毒育ちが語る映画『パラサイト 半地下の家族』
(画像は公式サイトより引用)
ポン・ジュノ監督は『殺人の追憶』や『母なる証明』 を通して、つい目を背けてしまうような黒い心情や行為と真正面から向き合い、それを余すことなく描き切っていました。 そのような作品を生み出すには、相当な《熱量》が必要だと私は感じ、その熱量こそが人の心を動かし得るのだとも知りました。
それから数年が経ち、カンヌ国際映画祭、そして先日のアカデミー賞でポン・ジュノ監督最新作『パラサイト 半地下の家族』が作品賞を受賞しました。本作もまたポン・ジュノ監督の溢れんばかりの熱量が凝縮された傑作でした。 僭越ながらこの素晴らしい作品を毒育ちの目線で紐解くことで、細やかな祝辞とさせていただきます。
※ネタバレ全開かつ鑑賞済みを前提としています。予めご了承ください
※本作はぜひネタバレなしでご覧ください
※観賞したのは一度のみなので誤表記、記憶違いがある可能性がございます。あらかじめご了承ください
愛があるが金はない──半地下の家族
キム一家の長であるギテクとその妻のチュンスクは失職中。長男のギウは幾度も大学受験に挑むが失敗、長女のギジョンも美術大学への進学を夢見るが叶いそうにもない──。
親の怠慢によって子供が割を食うのは鉄板の毒親エピソードですが、不思議なことにキム家にはそれ特有の悲壮感や恨み辛みを感じませんでした。ギテクもチュンスクも置かれた境遇を仕方がないくらいに思っているようですし、ギウもギジョンも進学できないことで親を恨むような素振りもなく、むしろ半地下の生活をどこか楽しんでいる様相すら伺えました。
いかなる状況でもキム一家は自分たちや他の誰かを恨むことなく、目の前の一日をどう過ごすかを必死に模索していました。今手元にあるものでどうにかする、枠の中で効能を最大限にする、そのような気概をキム一家は持っていたのかもしれません。何よりもそこから家族間の強い信頼や絆を私は感じ取ることができました。
愛があるが金が全くない──地下夫妻
地下に住み着いていた夫のグンセは台湾カステラ事業の失敗によって多額の借金を背負ってしまいました。 その事実を知ったギテクは、「もし自分が借金をしていたら、地下に居たのは自分だったかもしれない」と思ったはずです。
地上、半地下からも零れ落ちた人は最後の最後に地下に辿り着く──それでも死ぬよりもマシ、生きてなんぼ。そう腹を決めた妻のムングァンは夫への愛と強い意志を以てして、夫を勤務先である家の地下室に匿いました。地下夫妻の愛情と信頼関係はキム一家のそれを遥かにに上回り、もはや次元が異なります。
ただ、彼らにはお金が“無さ過ぎ”ました。その原因が本人の過失と言うよりは、不運なことに荒波に飲み込まれてしまったゆえだと考えるとその不条理さに胸が痛みます。ある程度のお金さえあれば、夫婦で慎ましく幸福な生活を送っていたに違いないと思えるからです。
金はあるが愛がない──丘の上の家族
キム一家の《寄生》先であるパク一家は、誰もが羨むような豪邸に住んでいますが、大手IT企業の取締役を務める家長のドンイクにはそこはかとなくサイコパス感が漂い、その妻であるヨンギョは典型的なトロフィーワイフです。彼らの共通点は、「金さえあれば何でもできる」という超資本主義的思考です。その思考よろしく金にものを言わせて教育ごっこ、家族ごっこに興じているだけで、そこにはキム一家や地下夫妻のような信頼や愛情の類は伺い知れませんでした。
《寄生(パラサイト)》と《尊重(リスペクト)》
キム一家が裕福なパク一家に就職と言う名の《寄生(パラサイト)》をすることが作品の本筋となっていますが、本当に彼らは寄生しているのでしょうか。
き‐せい【寄生】 の解説
1 ある生物が他の生物の体表に付着または体内に侵入し、そこから栄養をとって生活すること。付着または侵入されて害を受けるほうを宿主 (しゅくしゅ) という。「回虫は人体に寄生する」
2 他の働きなどに頼り、生きていくこと。「芸能界に寄生する」
