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毒育ちが語る『リメンバー・ミー』

(画像はいらすとや様より引用) 

 かねてより複数の友人から勧められていたので観賞しました。当初は毒目線の感想を書こうなどまったく考えていなかったのですが、開幕から毒親(家族)案件で正直驚きました(笑) 周囲の評判通り良作でしたのでぜひ観賞をおすすめします。



※ネタバレ全開かつ観賞前提です。あらかじめご了承ください※


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(いらすとや様より引用)










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ミゲルの家族は毒なのか

 ミゲルの家は一見仲睦まじく協力し合っているように思えますが、私の目には毒家族としか映りませんでした。冒頭だけでも「あなたのためよ」の押し売り、ある先祖の悪口の吹聴、音楽や歌といった趣味、嗜好の制限、靴職人の道以外認めないという価値観の押し付けと毒行為の連続だったからです。個人的解釈ですが、祖母のエレナは不安型愛着スタイルの持ち主で、ミゲルの親を含めたその他の家族はエレナに忠実(というより彼女に丸投げ)な回避型の傾向が強いように思えました。
 ただミゲルは自分の感情に素直で大好きな音楽のためならば、家族との決別さえ覚悟していたことは不幸中の幸いでした。つまりミゲルは自分の気持ちを表明したことですでに家族と《対決※》したとも言えます。その素直さ(健全な自己愛)から生まれた勇気がミゲルを死者の世界と新たな道へと導くことになります。

※《対決》とは、毒親や毒家族に過去に抱いた感情や思い、今後の彼らに対する接し方、自分自身の意志等を直接伝えること。詳細は過去記事『不安定な愛着スタイルを持つ毒親たち』を参照。


死者の世界について

 ミゲルがたどり着いた死者の世界とは、俗に言う天国だと思われます。そこでミゲルは、現世への橋を渡れずにいたヘクター(実はミゲルのひいひいおじいちゃん)と出会います。現世で遺影を飾られていないと現世への橋を渡れないシステムとは、現実の日本における迎え火/送り火を焚く行為が近いのでしょうか。いずれにしてもご先祖様を想う気持ちが必要で、橋を渡れなかったヘクターは遺族からの尊敬の念を失っていることが伺えます。私たちも亡き祖父の遺影は飾っていますが、毒祖母が死んだとしても祖父の隣に彼女の遺影を飾る気なんて毛頭ないですし、迎え火/送り火も焚くつもりも更々ないです。だから死んだ毒祖母は、きっとあの通関所で足止めされますね。
 死者の世界では生前の社会性が大いに反映されており、死後もカーストや格差に晒されるなんて夢も希望もないと感じました。(死んだら皆平等ってどこかで聞いたことあるんだけどなぁ……) また、生きている人間に忘れ去られると《二度目の死》を迎えてその存在が完全に消えてしまいます。ヘクター曰く、彼らがどこに行くのかは誰にも分からないそうです。その仕組みに則ると、うちの毒祖母は“良くも悪くも”名だけは知られているので死者の世界でも案外しぶとく生き残るかもしれません。かく言う私こそ子供を設けるつもりもなく、交友関係も狭い人間ですから、比較的早く《二度目の死》を迎えると思います。想像するとちょっと悲しいですが。


