【試し読み】浅倉秋成『家族解散まで千キロメートル』95ページまで特別公開!
『教室が、ひとりになるまで』では高校のクラスに隠された〈嘘〉を暴き、『六人の嘘つきな大学生』では就職活動の〈嘘〉に切り込んだ浅倉さん。
最新作『家族解散まで千キロメートル』は、「高校」「就活」に続く人生の転換期「家族」を題材とし、そこに埋め込まれた〈嘘〉の謎を解き明かします。
本記事では、衝撃の1行で終わる95ページまでを特別公開!
二度読み必至の仕掛けが潜む、驚愕と共感のどんでん返しミステリをお楽しみください。
あらすじ
『家族解散まで千キロメートル』試し読み
プロローグ
いえ
はじめは玄関から怖々と様子を窺っていた周だったが、その犬が宙返りをすることに気づくと、俄然引き込まれた。
大人用のつっかけに足を通し、吸い寄せられるようにして夏空のもとへ出る。三歩ほど進んだところで小さく躓いたが、幸いにして犬が逃げ出す気配はなかった。
犬は、小さな声で吠えていた。
きゃっきゃっと短く、等間隔で、間断なく。
毛色は人工的な茶色。犬種はおそらく柴だったが、体長は三十センチにも満たない。ばたばたと忙しなく足を動かし、地面に真円を描くよう、同じ箇所を飽きることなく、ぐるぐると走り回っている。しばらくすると気絶したように立ち止まる。そして即座に足を折り曲げると、また宙返りをする。
じりじりと距離を詰めた周は、やがて犬を鷲づかみにした。
犬はしばし手の中で暴れたが、腹部にあるスイッチを押されると途端に静かになる。
周はしばらく犬の造形を興味深そうに、そして訝しそうに観察していた。なぜこの犬は、自宅の庭に放置されていたのだろう。どうにも合点がいかない様子で、何度か小さく首を傾げる。周の所有物ではない。兄や姉がかつて遊んでいたものでもない。ならば誰のものなのか。近所に同年配の子供は住んでおらず、この家は通学路からもだいぶ外れたところに位置している。子供が立ち寄りたくなるような施設もない。どこかの子供が誤って置いて行ってしまった線は、薄いと見てよさそうであった。
何者かが自分を試しているのではないか。
周は疑うように、周囲をきょろきょろと見回した。目の前の狭い道路を見つめ、その奥にある田んぼを見つめ、最後に振り返って自宅の玄関を確認した。しかし犯人らしき人物はどこにも認められない。納得のいかない思いから口元を歪ませると、やがて周は諦めたように犬のスイッチを入れ、それを元いた場所に放した。今一度、宙返りが見たくなったのか、あるいはそうすることによって何かが解決するかもしれないと踏んだのか。
持ち主不明の犬は吠え、地面に円を描き、再び宙返りをした。
周はそのまま三回ほど独特な挙動での宙返りを観察したが、やがてその奇怪さを無視し続けることができなくなる。さっと顔を上げる。そして何かが動く気配を察知すると、答えを見逃すまいと、目を細める。
気取られることを恐れた父さんは、そこで建物の陰に身を隠した。さらに胸のざわめきを鎮めるためにひとつ深呼吸を挟む。
がっ、と、倉庫のシャッターを開ける音が響いた。父さんは大きな音に思わず身を縮めたが、周の耳は音を拾ってはいないようであった。眼前で宙返りを続ける犬が、あらゆる物音を鳴き声の向こう側へと巧みに隠してしまう。
まもなく、近所のおもちゃ屋から持ち出された大きなマスコットが、倉庫の中にしまわれる。鍵を閉める際もまた小さくない音が響いたが、周はやはり気づかなかった。
庭の中央では宙返りする犬が、きゃっきゃっと、いつまでも吠え続ける。
この家族。
本当にこんな形で終わっていいと思う?
家族解散まで千キロメートル
残りおよそ1000キロメートル
くるま
一月一日は言わずもがな元日であり、同時に僕たちにとっては家族解体の三日前であった。
僕は一時間に二本ほどしか走らない富士急行線を待ちながら、昨夜スマートフォンの充電を忘れたまま眠りこけてしまったことを、一人静かに後悔していた。電車の到着まではまだ十五分以上ある。依頼されていた調味料の類はすでに商店で買い終えてしまっており、こなすべき喫緊の任務は何もない。片田舎の無人駅前にカフェなんて小洒落たものはもちろん、時間を潰せるような施設は何ひとつとしてなかった。
時間を持て余し困り果て、いっそ意味もなく町内をドライブしようかと考え始めたところで、僕はようやくあすなの旦那の姿を、ぼんやりと想像してみることにした。
果たしてあすなは、どんな男を選んだのだろう。
考え始めてすぐ、僕はこれまであすなの旦那――つまり義理の兄となる人間――について、深く思いを巡らせたことが一度もなかったことに気づいた。関心が薄かったというのもあるが、それ以上にあすなの横に立つ男性の姿を、うまくイメージすることができなかったのだ。
人が結婚相手に求める性格的傾向を無責任に、そして大雑把に論じるならば、ざっくり二種類に大別できるような気がした。自分とは対極にある人間を選ぶか、もしくは、ある程度似た人間を選ぶか。
仮に前者であると仮定してみる。すると僕の頭には自ずと、人間としてあまりに張りのない、薄志弱行を体現したような、気の弱そうな男性の姿が想起された。こだわりも趣味もなく、あらゆる判断を他者に任せる、優柔不断で人畜無害な男性だ。世の中にそんな男性はごまんといるだろうし、当然そういった人たちも幸せな結婚はできるのだろう。しかしどうにも、あすながそういった種類の男性に惹かれるとは思えなかった。
一方、後者もイメージしづらい。
彼女に似た人間であるのならば、これは相当に癖の強い、こだわりの塊のような人間ということになる。あすなと同様、身につけるものから口に運ぶもの、耳にする音楽から窓のサッシの色に至るまで、一切の妥協を許そうとしない人間だ。いつもどこか不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、譲れないポリシーを体中に纏わせて生きている。あすなは旦那とは職場で出会ったと言っていた。必然的に、仕事は美術系であると推測できる。変わり者同士の、個性的なクリエイターカップル。あり得なくはなさそうだが、しかし穏やかな夫婦生活はあまり期待できそうにない。
弱腰か、個性派か、はたまたちょうど中間の人間が現れるのか。
仲よくなれないのは仕方がないとして、せめて舌の先にピアスを開けているような不良崩れだけは来てくれるなよと祈っていると、三両編成のくたびれた車両が視界の隅から顔を覗かせた。
車内は元日の富士山を目指す乗客で平時よりいくらか混雑していたが、文字どおり何もない
東桂で降りる人間は二人しかいなかった。一人は親ほど年の離れた女性。ならばもう一人の男性があすなの旦那かと目星はついたのだが、どうにも声をかけるのを躊躇ってしまう。おそらく四十代前半。年頃は事前に仕入れていた情報と符合するが、あまりに先ほどまでの予想とかけ離れている。
僕よりも頭一つほど背が高い。モデルか、あるいは俳優か。
賢人さんですかと、ようやく声をかける気になったのは、彼が僕の乗ってきた車をまじまじと見つめていたからだ。駐車スペースに止めてあったローバーミニは、あすなの車。骨董の世界に片足を突っ込んでいるイギリス車を乗り回している人間は、この街にはあすなと、それを借りたときの僕くらいしかいない。
「色々あって姉の代わりに――」
「周さんだ」
男性は華やかに相好を崩して僕の名を呼ぶと、実に自然な動作で右手を差し出した。僕がおずおずと握手に応じると、畳みかけるように左手に持った紙袋を持ち上げ、
「高比良賢人です。あけましておめでとうございます。そしてご結婚、おめでとうございます」
思いがけない先制打に言葉を選べず、僕は紙袋を受け取りながらひたすら小さなお辞儀を繰り返した。はじめまして、僕の名前を知っていたんですね、お祝いの品ありがとうございます、身長高いですね、賢人さんこそ結婚おめでとうございます、姉のことをよろしくお願いします。どれひとつとしてうまく発話できなかったが、賢人さんは品のいい笑みを崩さなかった。
「あすなさんは?」
「母に料理を手伝わされてまして」
「料理」と賢人さんはいかにも楽しそうに口角を上げ、「あれで彼女、かなり手際がいいですからね」
「当人は不本意だと思いますけど」
「と言うと?」
「あ、いや、母に無理矢理仕込まれただけなんで」
狭い車内に賢人さんの体が収まるか不安だったのだが、乗るのは初めてではなかったのだろう。大きな体を器用に助手席に滑り込ませると、チェスターコートに折り目がつかないよう注意しながら、慣れた手つきでシートベルトに手を伸ばした。もらった手土産を後席に載せてから運転席に乗り込むと、賢人さんは少年のような笑みを見せた。
「きゅうを、聴いてたんですか?」
「はい?」
うまく聞き取れず、しばし賢人さんの彫りの深い顔を間抜けづらで見つめていた僕だったが、カセットテープのケースを見せられると言葉を適切に変換できた。助手席のドアポケットに入っていたのは一本のカセットテープで、ダビングしてあるのはMr.Childrenが二十年以上前に発表したアルバム『Q』。