goo辞書より抜粋(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%AF%84%E7%94%9F_%28%E3%81%8D%E3%81%9B%E3%81%84%29/)
キム一家の腹の内はどうあれど、パク一家が満足する仕事をこなしてその対価として報酬を受け取っていたのですから何ら問題ないはずです。
視点を変えて、本作でパラサイト先とされているパク一家を分析してみましょう。 パク一家は作中において、一度も自分たちの力のみで物事を完結させていません。つまりパク一家は運転手、家政婦、家庭教師を務めるキム一家がいなければ、一日を過ごすことさえままなりません。本来パラサイトとされていたはずのキム一家の働きに依存しているパク一家こそがパラサイトであると言えましょう。
経営者と従業員、雇用主と被雇用者、顧客と店員。そしてパク一家とキム一家。一見すると従業員、被雇用者、店員がパラサイトと思われがちですが、経営者、雇用者、顧客こそ従業員、被雇用者、店員がいなければ困ることは目に見えています。それを常時肝に命じなくてはならないですし、だからこそ《尊重(リスペクト)》が必要になります。
そん‐ちょう【尊重】 の解説
価値あるもの、尊いものとして大切に扱うこと。「人権を尊重する」
goo辞書より抜粋(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B0%8A%E9%87%8D/#jn-132082)
妥当な賃金と最低限の尊重さえあれば、従業員や被雇用者はある程度献身してくれるはずです。しかし自分の立場に固執したり酔い痴れたりして尊重を失うと、たちまち窮鼠に臍を噛まれたり、飼い犬に手を噛まれることになります。
地下夫妻の存在を知ってしまったキム一家は、自分たちの居場所を守るために地下夫妻を尊重する“余裕“などありませんでした。パク一家は言動の端々から常に他人を見下していましたが、もしかしたら自分たちの保身で精一杯だったのかもしれません。
余裕のなさから尊重の喪失が積み重なることで終盤では地下→半地下→地上と《復讐(リベンジ)》の連鎖が起こります。これは自分とその家族を守りたいゆえに、あるいは金や資本主義の波に飲まれて相手への最低限の尊重を忘れたことで起きた悲劇とも言えます。「金さえ払えばいい」「お客様は神様」という尊重の欠片もない言動を繰り返していると、いつかその身に火の粉どころか火の玉が降りかかるのかもしれません。
何よりグンセがあれほど《尊重(リスペクト)》していたドンイクは、その欠片も持たない人間だったのは皮肉以外の何物でもありません。
毒親になりえるのは
家族や子供に対しても尊重は必要で、むしろその気持ちをもっとも失ってはいけない相手だと私は思います。家族とは一番近しい他人であり、信頼関係を結ぶためにも尊重は必要不可欠だからです。私の毒祖母も含めて毒親のほとんどは、この尊重を持ち合わせていない人間と言えます。親だから、子供だから、家族だから、世間体が大事だから、といった下らない理由から子供や家族への尊重を平然と投げ捨てるのです。
キム一家は子供の生活を完全に保障できていない点、子供の進路や希望を頓挫させている点で毒親となってしまいます。しかし彼らは"たまたま"職を失っているだけで、まっとうな就職さえできればきっと息子と娘のために尽くすでしょうし、子供への最低限の尊重は顕在していました。作中の至る場面で、ギテクとチュンスクの子供に対する愛情や信頼を垣間見ることができたからです。家庭教師の面接に向かうギウに「お前は俺の誇りだ」とギテクは言葉を掛けますが、それは出任せなどではなく本心によるものでしょう。グンセによる凶行が起きた際も、ギテクとチュンスクは身を挺して娘のギジョンを守ろうとしました。
一方でパク一家は子供の生活や教育を完全に保障しているものの子供への尊重が欠けており、パク夫妻は二人の子供に対して真正面から向き合えていない印象を抱きました。