大切なのは、《思い出》

 死者の世界においては、家族や周囲の人間との信頼関係、すなわち《思い出》が大切なようです。橋を渡るための遺影の代わりに墓や仏壇ではダメなのかと疑問を抱きましたが、遺族が亡き人との《思い出》を大切にしている証拠こそが遺影を飾ることなのでしょう。ミゲルの先祖や祖母のエレナ、私たちのように亡き者の遺影を飾らない(飾るつもりがない)のは、亡き者に相当な恨み辛みを抱いていることの裏付けです。それでもミゲルの先祖たちには音楽と歌という確固たる《思い出》があり、それらが再び彼らを結びつけました。音楽や歌に限らず、家族が共有した思いや出来事こそが《思い出》だと私は思います。どこかへ出掛けたこと、みんなで食べた美味しいもの、入学、卒業、進学、就職といった人生の節目、家族旅行、何気ない日常──確かにお金があればたくさんの《思い出》を作れますが、身の丈に合った生活さえ営めば、最低限の《思い出》は作れるはずです。
 ただ毒親育ちからすると、家族に毒がいる時点で良い《思い出》なんてないんですよね。食事や旅行に赴けば決まって喧嘩や不貞腐れが始まるわ、日々の生活は怒号や脅迫あるいは無関心で埋め尽くされるし、極め付きはせっかくの晴れの日も台無しにするような行動を平気で取るわ──そんな環境では《思い出》もクソもないですよ。
 もう一つ言えることは、一部の毒親たちがだ~い好きな社会的地位、肩書、金品の類は死者の世界では何も役に立たないってことです。もちろん社会的地位と人望を兼ね備えている方もいらっしゃいますが、エルネスト・デラクルス(ヘクターを騙して殺して盗作までしたクソ野郎)のような自己愛が強いだけの例もあります。
 目に見えるものだけがすべてではなく、本当に大切なものは目に見えないということをあらためて実感しました。「あの世に持っていけるのは思い出だけ」とよく言いますしね。


ミゲルの家族は毒ではなかった

 音楽と歌が原因で家族が離れてしまったゆえに、それを封印したイメルダ(ミゲルのひいひいばあちゃん)の気持ちは分かります。自分たちを見捨てた(事実はそうでなかったけど)主人を恨む気持ちも十二分に理解できます。でもそれを子供たちに押し付けちゃいかんよな~。本作では真実を知ることでヘクターと寄りを戻し、ミゲルに音楽への道を許せたから良かったけれど。
 何やかんやありましたが、ミゲルの先祖と家族は一時的に不安定になって行動を誤ってしまっただけで、子供や孫を想う気持ちは確かに存在すると私は解釈しました。それでも価値観の押し付けや趣味、嗜好の制限だけはよろしくないなぁと思いました。子供がやりたいって言うならやらせればいいし、やりたくないって言うならばやらせなくていい。大切なのは、どんな状況でも子供の味方でいるから様々なことに挑戦しなさいと言えることだと。詰まる所《安全基地》の話になってしまいますが。
 先祖と家族との《思い出》や彼らの愛情を再確認した上で新たな道を拓けたのは、ミゲルが勇気を振り絞ったからに違いありません。ただ残念ながら“真性の毒親”の前では、なかなか叶うことではありません。たとえ勇気を出してもそれをフイにされたり、そもそも行動することさえ許されないことも多々あるからです。結果としてミゲルは家族と和解できましたが、もしそれが不可能だったならば、彼は音楽か家族のどちらかを選ぶよう迫られたことでしょう。想像しただけでも張り裂けそうな気持ちに駆られますが、それが毒親(毒家族)を持つ人間が直面する現実の一つです。 

 ミゲルの先祖と家族の《思い出》である音楽と歌がヘクターの存在を繋ぎ留めましたが、大切なのは金でもモノでもなく、《思い出》とそれから生まれる絆ということです。過ぎてしまった時間は取り戻せないけど、これから思い出を作ることはできるはずです。別に他人が羨むような特別なものでなく、自分と家族、大切な人が満足できるものならば何でもいいのではと今の私は思います。その《思い出》と共に、死者の世界でも慎ましく朗らかに生活できればいいなぁと密かに願っています。(そもそも私のような人間が、平和な死者の世界に行けるか甚だ疑問ですが)


「Q:決してお金では買えず、日々の生活で作られる目に見えないものものってな~んだ?」

 これは、毒親にとって一生どころか死者の世界に行ってもなお解き明かせない難問でしょうね。



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 今回も拙文をご覧いただきましてありがとうございました。次回は毒親考察を予定しています。

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