「大好きなんですよ。このアルバム」
いかにも嬉しそうな賢人さんにつられ、僕はなぜだか照れ笑いを浮かべてしまい「この車、カセットしか聴けないんで、大昔にダビングしたそれを。不思議と飽きないんですよね。何回聴いても新しい発見があって」
「このアルバム一作を通して、宇宙の中心から、安らげる場所に向かうんですよ」
「わ、面白い解釈ですね」
曲目を思い出しながらエンジンをかけると、早速オーディオから桜井和寿の声が響き始めた。流れ出したのは四曲目のスロースターター。音楽に背中を押されるようにして車を発進させれば、いつもよりも歌詞が胸の奥まで染み渡る。
「お家は甲府のほうでしたよね?」いくらか口が滑らかになった僕は、対向車も歩行者もいない信号待ちの間に尋ねてみる。
「宝って、わかりますかね?」
「わかりますわかります。僕、大学が飯田のほうだったんで」
「県立大?」
「そうですそうです」
「だったら、本当に目と鼻の先ですよ。川を挟んだ東側に神社があるのわかりますかね。そのすぐ裏手に住んでます。ちょうど家の前に消防団の拠点があって」
「あぁ、わかるかもしれないです」
「なんだか我々、接点多そうじゃないですか。これは、三人でご飯に行く機会も多そうだ」
賢人さんが楽しそうに顎を撫でると、僕は満更でもない笑みを浮かべてしまう。嬉しい提案ではあった。しかし実際のところ、あまり現実的なアイデアではない。適当な相槌で調子を合わせてしまおうかとも考えたが、最終的には期待を持たせるべきではないという思いが勝った。
「姉ちゃんが嫌がりますよ」
「そんなことないと思いますよ」
「いや、ほんと、僕らそんなに仲よくないんで」
青信号を確認し、アクセルを煽る。
憎しみ合っているわけではない。必要があれば言葉は交わすし、平和的に車を共有できる程度の関係性は保てている。それでもお世辞にも仲がいいとは言えない。僕はあすなを理解できないし、あすなもおそらく、僕のことは理解できない。
実のところ賢人さんの存在も、我々姉弟の不仲を加速させるきっかけのひとつだった――というのは少々暴論気味だが、まったくのとも言い切れない。
色々と心配になっちゃうから、結婚するまでは、どうかこの家にいて欲しい。
そんな母の願いを最初に裏切ったのは長男の惣太郎であったのだが、今はひとまず棚上げにしておく。惣太郎は惣太郎で問題の多い人間なのだが、彼は大学進学のために上京する必要に迫られていた。一応のところ、筋は通っている。
ただ、あすなは違う。あすなは就職してまもなく無断外泊の日数を増やし、そのまましれっと交際相手の家に住み着いてしまった。違う、男の家じゃない。仕事場で寝泊まりしてる。そんな言い訳をしばらくこね続けていたのだが、これ以上は誤魔化せないと判断したのだろう。ある日、母の剣幕に押し負かされるようにして交際相手との同棲を認めた。
僕だって、母の言うことには問答無用で服従すべきだとは思っていない。視野の狭い母は、ときに信じられないほどとんちんかんな要請をすることがある。同棲はふしだらだからやめたほうがいいと思っているわけでもない。ただ、守って欲しいと懇願されたルールを平然と逸脱できてしまうその不誠実さには、いかんともしがたい嫌悪感を覚えていた。どうしてこんなにも簡単なルールを守れない。どうして尊重してしかるべき家族の願いを、こんなにも抵抗なく無下にできてしまう。
そんな前提があったからこそ、僕は心のどこかでまだ見ぬ賢人さんのことを相当に侮っていた。どうせ軽薄で、ろくでもない男に違いないのだろう、と。
「難しいですよね、家族は」
「ちょっと種類が違うんですよ。見た目からしてそうだと思いますけど」僕はなるべく空気が悪くならないよう、努めて明るい声で言った。「僕はほら、こんな地味な感じで、いかにも公務員っぽい公務員なんで」
「公務員なんですか?」
「あ、そうなんです。八王子の市役所で働いてて」
「都内ですか。西側なら通えますもんね」
「県内よりいくらか待遇がいいって聞いて、無理して一時間半くらいかけて通ってます」
三叉路を緩やかに右に折れると、舗装の甘い山道に入る。旧時代のサスペンションは地面の凹凸を律儀にすべて拾い上げ、車を大袈裟なまでにがたがたと揺らす。右には田んぼ、左にも田んぼ。時折伸びっぱなしの雑木林が現れ、ごく稀に古びた民家が顔を出す。
ここです。そう言って僕は、ギアをバックに入れる。
後方を確認するついでに覗き見た賢人さんの表情には、異様と言っていいほどに変化がなかった。この家を見て驚かない人間は、ほぼいない。これは相当に気を遣わせているなと確信した僕は、沈黙を続かせるほうが互いの精神衛生上よくないと判断し、
「ぼろで、すみません。お化け出そうですよね」
「いやいや」賢人さんは思い出したように表情を崩すと、何も気にしていないことをアピールするよう、首を大きく横に振った。「そこまで古びてはいないでしょ。大切に住まれてきたのがわかる」
小さな車体を両親の車の間にねじ込むと、キーを捻ってエンジンを切る。途端に車内は静かになり、必要以上に僕の声がハイライトされた。
「まあ、だからこそ解体するわけですけど。もういい加減、だいぶガタがきているんで。家族の外側も、内側も」
「解体……解体ね」
「すみません。ちょっと大袈裟な言い方をしてる自覚はあります」
「とんでもない。むしろ――」
続く言葉を探しながらドアを開けた賢人さんは、車外へ出るとそのまま伸びをした。改めて見ても、狭い車内に押し込めていたのが申し訳なくなるほど大きな体をしていた。細身ではあったが、百九十センチに届いているか、あるいはわずかに届いていないか。この段になってようやく身内の面倒ごとに巻き込んでしまった申し訳なさが湧き上がった僕は、
「今さらですけど、お正月の朝早くからすみません」
「なんのなんの。力仕事はこれで結構好きなんです」
しばらく賢人さんは、まるで観光名所に向けるような視線を、僕らが住み続けてきた推定築五十年超えの干からびた日本建築に向けていた。急かすのも申し訳なかったので、僕も倣って自宅の姿を瞳に焼きつける。
住んでいるが故にまじまじと見る機会を失っていたが、見れば見るほど情けなくなるくらい、くたびれた家であった。もとは白かったであろう漆喰の外壁は、うっすらと積み重なり続けた汚れによって、今では斑模様を無数に浮かべた灰色に落ち着いている。木製の屋根は、ぱっと見ただけでも四箇所ほどひしゃげていた。最後の改築で一部が二階建てにはなっていたが、基本的には平屋建て。現代的な表現をすれば、4LKということになるのだろうが、言葉の響きが持つほど魅力的な間取りではない。田舎の戸建てとは思えないほど、一部屋一部屋が悲しいほどに狭い。せめてのび太くんの家くらいモダンで、広い家に住めたなら。そんな願望を抱いたことのある平成生まれは、僕以外にあと何人くらいいるだろうか。
「賢人さん、お餅とかおせちって得意ですか?」
「嫌いではないですよ。人並みにはいただきますね」
「ならよかった。ぜひたくさん食べてください」僕は台所に届かないよう声を落とし、「うち、みんな苦手なんです。なのに毎年正月になると母が大量に。作ってる母自身も苦手なのが、また何とも皮肉で」
「はは、お力になれれば」
玄関扉を開けると、まもなく台所のほうからエプロン姿の母が小走りで現れた。おそらくエンジン音を聞きつけた時点で待機していたのだろう。たった今、料理を切り上げてきましたというような雰囲気を装っていたが、それにしてはあまりにも登場が早すぎる。
悪い人じゃないって思いたいけど、強引にあすなを自分の家に引き入れた人だからね。
数日前まではきっと苦言の一つや二つぶつけてやるんだと意気込んでいた母であったが、まず賢人さんの身長に驚き、続いて彼の物腰の柔らかさと上品さにあっという間に牙を抜かれ、気づけばすっかり絆されていた。数十分前の僕と同じだ。
「いやまさか、こんな素敵な男性だなんて思いもしないから。あすな、写真の一つも見せないもので」
「ご挨拶が遅れてしまってすみません。婚姻届を出す前には確実にお目にかかっておきたかったんで、ちょうどいい機会をいただけました。あ、もしよかったらこちら、ご家族の皆さんで」
「まあ、どうもご丁寧に」僕に用意されたものとはまた別の紙袋を差し出されると、母は慇懃に手土産を受け取り、「小さい頃から変に神経質というか、ちょっと進んでるというか、ね。なんだかよくわからない変わった子でしたから、三十もすぎちゃって、これはもう無理だろうと諦めてたんですけど」
「素敵な方ですよ、あすなさんは」
母が賢人さんを居間に案内したので、僕は一礼してから台所へと向かった。
コンロの前ではあすなが大きな目を忌々しそうに細めながら、いかにも不快そうに鍋の番をしていた。ラフなスウェットを纏ってはいるものの、微妙に光沢のある素材感と濃紺の色合いには彼女のこだわりが滲み出ていた。こちらからすると少しサイズが大きいのではないかと指摘したくなるのだが、おそらくあれも美学のひとつなのだろう。頼まれていた砂糖とみりんをまな板の脇に置いてやるとようやく僕の存在に気づき、こちらに向かってあまり好意的ではない一瞥をくれた。