娘のダヘはおそらく前任の家庭教師(ギウの友人)にも色目を使っていたでしょうし、ギウの本心やその正体には目もくれずに彼と恋仲になります。ダヘは年上の男性を誘惑することで承認欲求を満たしていたのですが、それは両親、特に母親が弟にばかり構うことが原因だと思われます。
息子のダソンに至っては、夜中にキッチンに忍び込んだグンセを見て失神するほどの恐怖を覚えたのに、それを“幽霊の仕業”と半分笑い話で片付けられました。その恐怖を受け入れてくれなかったショックから、ダソンは奇怪な行動や両親の気を引くような言動が目立つようになったのではないでしょうか。(それ以前に発達障害の気質があるように見えましたが)
親子間のみならず、ドンイク、ヨンギョの夫婦間においても互いへの信頼や尊重を感じられませんでした。金の力で絶妙なバランスを保っている内はいいですが、ひとたびそのバランスが崩れたら瞬く間に関係性が破綻するような脆さも常に漂っていました。
どちらの家庭においても子供たちが傷つく可能性は大いにありますが、すでに子供が傷を負ってい可能性がある点で毒性がより強いのはパク一家だと私は思います。キム一家は少なくとも尊重をはじめ、そこから派生する子供への愛情、信頼と言った《養育の本質》を手放していないと判断したからです(『毒の連鎖』参照)
資本主義の世界では金さえあれば何でも手に入りますが、尊重から育まれた真の信頼や愛情は決して買えません。そういった意味では、主を喪ってしまったパク一家の今後が私は不安で仕方がありません。ヨンギョは遺された子供たちに一体何を教えられるのでしょうか。メイクと整形と金持ちの男との出会い方くらいしか私は思いつかなかったからです。
総括
パク一家の不在中に我が物顔で羽を伸ばしていたキム一家。酒が回って心地が良くなったチュンスクは、「金は心のシワを伸ばすアイロン」と言いました。確かにお金はあるに越したことはありませんが、いかなるものでも過不足は時として毒に転じます。 行き過ぎた愛情は地下夫妻の存在を生み出してしまったし、有り余る富はパク一家から失ってはいけないものを奪い去りました。
程々の愛と金と、多少の不便、そしていかなる相手に対する《尊重(リスペクト)》が生活を豊かにするのだと私は思います。経済的問題さえクリアすれば、今作においてはキム一家がその条件にもっとも合致していると考えられます。
金があるから幸せ、良い教育をすれば成功するという固定概念は通用しませんし、その金に目が眩んで子供を見つめられない親もいれば、重すぎる愛情が子供を苦しめている可能性もあります。 どんな時世においても親が子供を愛し、信頼し、誰に対しても尊重を忘れてはならないことは普遍的な訓示でしょう。 しかし尊重が欠落した人間を責めるのもまた間違っていると思います。彼らは目に見えないうねりや荒波、逼迫した環境によって余裕と尊重を失っただけかもしれないからです。 ただ本作ではそれが原因で凄惨たる悲劇の連鎖が引き起こされてしまったのですが。
現実世界においても今日もどこかで尊重を忘れてしまったことで誰かが傷つけ傷つけられていると勝手に想像しては、勝手に胸を痛めています。いや、むしろそのまま想像であってほしいとさえ思います。 SNSで毒親と検索すればその実例が無限に溢れてきますし、今こうして私が記事を書いている間にも誰かの悲痛な叫びがあちこちで上がっています。
それを一つ一つ拾い上げる度に、こんな世の中ならば爆発して消えてしまえばいいのにと子供染みた考えが頭を過りますが、生き長らえた者はどんな状況でも生きて行かなくてはならないんですよね。
亡くした家族の命を心ゆくまで悼む暇もないままギジョンが眠る簡素な墓の前で泣いたチュンスクや、ギテクからのモールス信号を受け取ったギウのように。
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今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回は毒親に関する考察を予定しています。
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