私は次のような問いに戻ろうと思います。つまり、構造が探求されることによってではなく、こうした〔構造の〕言語的なもの〔Sprachlichen〕が探求され、一般に、私が何かを述べることができるというのは、何を意味するのか?という問に付されることによって、言語機能の意味は〔概念〕把握されねばならないのです。このことは、現在を顧慮することで、いつでもこのいま〔nur〕〔において〕規定されえます。現在、言語は科学的で政治的である限りにおいて、こうした次のような分類分けと固定化を意味します。すなわち、我々がそこから超えることができないような科学的な言語機能として、私が示したい分類分けと固定化であります。
アドルノ:我々は経験と理論の関係についての問いを引きずり込まねばなりません。我々が作り出した諸事物は二つの根源から供給されます。一つは、弁証法的理論の広範な形成という根源であり、もう一つは、我々が作り出す経験という根源であります。こうした二つの根源の伝達〔関係/コミュニケーション〕は、我々のいくつもの方法論にとって本質をなしています。
ホルクハイマー:弁証法的理論一般は、どの程度なおも理論であるのでしょうか?我々が理論と口にするとき、それ〔その行為〕はすでに偽であります。理論というのは強固な諸原理からの演繹です。アメリカ全体で経済理論、一般に弁証法的-唯物論的理論はいつでも経済的なものから理解され、演繹されています。この経済的なものは、総じて呪術的な何かをそれ自体で持っています。我々が行った最近の対談以来、唯一の進歩、いや〔思うに〕語ること〔Sprechen〕一般というのは、我々が今日それを理解できているような意味において、常に批判的であります。おそらく言語というのは、一なるものに強固な何かを示すことができます。言語がこの強固な何かを示すことで、同時に言語は、その強固な何かの歪みを正すのです。
アドルノ:言語は神話とは反対の方向に向けられています。と同時に、そこから除外されてしまったものの内部にある否定性〔Negativität〕は、言語の肯定〔的機能〕の中に隠れています。
ホルクハイマー:それと同時に、この除外されてしまったものとともに名付けられうるものというのは、すでに概念把握されています。私が「これはこれである〔das ist das〕」と口にするとき、いわば〔完全に〕その命題の中に沈んでいくものは、必然的にこの命題の中に隠れているわけではありません。
レーヴェンタール:存在は存在である、ということですか。
アドルノ/ホルクハイマー:いいえ、違います。
アドルノ:存在がすでに名付けられているとき、はじめてこの存在は「存在は存在である」という様相を呈するのです。存在は存在ではない、というものとは別のもの、すなわち言語の中で現れ、言語を通じて一定の意味の中で変化させるものに応じて存在が保持されているものは、言語を生産することの内に隠れてしまっています。言語というのは、諸事物が名付けられたとき、それらから言語の驚き〔Schrecken〕や力〔Macht〕を奪い取る場であるのです。
ホルクハイマー:私は、こうした事態は好転しうると信じています。
〔……〕
レーヴェンタール/アドルノ:言語の魔術的機能と反魔術的機能ですね。
ホルクハイマー:それらは唯名論と実在論の間にありますね…。その点で唯名論というのは、ものを言う人間は同時に人間的な何かが事物のもとで生じねばならなかったものを知らねばならない、という実在論〔の主張〕を補う必要があるのかもしれません。あらゆる言語的機能は、こうした残酷で存在論的な機能を実現させることを当然必要とすることなど決してありません。名付け〔Benennen〕のもとで名〔Name〕というのは、事象と同一のものとして把握されることなどありえないのです。
〔……〕
〔アドルノ?〕:言語はその意味において、常に何かしら主体と客体の間の緊張関係を含んでいますね。それによってはじめて弁証法は可能になります。
ホルクハイマー:唯名論と実在論は、両方とも同じように真ではありません。実在論はこう考えます。言語はいつでも厳密に物事を表現するのだ、と。唯名論はこう考えます。言語は何ものも適切に表現することはないのだ、と。正しさというのはその真ん中にあります。私は、この正しさを大いに役立つようには見ることはありませんが。そして、言語の中で行使される綜合的機能の意味についての理論それ自体は、概念把握されねばならないのかもしれません。この理論は、正しく完結することなどありえない人々の関係を構成することによって、反-観念論であるのです。
〔……〕
この烙印は「これはこれである〔das ist das〕」を意味しません。そうではなく、「同時に私は何か〔誤り〕を締め出した」ということを意味するのです。これは、ヘーゲルが肯定的否定〔positiver Negation〕の下で理解したものであります。
アドルノ:このことを私はステレーシス〔欠如態/Steresis〕の契機とともに示そうとしました。
ホルクハイマー:と同時に比量的な論理学が超克されることはありませんでした。
アドルノ:我々は事物について同じ考えをもっていますね。
––––ステレーシスについての議論へ––––
アドルノ:もしもこの概念が事物を規定するのなら、事物でないようなもの全てから際立ったものは、その〔概念の〕中に隠れてしいます。