「賢人さん、来たよ」
「ありがと」
車で迎えに行ったことに対しての礼なのか、調味料に対しての礼なのかはわからなかったが、はっきりさせる必要もなかったので僕は何も言わずに小さく頷いた。そのまま台所を立ち去ろうと思ったのだが、
「引っ越し料金」あすなは思い出したように口にし、シルバーのメッシュが入った前髪を煩わしそうに払った。「あれ、結局、変わんないの?」
「引っ越し料金?」
「来たんでしょ、先週の月曜日。引っ越し業者が見積もりし直したい、って」
「ああ、じょーない。あれから連絡ないから。たぶん変わらない。あ、そうだ」今度は僕が用件を思い出す番であった。僕はバッテリーの少ないスマートフォンを取り出し、昨日したためたメモを確認する。「ユニ浦和マーケティングって会社、わかる?」
「なに浦和マーケティング?」
「ユニ浦和マーケティング。電話越しに聞いた名前だからちょっと自信ないけど、昨日、家の固定電話にかかってきた。なんだか問い合わせへの回答がしたいとかって、二回も。何の会社かもわからないけど、間違いなくうちからの問い合わせをもらった、って」
「知らないけど、浦和ならお兄ちゃんでしょ」
「そうかもと思ったけど、でも固定電話にかけてきたから」
「お兄ちゃんでしょ、絶対」
そうかもしれないが、もう少し疑問の解消に協力してくれてもいいはずだ。この辺りの協調性のなさに、僕はいつも苛立ちを覚える。そもそも固定電話にかかってきた電話を、この家では僕しかとろうとしないのも甚だ疑問であった。母はよくわからない、怖い、などと言って電話をとらない。あすなはまるで聞こえていないふりをする。父は論ずるにさえ値しない。お陰でいつも僕が電話の事後処理をさせられることになる。
もう少し家族の問題を自分事だと捉えてくれと言ってやりたい気持ちは山々であったが、結局はすべてを呑み込むことに決めた。あすなはどちらかといえば口数の少ないほうではあるのだが、ひとたび火がつくと途端に饒舌になり、大きな目でぎょろりと威圧しながら怒りの言葉をまくし立てる。舌戦になれば長期戦は必至なので、口論の火種を作らないことに注意深くある必要がある。
「よっ」
賢人さんが台所の様子を確認しにやってくる。
未来の旦那を前にした瞬間、会いたかった、寂しかった、今日は来てくれてありがとうと、見たことのないぶりっ子姿を晒し始めたら、どうする。僕は刹那の悪寒に歯を食いしばったのだが、幸いにして目を背けるような事態には至らなかった。
さすがに三年に及ぶ交際を経た婚約者同士、恋人らしい過剰なスキンシップや甘い目配せは発生せず、リラックスした様子で二三言葉を交わすに留まった。弟としては救われた。
嫌なものを見る前に退散しようと居間に移動すると、母が賢人さんからもらった手土産を改めているところであった。資生堂パーラーのチーズケーキ。母の好物だ。
「なんでこれだって、わかったんだろうね」
「姉ちゃんから聞いたんでしょ」
「お母さんのお母さんもね、これ大好きだったの」
「何回も聞いてる」
母は感嘆の息を漏らしながら、
「惣太郎より年上だよね、賢人さん」
「四十はすぎてるって言ってたと思うから、たぶん」
母は赤子でも寝かしつけるように優しくチーズケーキの包装を撫でると、しばらくぶつぶつと独り言を零した。やっぱり、年を重ねている分しっかりしているのかもしれない。あんな人がよくあすなを選んでくれた。どうにか、こっちの家で一緒に暮らしてはくれないだろうか。あの人とならうまくやれそうな気がするとまで口にしたところで、すぎた願望を漏らしたことを後悔したように顔を顰め、台所へと消えていった。
「お茶出すから、しばらく周が賢人さんの相手をしなさい」
言いつけられれば自室に戻るわけにもいかない。料理に忙しい母とあすなを台所に残し、僕と賢人さんは居間の炬燵で緑茶を啜った。無音よりはいいかと思ってテレビをつけ、BGM代わりにニューイヤー駅伝を流してみる。
「兄ちゃんが――惣太郎が来たら、本格的に作業が始まると思うんで、しばらくゆっくりしてください。すきま風も吹くし、あんまりいい部屋じゃなくて恐縮ですけど」
「とんでもない。畳の香りと、久しぶりの炬燵を堪能させてもらってます。それにお家の中はだいぶ綺麗じゃないですか。まだまだ住めますよ」
「一応、襖と畳だけは何年か前に新調して」
「あちらもだいぶ立派ですし」
賢人さんはそう言って壁の一点を指差した。最初は何を言わんとしているのかまったくわからず、何か冗談を言っているのだろうかとさえ勘ぐったのだが、
「あ、欄間ですか?」
「ものすごく繊細な仕事ですよ」
「やっぱり、美術のお仕事されてる人には刺さるんですね。僕にはさっぱり」
「あれだけ立派なら、あすなさんも言及するんじゃないですか?」
「いや、ないですね。姉はもっとこう、ポップなものが好きなんで」
「言われてみれば、そうだ」
賢人さんが興味深そうに欄間のほうへと歩み寄っていったので、僕もゆっくりと立ち上がる。生まれたときから育ってきた家であったが、この家を建てたのは両親ではない。結婚を機に少ない予算でどうにか購入できたのが、当時から既に古びていたこの中古物件。なのでここに欄間を誂えたのも両親ではない。僕にとっては背景でしかなかったが、その気になって眺めてみると確かに凝った造形をしていた。富士山と雲、風にそよぐ草木。当然ながら素人に彫れる代物ではない。
「なんだか、この欄間の向こうに見える壁、妙に近くありませんか?」
「あぁ、そうなんです、ちょっとおかしな構造になってて」
僕は苦笑いを浮かべながら賢人さんを廊下に案内する。そして玄関のすぐ左脇、明らかに床の色が異なっている地点を指差し、
「ここから先を一度壊してから、増築したんです。で、建築基準法が変わったからなのか、あるいは――とにかく何らかの問題があって、どうしてもあの壁は閉じなければいけなくなってしまったみたいで」
「欄間の奥は壁になってしまった」
「一応部屋はあるんですけどね。でも繋がってはないです。おかしな壁に挟まれた何もない狭い空間が存在している状態です」
僕が生まれる前の出来事なので詳細は伝聞でしか知らないが、金のなかった両親は増築を近所に住む知り合いの大工に依頼したそうだ。故に全体的に工事は甘い。特にもともとあった家と増築箇所の接合点は明らかにピッチや色合いがずれており、素人目にも安っぽさが目につく。ただ雨漏りや地震での倒壊などは避け続けてきているので、美意識が低いだけで最低限の腕はあったと見える。
「ところで――」
居間に戻りながら、賢人さんは少し尋ねづらそうに言葉を切った。
「今日、お父様は?」
当然の疑問だなとは思いつつ、僕もすぐには言葉を選べなかった。誤魔化すべきではないとわかってはいたが、可能な限り口当たりのいいまろやかな言葉を見つけたかった。しかし結局は家族になろうとしてくれている人を煙に巻くわけにはいかないと判断し、
「いないんです」と正直に話した。
「それって……」
「あぁ、ごめんなさい。生きてはいるんですけど」誤解を解いてから、いや、死んでいるようなものかと思い直しつつ、「いつも、留守で」
「留守?」
「この家には住んでるんですけど、ふらふら遊びに行っちゃうんです。日帰りだったり、泊まりだったり、日によってまちまちですけど、家にいることのほうが珍しいくらいで。仕事ももう五年以上前に辞めちゃって」
「今日はどちらに?」
「さあ……ほんとに、何も言わないで出て行ってしまうんで。車はあったんで、電車でどこかに行ったんだとは思いますけど」
僕は炬燵に潜るついでにしゃがみ込み、床の間の脇にある戸棚を開ける。いつもは日用品が雑多に押し込められていたが、引っ越し前なので平時よりはこざっぱりとしていた。僕は寂しそうに置いてある東京ばな奈といちご煮の缶詰めを取り出し、炬燵の上に置く。自由気ままに生きていることへの贖罪なのか、旅行気分を多少は家族にも味わわせてやろうという配慮なのか。父は出先から帰ってくると、この棚の中に必ず当地の土産物を詰めた。
「ここ最近は東京と――いちご煮ってどこでしたっけ?」
「青森じゃないですかね」
「なら、青森に遊びに行ってたみたいです。ほんともう、存在そのものが空気というか、まぼろしみたいな人なんで」
「仙人か、神様みたいな方ですね」
そんないいものじゃない、貧乏神ですよ。さすがに口にはしなかったが、これ以上喋ればどこかで悪口をこぼしてしまう自信があった。僕は土産物を棚の中へと戻し、この話題を打ち切りたい思いを控えめに表明した。父については考えれば考えるほど、いたずらに虚しさだけが積み上がっていく。まるで存在そのものが、巨額の借金のような人物だ。
ほっそりとした体に、いつ何時でも眠たそうな力のない目つき。話しかけようにも、はぁ、だとか、へぇ、だとか、気の抜けた言葉しか返してこない。仕事だけは真面目にこなすのが唯一の取り柄というようなこともなく、働かない、動かない、家にいない。失職してすぐに再就職先を決めるかと思いきや、探す素振りを見せつつずるずると無職を続け、やがて六十を超えるとしれっと繰上げ受給で年金を受け取り始めた。その間の家計は、近所の食堂で働く母が支え続けた。
そしてさらにその上、浮気の前科がある。
とにかく駄目人間の手本とでも言うべき人物であった。
犬や猫に本気で説教をする気が起きないのと同じように、家族の誰もが父については諦めていた。駄目なものとして、いないものとして、半ば死んだものとして、存在を忘れたことにして生きている。何せ事実として、父がいないほうがこの家族は健全に運営される。
興味のない駅伝を見続けるのがいい加減苦痛になりかけていた頃、不意に遠くから怪物の唸り声のようなものが響き始めた。車のエンジン音だと気づいた瞬間、誰がやってきたのかも自ずとわかる。
僕は敢えて気づいていないふりを続けていたのだが、庭に出ていた母の声に釣られて廊下へと向かう。窓から外を覗くと、真っ黒なBMWが道路にはみ出るような形で止められていた。初めて見る車だったが、おそらくは二人しか乗れないスポーツカー。あまりにもらしい登場に半ば呆れながらも、僕はサンダルを履いて外に出てやることにした。
「……何これ」と、玄関から飛び出してきたあすなも絶句する。
もったいをつけるようにゆっくりと運転席から出てきた惣太郎は、初めて見る賢人さんに対する挨拶よりも、かけていたサングラスをとるよりも先に、
「八百万した」と車の値段を口にし、モンクレールのダウンジャケットの襟を整えた。
惣太郎に会うのは昨年の九月以来だったが、この人は清々しいほどにぶれない。もともと大手企業に勤めていた人間であったが、昨年独立起業してからは金遣いの荒さに拍車がかかった。ここまで徹底しているといっそ感心さえしてしまう。
続いて助手席からは惣太郎の奥さんである珠利さんも降車し、一同に向かって遠慮がちに頭を下げた。聞き取るのに苦労したが、おそらく消え入りそうな声で口にしていたのは、あけましておめでとうございます。僕より一つ若い二十八歳だが、今年成人したばかりと言われても納得してしまいそうなほど幼い顔立ちをしている。数年前までは地下アイドルとして活動していたという話だったが、所属していたグループ名を忘れてしまったので一度も当時の写真を見ることはできていない。たしかキュートなんちゃらというグループだった気がする。
賢人さんが車を降りたばかりの二人に丁寧に挨拶をすると、
「もう早速、始めたほうがいいんだろ?」と惣太郎は誰にともなく尋ねる。
母もあすなも答える気配がなかったので、僕が代表して答えた。
「小物はあらかた片づけたんだけど、大きい荷物があるから、早速手伝ってもらえると」
「いよいよ、周の部屋からエロ本が見つかるか」
「エロ本?」と賢人さんが反応してしまうと惣太郎は嬉しそうに、
「こいつ、エロ本とかAV隠すの天才的にうまいんですよ。昔っからどんだけ部屋を探しても出てこなくて」
惣太郎は僕より七つ年上の三十六歳。いつまで経っても程度の低い下ネタをぶつけてくるところに辟易しつつも、ここで調子を合わせるのが僕の仕事であった。
「出てくるかよ、ばか。こっちはデジタル世代なんだよ」
放り投げられた下品な話題を手早く処理できないと、惣太郎は調子づく。そして動揺する僕の態度を楽しむように、遠慮なく下品さを加速させていく。やがて堪えかねた母が不機嫌になり、最終的にはあすながいい加減にしろと惣太郎を一喝。例外なく最悪な空気が一家を包む。これまでの人生で何度も経験してきたおきまりのパターンで、僕がうまく立ち回らない限り何度でも同じルートを辿る。
調整役を買って出ているつもりはない。それでも末っ子なりに、僕は誰よりもこの家族のバランスを気にし続けてきたつもりであった。誰もが怒らぬように、誰もが荒れぬように、誰もが最低限、この家族の中で居心地よく過ごせるように。
しかしそんな僕の仕事も、あとたったの三日で終わる。
「なら、始めるか」と惣太郎は玄関扉に手をかけながら言った。
何が始まるのか、今さら確認しようとする人間は一人もいなかった。
僕らが始めるのは引っ越しの準備。
一月一日は言わずもがな元日で、僕ら喜佐家にとっては家族解体の三日前であった。
「なら、解体しかねぇだろ」
惣太郎の物言いは乱暴であったが、実際のところ家族の誰もがわかっていた。それこそが、僕たちが選べる最も現実的な選択肢である、と。
昨年の盆、思えばきっかけは、僕が婚約者を紹介したいと伝えたことだった。
あの日の夕食の席には、帰省中の兄だけではなく珍しく父もいた。交際相手がいることは暗に伝えてあったので、誰も驚きはしなかった。二十九歳。そろそろかもしれないなと、少なくとも惣太郎とあすなは予感していたように思う。
よかったじゃない。最初は祝福の言葉を並べていた母だったが、しかし結婚するということはすなわち、この家を出るということだと気づいたあたりで、やおら渋面を作り始めた。
父と二人ではこの家を管理できないかもしれない。
母は独り言の声量でぽつりとこぼすと、悩ましそうに困り顔を作った。僕をこの家に引き留めたい最大の理由は漠然とした寂しさなのだろうが、家の管理という問題は、あながち無視のできない懸念事項であった。
あすなが半同棲生活を始めてしまっている今、僕がこの家を出れば、残る人間は実質父と母の二人だけになる。四人で住むには狭い我が家だが、還暦をすぎた夫婦が二人で住むにはいささか過剰な大きさではあった。
じゃあ、家に残るよ。
母がそんな一言を待望しているのは、あまりに明白であった。すでに結婚してマイホームまで建てている惣太郎は無理にしても、母の境遇を考慮し、僕が婚約者を実家に引き入れる可能性はゼロではない。あすながルール違反を反省して同棲を解消する可能性もある。
無論、母に同情できないではなかった。三人いた子供が全員巣立ち、ほとんどいないも同然の父と二人きりになるのは愉快な状況ではない。しかしだからといって、どうして僕がこの家に残らなければならない。惣太郎もあすなも約束を破った。僕だけがルールを守りきり、正規の手続きを踏んでこの家を旅立とうとしている。現状を鑑みればどう考えても、あすなが同棲を解消すべきなのだ。そう、思っていたところで、
「私も結婚するから」
まるで止めを刺すように、あすなが告白した。
完全に手詰まりの気配が漂ったが、母は藁にもすがる思いで父によきアイデアを尋ねた。しかし父はいつまでもいつまでも一口目に放り込んだ米粒をくちゃくちゃと咀嚼しながら、はあ、そうな、うん、まあ難しいわな、と要領を得ない言葉を吐き出すばかり。誰もが重たい空気を打開できずにいた中で、先の言葉を突きつけたのが惣太郎であった。
なら、解体しかねぇだろ。
惣太郎が果たしてどこまで思慮深く言葉を選んだのかはわからないが、その言葉は見事なまでに二つの意味を孕んでいた。推定築五十年以上。姑息的療法でだましだまし延命を続けてきた我が家だったが、いい加減限界を迎えていた。取り壊す他ない。そして同時に、中に住む我々もばらばらになるべきときが来たのだ。中も、外も、解体するしかない。
母はそこから一週間ほど難色を示し続けたが、最終的には惣太郎の提案を採択することに決めた。
この家族を、解体しよう。
黒の油性ペンできゅるきゅると耳障りな音を立てながら、僕は段ボールに八王子と記す。
僕の新居は、八王子駅から徒歩十分ほどの場所にある2LDKのマンションであった。すでに一週間以上前から住める状態になっている。僕は三日後に引っ越し、婚約者はまとまった休みがとれた二週間後に合流する手はずになっていた。互いの引っ越しが完了した後、正式に婚姻届を提出する予定となっている。
一方、両親の引っ越し先は山梨県内。大月駅から徒歩六分の場所にあるマンションを借りることに決めた。浦和の惣太郎、甲府のあすな、そして八王子の僕、誰もが帰省しやすい場所にしたいという母の希望を尊重しつつ、将来的には車を運転せずとも生活できる場所を選んだ。家賃は五万。追って母は新たなパート先を探すと語っていたが、貯蓄と年金、それから僕らからの多少の仕送りで、当面の生活は成り立つ目算が立っていた。
行き先は三箇所にわかれるものの、誰かが引っ越す度に応援を頼む手間を考えると、すべての引っ越しを同日に敢行してしまうのが最善だろうという判断になった。ならば正月休みを使うしかねぇだろ。惣太郎の提案に従い、僕らは一月四日を引っ越し日に定めた。
周、周。
微かに聞こえた声に手を止めると、僕は自室の窓から顔を出す。下を覗けば、倉庫の前で惣太郎が気だるそうな表情で手招きをしているのが見えた。隣には賢人さんの姿もある。男手を求めているのだろうと思って駆け下りようとすると、
「全員呼んで。全員」
「……全員って、どこまで含めての全員」
「とにかく家にいる全員だよ」