ホルクハイマー:私は、貴方が同時に差異についてのカント的な機能を想定していたのだと考えています。我々が差異についてちょうど同じように考えていても不思議ではありません。批判というのは識別することであります。
アドルノ:私が何かについて述べるとき、私はその何かを識別します。というのも、私は同時に何かであり、かつ、何かでないと述べているからです。
レーヴェンタール:包摂ですね。
アドルノ:私が包摂の行為を名付けの行為に対置せねばならないのはなぜでしょうか。
ホルクハイマー:仮に私が「これこれはある事物である」と述べるとしましょう。そのときこの言明は、同時に思考プロセスが今さらに進まねばならないということの内に隠されてしまいます。さしあたって私はこうしたヘーゲル的なイメージを持っています。というのも、こうした言明は、全体などではない孤立した断言でしかないからです。暫定的な契機について言えることは二つあります。一つは、それは全体ではないということ。もう一つは、それは主観的であるということ、であります。まだこれは正しい形式化ではないのですが。
アドルノ:そこで私は、「これは暫定的な何かだ」という言明がいくらか心理学的であると述べることになるのかもしれませんが…。
ホルクハイマー:どの言明の中でも矛盾は存在します。というのも、個別的なものは種属と同等に扱われるからです。
アドルノ:課題は判断機能の意味です。我々が「これは机である〔dies ist ein Tisch〕」と述べるとき、我々が解明しようとしている綜合的機能の全体は「これ〔dies〕」の中に隠れてしまいます。「これ」は、常に意味機能〔Sinn-Funktion〕に隠れています。言語それ自体を組織的に構成することが分析されねばなりません。
ホルクハイマー:これはこれと同一である〔das ist dasselbe〕とカントは述べています。
––––カントについての討議へと進んでいく––––
ホルクハイマー:結局のところ、諸判断は単純な解釈から理解されねばなりません。解体された述語は、単純な名付けからでしか理解されてはなりません。単純な名付けというのは、引き続きあらゆる判断の中で分解されたものの根源的機能であります。問題全体は、名付けの中にあります。後に細分化された諸言明は、細分化された名付けでしかありません。カントはすでにこれを見て取っていました。こうした問題全体は、私が知覚を鋲止めしていることの内にあります。
アドルノ:それゆえ、この問題は精神の問題になるのですね。
ホルクハイマー:我々が原始的なものをイメージするとき、名の叫び声〔Ausruf〕というのは要するに何なのでしょうか?どのみち再認識すること〔Wiedererkennen〕でしかありません。この再認識とは、名付けることであります。言語が現れるようなところで、この名付けというのは想起〔Erinerung〕であるのです。
アドルノ:聖書ではアダムが本質に名を与えました。
ホルクハイマー:そうです。ですがこの本質はエデンの園に、つまり原罪〔Sündenfall〕の「前に」あるのです。
アドルノ:事実、アダムは原始の人間であったのですが、彼が始原の犬を犬として認めたとき、彼はこの犬を犬として再認識することはありません。
ホルクハイマー:このことについて私はここで触れることはできません。
アドルノ:アダムは実際には何をしたのでしょうか?
ホルクハイマー:アダムが事物に名を与えたということは表象されえません。これは言語では作り出せないものであります。
アドルノ:アダムが犬に犬と名付けたとき、この犬はここから犬であります。
ホルクハイマー:アダムが言語を持ち上げることは全くありませんでした。というのも、彼は一人だったからです。はじめてこのことを言語化したのは、彼が樹木を指し「樹木」と述べ、エヴァがそれを後で反復したときでした。この二つが言語には欠かせません。
〔……〕
アドルノ:今日、大抵の知的活動は人間を愚かにする傾向にあります。
ホルクハイマー:神の名を呼ぶことを禁止するということは、その名を通じて人間が自身の持ちえない力〔Macht〕を不当に行使するだろうということを実際に意味しているのかもしれません。
アドルノ:この禁止は、分量についての論理があらかじめ指示された遮断棒ですね。
ホルクハイマー:名付けとともにこうした禁止は自身の驚き〔Schrecken〕を失うだけでなく、新たな驚きをも生み出します。名は恐ろしいものでありうるし、人間を無に帰せしめることだってありえます。
アドルノ:このことは、自然と社会の対立についての問いとは同一ではないのでしょうか?名付けとともに対象物は、自然の対象物としてその驚きを喪失し、社会的対象物の驚きを受け入れることになります。ある人間が癌を患ったとき、この癌は自然現象というより、人間を驚かせる社会現象であることのほうが多いです。
ホルクハイマー:医学上のカテゴリーの下で癌の消滅を名付けることは、生きとし生けるものを繰り返し結びつけるための媒介である手段〔Mittel〕であります。いわば棺桶の蓋はクギで打ち付けられているのです。
アドルノ:「戦争」のもとでも同じことが言えます。恐怖は法学上のカテゴリーの下からもたらされるのです。
ホルクハイマー:この点で我々に恐ろしく思われるのは、こうした言語的関係とは結ばれることなどほとんどないであろう思考プロセスが、こうした言語的関係と結びつけられることであります。