面倒な要求であったが、反論を許さない大声で指示されれば理由を尋ねるのも憚られた。僕は歩く度に家中に重たい足音が響く脆弱な階段をゆっくりと下りると、台所で母、物置と化している元子供部屋であすなと珠利さんを拾い、四人で庭へと出た。僕らが現れたのを確認すると、惣太郎は開口一番、
「これ、誰の何」
どこか気味悪そうに尋ね、倉庫の内部を親指で示した。
倉庫の中にある照明は小さな白熱球一つきり。日の光が強いせいもあり、外からでは倉庫の内部はもうひとつ正確に視認できなかった。しかしそれでも、僕には惣太郎の言う「これ」の正体がきっとわかるだろうという自負があった。というのも、先週倉庫の内部はあらかた確認していたからだ。
念のため倉庫の中を確認させてください。ひょっとすると料金に変更が生じてしまうかもしれません。
およそ一カ月ぶりに再訪した引っ越し業者の希望を聞き入れ、僕は久しぶりに庭の倉庫を開けていた。元を辿れば、この家の先代の所有者が農具の収納用として建てた倉庫なので、こちらも築五十年以上が経過している計算になる。薄汚いトタン小屋だが造りは頑丈。シャッターは少々きしむようになってしまったが、特に大がかりな修理もメンテナンスも必要としないまま、今日まで形を保ち続けていた。
滅多に入ることがないので僕にとっても半ば未知の領域であったのだが、埃舞う倉庫の内部は、想像していたよりもだいぶがらんとしていた。
シャッターを開けてすぐ右の棚には、僕らが幼少期に使っていたのであろうボール、ホッピング、一輪車、自転車の補助輪などが半ば廃棄されたような状態で放置されていた。一方の左側には大きな引き出しつきの棚があった。鍵がかかっている箇所もあったが、試しに何個か開けてみると、父がかつて仕事で使用していたと思われる工具や鉄くず、それから木片が見つかった。何かの部品なのだろうが、僕には用途もわからない。いずれにしてもこの倉庫の内部にあるものは、大部分が処分して問題ないものばかりであった。
新居に持っていくものはなさそうであることを告げると、引っ越し業者は了解しましたと言って去って行った。多分問題はないと思いますが、万一、料金に変更が生じる場合は、後日追って連絡します。
なので、現在この家族の中では僕が最も倉庫の内部事情に明るいはずであった。いったい惣太郎は何がそんなにも気になるのだろう。先陣を切って倉庫の中に入った僕は、右も左もわからない初心者にゲームの遊び方を教えてやるような気持ちでいたのだが、しかしそれを目にした瞬間、言葉に詰まった。
倉庫の中央部には、見慣れぬ大きな木箱が、置いてある。
およそ洗濯機と同じくらいの大きさだろうか。大人でも体を丸めれば悠々入れるであろうほどに巨大な木箱が、なぜかそこには寝かされていた。
「何だこれ……」
「だから訊いてんだよ」
「こんなの、倉庫のどこにあったの?」
惣太郎よりも先に質問に答えてくれたのは賢人さんで、
「シャッターを開けたときには、もうここに」
僕の後に続いて倉庫に入ってきた母も木箱を見るなり首を傾げ、あすなも訝しげな視線を送った。どうやら二人とも心当たりはないらしい。賢人さんと珠利さんまで狭い倉庫の中に入り、僕らはしばし無言のまま木箱を見つめた。
趣は、洋ではなく和。赤茶けているので桐ではなさそうだが、一見して高級だとわかる木材が使用されており、表面は滑らかに、丹念にヤスリがけが施されていた。触らなくともつるりとした肌触りが容易に想像できる。四隅につけられた黒い金属製の留め具にも高級感がある。側面には達筆すぎる筆文字で何事かが記されており、その上落款まで押されている――のだが、ともに掠れておりうまく判読できない。骨董品でも入っていそうな風格のある木箱であったが、しかし我が家にそういった趣味を持つ人間は一人もいない。
改めて惣太郎は僕、母、あすなの三人に心当たりを尋ねたが、全員が戸惑いの表情で首を横に振る。現在この家に住んでいる人間は、あすなを含めても四人。そのうちの三人に心当たりがないとなれば、木箱の持ち主は自ずと一人に絞られた。
「まあそうだよな――」
惣太郎は舌打ちを放つと、いかにも腹立たしげに頭をいた。
「こういうのは親父だよ」
おそらく父が持ち込んだものだろうという予感は、家族の誰もがうっすらと共有できていた。奇行は父のお家芸。出先で買ってきた土産物を戸棚に押し込むくらいならまだしも、引っ越しの数日前にこんなにも巨大なものを手に入れる必要もないだろうに。処分をするにしても、新居に持って行くにしても、追加の料金が発生する可能性は十分に考えられた。何て面倒なことを。僕は濁ったため息をつきながら、
「これ、中身は何だったの?」と尋ねると、
「見てねぇよ」と惣太郎は不快そうに吐き捨てた。「薄気味わりぃから、蓋開ける前に全員ここに呼んだんだよ。ひょっとしたら親父のじゃないかもしれねぇし」
なら中身を確認してみようかと相談する前に、あすなが木箱に手を伸ばしていた。
結論を急ぐような乱暴な手つきで四辺の留め金を外し、遠慮なく大きな蓋を両手で掴む。一息に持ち上げようとするも、一人ではうまく持ち上げられない。近くにいた惣太郎が助けるように反対側を掴むと、上質な摩擦がぬるり、ようやく蓋が持ち上がる。中身が覗き見えた瞬間、きゃっと叫んだのは母で、
「いやだいやだいやだ、呪われそうじゃない」と、目を逸らした。
蓋が完全に取り払われる。
木箱の中に寝かされていたのは、おそらく仏像であった。
詳しくないので厳密な呼び名はわからないが、立っている状態の像なので、立像ということになるのだろう。全長ざっと一メートル。仏様なのか、観音様なのか。右手には細長い杖のようなものを持っており、左手には布袋を持っている。アフロのような髪型だと思っていたのだが、よくよく見てみると頭の天辺からは髪ではなく、またいくつもの頭が生えていた。古びており全体的に黒ずんでいたが、おそらくは木製。しかし首飾りや足下の台座には金のようなものがあしらわれており、暗い倉庫の中でも主張控えめに、きら、きらと、細部が輝いていた。
「これ、お父さんが持ってきたの?」とあすなは誰にともなく尋ねる。
「それしかねぇだろ」
惣太郎はため息をつくと、
「そういえば昔も――」とまで口にしたところで、自重するように口を噤んだ。
何を言い淀んでいるのだろう。惣太郎らしくないトーンダウンに違和感を覚えた刹那、鮮やかに記憶の暗闇に光が差した。あっ、と、漏れそうになった声を抑えるも、喜佐家の面々全員が、おそらくは見事なまでに同じタイミングで思い出してしまう。表情が陰る。
考えてみると、木箱を目撃したときからうっすらとしたデジャヴはあった。こんな光景、以前もどこかで見たような。それが惣太郎の沈黙によって、取り返しがつかないほど完璧に蘇ってしまった。
僕らは今回とそっくりのシチュエーションを、二十年以上前に体験していた。当時どうして父があのような真似を働いたのか、動機は今になってもわからない。父は真意を語ろうとせず、僕らも僕らで父の奇行に薄気味悪さとほんのりとした恐怖を、そして何よりはっきりとした嫌悪感を抱き、コミュニケーションを諦めてしまっていた。
今回は仏像。
あのとき父がこの倉庫の中に持ち込んだのは、近所のおもちゃ屋に飾られていた、オリジナルのマスコット人形。
「じょーないじょーない」と母は気まずさを払拭するように、痛々しい空元気で場を取り繕った。「お父さんが帰ってきたら、どうしたいのか訊きましょう、ね」
「ま、そうするしかないか」と、僕も努めて、何も思い出せていないうつけの笑顔を作る。
いやぁ、しかし、大きいなあ。
意味のない感想を、独り言にしては少々大袈裟な声量でこぼしながら、僕は誰よりも最初に倉庫を抜け出した。あの忌まわしい思い出からは、家族の誰もが可能な限り距離をとる必要がある。僕らはシャッターを開け放ったまま、倉庫を後にする。
まだ十二時十分前ではあったが、一度途切れてしまった作業を中途半端に再開するよりはいいだろうという話になり、昼食をとることに決めた。全員でバケツリレーをするようにして台所から色とりどりのおせちを運び、炬燵の上に並べていく。少なくとも僕は空腹であった。しかしいざ食事が始まっても、やはり喜佐家の箸は全体的に動きが鈍い。あすなと母は魚卵と豆類、僕は酢の物、惣太郎は伊達巻きや栗きんとんなどの甘いおかず。それぞれにそれぞれの嫌いなものがあり、かといってどれかが好きということもない。必然、食事のペースも上がっていかない。珠利さんはおそらく生来小食なのだろう。信じられないほどのスローペースで申し訳程度に雑煮だけを啜っている。唯一の救いは賢人さんで、
「どれも素晴らしく美味しいですね。本当に全部手作りなんですか?」
無理をしているという様子もなく、純粋な気持ちで舌鼓を打ってくれていた。母も日頃見られない新鮮な反応に喜び、次から次へと料理を勧める。賢人さんはさらに食べる。平和な循環が発生していた。
僕はまだ満たされてはいなかったが、食事を終えたことにして箸を置いてしまった。テレビはいつの間にかNHKに切り替わっており、餅を喉に詰まらせ救急搬送された老人のニュースが伝えられていた。そうだ、我が家でもこれから山ほど磯辺焼きが出てくるのだ。僕はいくらか憂鬱になると、ポケットからスマートフォンを取り出した。部屋の整理をしている間に充電をしたので、バッテリーの残量は三十八パーセントまで回復している。画面に表示されている通知は一件。十分ほど前に届いていたメッセージの送り主は、僕の婚約者だ。
[現在休憩中。引っ越し準備は順調でしょうか。最後に山梨土産をぜひ]
言われてみれば、山梨を根城にするのは残り三日ということになる。考えた瞬間、生まれてから今日まで過ごし続けてきた郷土に対する郷愁が初めて寂しさとなって胸を過った。山梨土産。名産の多い地域ではあったが、何を買えば喜ばれるだろうか。
ぼんやりと答えを探すように画面から視線を上げると、昆布巻きを掴んだまま硬直している惣太郎の姿が視界に入る。口もとを半端に開け放ったままテレビに釘づけになっている。ずいぶんと間抜けな顔だなと思っていると、母も同様の顔をしていることに気づく。力なく口を開け放ち、眉を八の字に垂らしながらテレビを見つめている。
親子揃って、何をいったい。
ようやくテレビへと視線を移した僕は、瞬く間に握力を失い、スマートフォンを自身の太ももの上に落とした。もちろん口は閉じられなくなる。ニュースだけが淡々と流れ、それ以外のすべてが静止する。
テレビ画面上ではどこかで見た仏像のようなものがワイプで表示されており、神妙な面持ちの女性アナウンサーが原稿を読み上げていた。驚きで麻痺していた聴覚がゆっくりと機能を取り戻し、次第に言葉を聞き取れるようになってくる。
「――にある十和田白山神社の宮司、宇山宗泰さんが、一月二日に開催される例大祭の準備のために本殿を開けたところ、安置されているはずのご神体がないことに気づき、警察に通報しました。警察は盗難の可能性が極めて高いと見て、捜査を進めています」
画面が切り替わり、気難しそうな宮司のインタビュー映像が流れる頃には、居間にいる全員の口もとが閉まらなくなっている。
「【当時の状況は?】本殿開けたらもう、すっからかんだよ。本来はここにあるはずだから、ご神体もそうだし、ご神体を入れる箱もね、本当は向こうにあるんだけど、それもなくなってるから。どっちも盗まれたってことでしょうよ。
【犯人に伝えたいことは】返せ馬鹿ってことだけだよ。(犯人には)バチが当たるよ。確実に当たる。でもまあ、逆に言うとだよ。犯人が反省して無事にご神体を返してくれるなら、私は全部許す覚悟だよ。こっちは、明日の祭をちゃんとやりたいって、それだけなんだから。日を跨ぐまでは信じて待つよ、私は。(ご神体が戻ってきたら)被害届は取りさげるよ。私も男だから。
【盗まれた理由に心当たりは?】お金でしょうよそんなもん。文化財としての価値もあるし、ご神体の台座とか首飾りには金をね、かなり使ってるから、そりゃ売ればいい値段になるでしょうよ。何年か前には近くのお寺さんの仏像も盗まれてたしね、窃盗団みたいなのはそこらにうじゃうじゃいますから」
インタビューが終わると、画面上には改めて盗難被害に遭ったご神体が表示される。「2015年、一般公開された際のご神体」というテロップがついているそれは、心なしか、少しばかり、というよりもかなり、いや、まさか、そんなはず、そんなはずは。
「これ……」とまず、あすなが呟き、
「いや、ちょっと形が」と母は強ばった顔で楽観を謳い、
「でもかなり、似ていたような」と賢人さんが遠慮がちに返す。
爆ぜるように立ち上がったのは惣太郎で、そのままつんのめって前転しそうな勢いで居間を飛び出した。遅れて母とあすなも立ち上がり、僕も立ち上がろうかと思ったところでニュースを最後まで見ておくべきかもしれないと妙に冷静になった。情報に何かしらの手違いがあったという可能性も否定はできない。
しかしニュースは十和田白山神社では例年一月二日に例大祭を開催しており、初詣客も相まって大変な賑わいとなることや、今年は十年に一度のご神体開帳の年であったことなどを伝えるに留まる。仏像や神具の盗難に詳しい専門家の話が始まったところでこれ以上有益な続報はもたらされないと判断し、遅れて居間を飛び出した。残っていた賢人さんと珠利さんも僕の後を追ってくる。
そんな馬鹿なこと、あるわけがない。
僕は念じながらサンダルに足をねじ込んだ。こんな訳のわからない話があって堪るかと玄関を飛び出したところで、倉庫の中から兄の雄叫びが聞こえてきた。
「完全にこれじゃねぇかよ! クソが!」
飛び込むようにして倉庫の中に入ると、惣太郎がトタンの壁面を拳で思い切り殴る。あすなは木箱の横で頭を抱え、母はまるで死体でも見つけたように口もとを押さえている。
「騒ぐ前にまず確認を――」と叫んだ僕の声に被せるように、
「もう確定だよ、どう見てもこれだよ!」と惣太郎は噛みついた。
「今、画像探すから一回ちゃんと見比べて――」
「見なくても、わかるよ! 頭から頭がにょきにょき生えてんだろうが!」
「にょきにょき生えてるのが他にもあるかもしれないだろ!」
タイムリーなニュースだけあって、スマートフォンで探せばあっという間に記事が見つかり、先ほどテレビ越しに見たご神体の画像も出てくる。確かに一見して似ている。しかしこんな木像、似たようなものがごまんとあるのだ。画面と、木箱の中身、画面と、木箱の中身。僕は瞳を素早く六往復させると、瞬く間に確信に至る。
「……これだ」
「だから言ってんだろうが!」
色みは実物のほうがいくらか暗いような気もしたが、細部は画像と寸分違わず一致している。ご神体の表情、持っている杖、袋、指先の角度、頭の形状。どれをとっても完璧に、同じ。箱の側面の掠れた文字も、言われてみれば十和田白山神社と読めることに気づいてしまったとき、
「ちょっと待てよ、十和田ってどこだよ」惣太郎が忌々しそうに倉庫内で唸り、
ひょろひょろとした細い声で母が、
「……青森県」
「おかしいだろ、さすがにそんな遠くから――」
「いちご煮」
思い出すと同時に口走っていた。僕は居間のある方向を指差しながら、
「……いちご煮、缶のいちご煮あった。戸棚、居間のいつものとこに。父さんの」
文法は荒れてしまったが、僕の言わんとすることは伝わったようだった。
一同はみるみる顔色を悪くしていく。一切の言い訳や希望的観測を挟む余地がないことを示すように、倉庫内の空気が重たく滞留していく。
「まただよ」惣太郎は怒りを噛みしめるよう、倉庫の床を睨みつけながら言った。「また親父が盗みを働いて、またあの親父のせいでこっちが割食うんだよ……いっつも俺たちはあの駄目人間のせいで――」
「ちょっと、そういう言い方はやめなさい」と母が諫めれば、
「二回目なんだぞ! 二回目!」惣太郎は指を二本立てて凄んだ。「親父が意味のわかんないもん盗んできて、この倉庫の中に押し込むの! 二回目だよ!」
「まだ盗んだとは――」
「盗んだんだよ! それ以外あり得ねぇだろ! 最悪だ。なんで、あんなやつが親父なんだよ……。あぁ、もういい。もう勘弁だ。あんなやつと血が繋がってるだけでこっちまで害を被るのはもう勘弁。知らねぇよ、知らねぇ。こっちはもう独立も結婚もして、この家族はとっくに卒業してんだよ。なのに、なんで終わった家族のことで割食わなきゃなんねぇんだ。もうあんなクズは――」
ちょっと待てよ。終わった家族って何だよ。
聞き捨てならない言葉を拾い上げようと口を開きかけたところで、母が貧血を起こしたようにバランスを崩した。近くにいた賢人さんに支えられるといよいよ足腰に力が入らなくなったのか、ふらふらと後退。そのままシャッターレールを背中でなぞるようにして地面にへたり込む。
「一応、電話してみる」
あすなはスマートフォンを取り出したが、誰も父が電話口に出るとは思っていなかった。一応携帯電話は持っている。しかし平時だろうが緊急時だろうが、父が電話に出たためしなど一度もないのだ。意味合いとしては、死人に電話をかけているのと同じ。それでも今回ばかりはひょっとすると奇跡が――などと一抹の希望を抱いてしまうのだが、結局あすなは顔を顰めながらスマートフォンをポケットにしまった。
「……出ない」
どうして、こんなことに。
「いつだよ……いつ盗んだんだよ」惣太郎の疑問に答えるため、僕は頭の中のカレンダーを参照し、
「先週、十二月二十三日の月曜日にこの倉庫を確認したときはなかった。だからこれがこの中にしまわれたのは――」
十二月二十四日から今日――一月一日に至るまでの九日間のうちのどこか、ということになる。
「外部の誰かが、ここに忍び込ませてしまった可能性はありませんか?」
賢人さんが口にした仮説はこの上なく魅力的であったが、残念ながらあり得ない。
「鍵、二つもかけてるんです」僕は答える。「備えつけの鍵と、ダイヤル式の南京錠。鍵は電話台の引き出しの中にしまってあるんで、家の中に入らないと取り出せません。それにたぶん、鍵があっても、家の人間以外このシャッターをうまく開けられないんです」
「開けられない?」
「歪んでるんです。ずいぶん前から」
経年劣化なのだろう。シャッターはいつからか一度強く押し込み、レールの赤錆を避けるように持ち上げ、その上で左端のたわみを正すように細かく揺らしながらではないと綺麗に巻き上がっていかないようになってしまった。父、惣太郎、あすな、そして僕は問題なく持ち上げられるが、母は未だにうまくシャッターの開閉ができない。開け方を知らなければ故障していると勘違いされてもおかしくないほど、我が家のシャッターは堅く、そして重い。
もちろん、家族から犯罪者が出てほしくないと願う気持ちはあった。しかし父には擁護できない前科があり、あらゆる状況証拠が父の犯行を示唆している。そして何より、僕ら喜佐家の人間は悲しいほどに深く理解していた。父ならこういうことを、きっとやる。
理由はわからない。あの人の思考をトレースしようとするだけ無駄で、僕らはいつだってあの貧乏神の得体のしれない生態に振り回され続けてきた。
あの人は、本当に、このご神体を盗んできたのだ。
「……通報しないと」
地面に座り込んだまま鼻声で呟いた母は、いつの間にか涙で目を真っ赤に腫らしていた。震える手でスマートフォンの操作を始めようとしたとき、
「ちょっ、ちょっと待てよ!」
叫んだ惣太郎は、スマートフォンをむしりとる。
「家族から犯罪者が出たらどうなるか、一回ちゃんと考えろよ!」
「考えるって、考えてどうなると思ってるの? それにお父さんが本当にこれを盗んでしまったとはまだ限らな――」
「限るよ! 現実見ろって! 無実を信じるのは構わないけど、警察呼んでやっぱり親父が盗んでたってことがわかってみろ。家族全員、あの馬鹿親父のせいで犯罪者の血縁になるんだぞ? とりあえず一回待てよ!」
「だからってあんた、罪を受け容れないでいいわけがないでしょ? お父さんがやったことだとしたら、責任を持って受け止めないと――」
「俺の会社どうなると思ってんだよ!? 親父が犯罪者になりゃ、会社の信用は地に落ち――」
「それは大変かもしれないけど、それを引き受けるのも家族の――」
「周の結婚だってなくなるからな!?」
不意に指を差された僕は、瞬間的に頭に血を上らせた。
「僕の結婚と、今回のことは何も関係――」
ないだろ、と口にしようとしたところで、しかし僕は青ざめた。
惣太郎の言うことが、存外的外れでないと気づいてしまったからだ。
本当であれば今日、僕の婚約者も喜佐家に来てくれる予定になっていた。しかし日本全国、多くの企業が休みになる一月一日にどうしても仕事を休めなかった彼女の仕事は、警察官だ。八王子警察署交通課配属。彼女の父も、そして彼女の母も、警察官であった。
結婚するなら警察官にしなさい。
警視庁に内定が出たときから口酸っぱく言われ続けてきたそうだ。特殊な仕事なので伴侶も同じ境遇にある人を選ぶべし。女性の警察官はほとんどが職場で結婚相手を見つける――というのはやや眉唾ではあったが、とにもかくにも彼女の両親は警察官との結婚を強く望んでいた。
市役所勤めの男と結婚したい。
両親は反対こそしなかったが、賛成の意は一切表明しなかった。感触は決してよくない。なのでどうか、挨拶の際は慎重を期して欲しい。婚約者から伝えられた僕は念入りに準備をしたのち、まさしく取調室に向かうような心地でご両親に挨拶をした。仁王のような顔がしっとりとほぐれるまでに要した時間は四時間半。三日酔いになるほどの晩酌につき合った結果、僕はようやく了承を勝ちとることに成功した。
君なら、よしとしよう。
そんな僕の父が、窃盗で逮捕されたとする。破談は決して悲観的な妄想ではなかった。むしろかなり理性的に見据えた未来の姿だ。僕は胸に大きな空洞ができていることに気づく。
僕の結婚が、なくなる。
考えた瞬間、耳鳴りが始まる。指先から温度が消え、心が氷になる。
そんな僕とは対照的に、あすなは大きな瞳をまた一段と大きくして惣太郎ににじり寄っていった。
「え、何? じゃああんたはこれ、隠蔽しようって言うの?」
「そうは言ってねぇよ! でも通報する前にやることが――」
「ないでしょ! こうなっちゃったらもうどうしようもない! 隠す? 捨てる? そんなことしたらもっと悪いことに――」
「一旦、考える時間が必要だって言ってんだよ! 親父にも事情を訊く必要がある。ひとまず正月休みが終わるくらいまで様子見て――」
「三日後に引っ越し業者来るんだよ!? 三日後! だったら早く警察に連絡するしか――」
「返しに行きませんか?」
すっ、と、倉庫が静まりかえる。
僕らは導かれるように、倉庫の入口付近に立っていた賢人さんへと、視線を向ける。
賢人さんは、右手にスマートフォンを握っていた。画面をこちらに向けたまま、僕らを諭すように語り出す。
「今しがた調べ直しましたが、やはり宮司は明言しています。『犯人が反省し、日付を跨ぐまでにご神体を返すなら、被害届は取りさげる』。返せばいいんです。返せば、お父様が何をしたのだとしても、誰も罪には問われません」
惣太郎もあすなも黙り込む。確かに宮司は先ほどのニュースでも明言していた。ご神体を今日中に返してくれれば被害届は取りさげる。忘れていたわけではない。しかし真剣に検討する気も起きなかったのは、それがあまりにも非現実的であったからだ。
ここは山梨県都留市。返却先は隣県ではない。
青森県十和田市までいったいどれだけの時間がかかるのか、すぐにはイメージすることすら難しかった。新幹線を使えば四時間程度で行けるのかもしれない。飛行機に乗れたのならもう少し速く移動できるだろう。しかし元日にチケットが取れるかどうかは不透明であり、そもそもこのサイズの巨大な荷物を公共交通機関で輸送することはできない。となれば我々が選べる交通手段は車だけになるのだが、そうなった際にはいったいどれだけの時間がかかるのか。
「……無理ですよ、遠すぎます」
僕は少なからず冷めた声で言ったのだが、予想外に賢人さんは力強い声音で、
「間に合うんです」
断言した。
「Googleマップ上では、正月の混雑を加味した上でも移動時間は十時間と表示されます。現在時刻が十二時十三分。すぐに出発できれば午後十時すぎには到着できる計算になる。多少道草を食ったとしても、日付は跨ぎません」
すぐに動き出せば、間に合うかもしれない。
ご神体を返せば、罪には問われない。
諸問題を一掃する奇跡のような可能性に心臓は寸刻高鳴るも、すぐには前向きになれなかった。ご神体を持ち主のもとへ返却しに行くと言えば聞こえはいいが、身も蓋もない言い方をすれば犯罪の隠蔽に他ならない。
あの父と僕たちが家族である限り、責任の何パーセントかは僕らにもあるのだ。
だから身内の粗相は、甘んじて受け容れなければ、ならない。
それこそが、家族なのだから。
そんな美しすぎるお題目が側頭部のあたりをかすめていったとき、僕は目眩と同時に、目頭が熱を帯びていくのを感じた。さすがにこの理不尽は飲み込めないだろ。奥歯を噛みしめ、どうあがいても、そこまでの聖人にはなれないことを確信する。家族の解体まで残り三日。最後の最後までこんなものに泣かされ、諦め、これも運命と居直れるわけがない。これまでの人生を要約し、濃縮し、わかりやすく再提示するような出来事に、どうしようもない業に、さすがに流されたくない反発心が湧き上がってくる。
「持って行ってあげたほうが……神社のためかも」
僕や惣太郎が口にしていれば都合のいい詭弁であったが、珠利さんの言葉となると少しだけニュアンスに温かみが生まれた。確かに、僕らがこのまま警察に連絡を入れたとして、このご神体が明日の祭までに神社に返却されるかどうかはわからない。都合のいいロジックを組み上げている自覚はあったが、僕の心は青森へと大きく傾いていく。
倉庫内を、十秒ほどの沈黙が包んだ。
あらゆるものを素早く天秤にかける。大義名分よりも美しさよりも、何より自分の本心に問いかける。やがて二つの部品が隙間なくかっちりと噛み合うようにして、一つの強固な答えが弾き出された。僕は言葉を濁さず、はっきりと口にする。
「……返しに、行こう」
綺麗事を並べるつもりはない。僕はただただ、自分の結婚を、守りたかった。月並みな表現にはなるが、僕は婚約者のことが心から好きだった。あんなに心が清く、まっすぐで、そして僕のことを深く理解して受け容れてくれる人間は、この世界に二人といない。君と一緒にいるためなら世界を敵に回しても構わないという台詞はあまりに陳腐だが、今の僕にとっては少なからず本心であった。
「……マジかよ」
惣太郎は頭を抱えたが、道のりの途方もなさに立ちくらみを起こしているだけであった。心はすでに固まっているようで、
「青森……青森かよ」
「悪いけど、載らない」苦しそうにこぼしたのは、あすな。「うちの車じゃ、とてもじゃないけどこの大きさの荷物は、載らない」
我が家の駐車場には現在四台の車が止まっていた。母の軽、父のセダン、あすなの小型車、そして惣太郎のスポーツカー。しかしいずれの車も、どう考えても高さが足りなかった。後部座席を倒したらどうにかなるという問題ではない。
「タクシーなら」と母は提案したが、
「運転手にバレたらどうすんだよ」と惣太郎に却下される。「それにドライブレコーダーに写る」
即座にレンタカーという言葉が喉まで出かかったが、こちらもあまりよい発想ではなかった。タクシー同様ドライブレコーダーに記録が残ってしまうし、そもそも一月一日に飛び込みでレンタルできる見込みはかなり低そうに思えた。そして何より、この家の近くにレンタカー屋など存在しない。
宅急便で送ってみればと珠利さんも控えめにアイデアを出してくれたが、失礼ながら論外であった。今日中に届けられないし、あらゆる箇所に輸送の履歴が残る。
動揺と興奮が落ち着き始め、やはり不可能なのではないかという不安が腰元あたりから這い上がってくる。徐々にコートのない冬の空気に鼻水が止まらなくなってきたところで、
「アルファードになら、たぶん載る」
惣太郎は木箱を見つめながら言った。
「今日はあっちの車に乗ってきたけど、浦和の家にはアルファードがある。この前帰省したときに乗ってきた、大型のミニバン。三列目を倒せば、たぶん普通に載せられる」
「でも――」と僕は尋ねる。「浦和に車を取りに行ったら」
「往復で四時間以上かかる。だから行って帰ってはできない。でも、どうにか浦和までご神体を持っていくことができれば――」
望みはあるかもしれない。
Googleマップで再度検索をすると、浦和の惣太郎の家から十和田白山神社までは車で八時間から九時間と表示される。ならば理論上、午後三時までに浦和に着くことができれば、一月一日中にご神体を返却することは十分に可能であった。すでに議論したとおりタクシーやレンタカーは利用できない。それでもどうにか浦和までの足を欲するならば、
「……誰かに、車を借りるしかない」
あすなはそう言うと、地元に明るい喜佐家の三人を順番に見つめた。
「……誰なら、頼める?」
この頃になると僕らの意見は完全に一致していた。青森を目指す他ない。
しかし誰ならばこの木箱を浦和まで運べるだろうかと考え初めると、地獄のような選択肢しか残されていないことに気づいてしまう。誰もいないわけではない。二組ほど輸送に適した車を持っている人物は思いつくのだが、どうしたって気は進まない。非常時なので贅沢は言えない。言えないのだが、それにしたってもう少しましな候補がと考えてみるのだが、結局最後まで二組しか思いつかなかった。
「……戸田さんか、広崎さん」
僕らは一度部屋に戻り、防寒具を纏ってから再び倉庫に集まった。
木箱の蓋を閉めて持ち上げると、庭に放置されていた台車の上に載せる。木製ということもあって想像よりもずっと軽かったが、サイズが大きいので一人では持ち上げられなかった。二人でも心細い。男性三人でようやく安全に持ち上げることに成功する。数十万円するものなのか、数百万円するものなのか、あるいはそれ以上か。正確な価値がわからない上に、このご神体には家族の命運がかかっていた。決して軽率には扱えない。台車を押す係は僕と賢人さんが担うことになる。二人して台車を自宅の敷地内から車道へと押し出したとき、
「全員じゃ行けねぇだろ」と先頭を歩いていた惣太郎が振り返った。
母、惣太郎、あすな、賢人さん、珠利さん、そして僕。六人全員が乗車できるサイズの車は限られる。万が一、戸田さんか広崎さんに車を貸してもらえたとしても、浦和で乗り換える惣太郎の車にはラゲッジスペースの関係で四人までしか乗ることができない。メンバーを選抜する必要があった。
車の所有者である惣太郎は当然外せない。ご神体を持ち上げるためには最低三人の男性が必要という知見を得ていたため、僕と賢人さんも同行する必要があった。
「私は残る」と言ったのはあすなで、彼女は家で父に関する情報を集めると宣言した。「お父さんを見つければ色々とわかると思うから、私はどうにかして今の居場所を突き止める」
重要な役割から逃げたいという弱気な選択でないのは、切羽詰まった表情から容易に推察できた。彼女なりにやるべきことを見極めたのだろう。事実、父を捜す人間は必要であった。どのようなつもりで盗んだのか、そこに同情できる余地はあるのか、はたまた僕ら家族をさらに失望させる見下げ果てた動機があるのか。推理するまでもなく、当人に訊けば自ずと事情はわかる。
「お前は残っとけ」
惣太郎が突き放すと、珠利さんは二つ返事で留守番を決めた。彼女はあすなと異なり自宅待機を命じられたことに明らかに安堵していたが、それを咎めたいとは思えなかった。惣太郎と結婚した彼女の姓はもちろん喜佐であり、今では立派に僕らの家族だ。しかし本来ならば父の尻拭いをしなければならない立場ではない。ある意味では僕ら以上に、完全なる貰い事故の被害者であった。
「私はね、行くよ」
母は予想外に強い口調で言うと、覚悟のほどを示すように毛糸の手袋を力強く引っ張った。
「家族のことは、お母さんの責任でもあるんだから」
あすなと珠利さんを残し、僕ら四人は台車とともに走り始める。
砂利が交じり、ひび割れも目立つアスファルトの上を走れば、木箱はがたがたと大きく揺れた。決して落とさぬよう、決して壊さぬよう、しかし一分一秒を無駄にせぬよう、僕らはぐらぐらと進み出す。
僕が言葉にするまでもなく、おそらく家族の誰もが理解していた。ご神体が載るほど大きな車を持っているのは、戸田さんと広崎さんくらいしかいない、と。それでも敢えて皆が口に出さなかったのは、可能なら深く関わり合いになりたくないから。どちらもまったく違ったベクトルで癖が強い。道端で挨拶をするくらいなら構わないが、家族の一大事に積極的にコンタクトを図りたい人物ではない。
最初に目指したのは、喜佐家のすぐ隣に位置する戸田家。
実際は田んぼを挟んでのお隣なので、家屋までは数百メートルの距離がある。戸田さんは八十手前の男性。子供たちは全員巣立ち、四年前に妻に先立たれてしまった関係で、現在は広い戸建てに一人暮らしをしている。間違っても悪人ではないのだが、少々陰謀論に毒されやすい人間で、関わり方を間違えると大火傷をする可能性がある。電磁波やマイクロチップといったジャンルよりは、宇宙人やキャトルミューティレーションといった方面に造詣が深く、田んぼに異常が見られると猪や熊よりもまず宇宙人の仕業を疑うというかなり独特な思考を持つ人物だ。
幸運なことにビニールハウスの中には、戸田さん愛用の軽トラックが停車してある。在宅だ。惣太郎は喜びのまま力強くインターホンを押したのだが、しかし応答はない。焦りを隠すことなくそのまま三度ほど連打。
「宇宙人です! 戸田さん、大きい宇宙人!」
どうにか玄関口に出てきて欲しい思いから母は混じりっけのないを叫んだが、戸田さんが出てきてくれることはなかった。居留守を使えるほど器用な人ではないので、本当に不在なのだろう。
諦めて再び車道に出た僕らは、もと来た道を戻るようにして広崎家を目指す。
広崎さんの所有している車はトヨタのハイエース。おそらく八人近く乗車できる車両と思われる。車だけに注目するのなら、どう考えても戸田さんの軽トラックより使い勝手はいい。にもかかわらず広崎さんへの声かけを後回しにした理由はいたって単純で、有事の際の広崎さんは戸田さん以上に関わり合いになりたくない危険人物であったからだ。
化け物じみたゴシップ好きである上に、信じられないほど、口が軽い。
戸田さんの家を目指していたときとは異なり、今度は山道を緩やかに上っていく形になる。当然、運動不足の体には応える。ぜえぜえと息を切らしながら、一体全体どうしてこんなことをしているのだろうと理不尽に対してふつふつと疑問を抱き始めたところで、広崎家に辿り着く。
「広崎さん! 広崎さん!」
この辺りの家の中では最もモダンなデザインの玄関から、ちょうど奥様が出てきたところであった。ド派手な赤いダウンジャケットを着ているところを見ると、外出の予定があると見える。
「広崎さん、車を、車を貸していただけないですか?」
母はなるべくはっきりとした明瞭な発音を心がけていたが、もう一つうまく聞き取ってもらえない。車、自動車、使いたい、大丈夫ですか、お願いします。次々に表現を変化させてコミュニケーションを図るが、奥様は不可解そうに首を傾げるばかり。日本に住み始めてまだ数年。奥様が困ったように玄関を振り返ると、
「おぉ、喜佐さん」とタイミングよく旦那さんが現れる。「あけましておめでとう」
反射的にあけましておめでとうございますを返しながら、僕らは早速車を貸してもらいたい旨を伝えた。
「え、何々、車? 何があったの」
「ちょっと、諸事情ありまして、どうしても埼玉まで行きたくて」
「埼玉? そりゃ無理だよ。今からコレと車で名古屋だから」
言うやいなや広崎さんは奥様の腰にぬるりと手を回し、ぐっと抱き寄せた。抱き寄せられた奥様は勢いのまま広崎さんと口づけを交わし、嬉しそうに微笑む。
広崎さんは小規模ながら農機のレンタル会社を経営している社長。浅黒く日焼けした五十代中盤の男性で、休日は奥様とともにゴルフに行く姿を度々目撃されている。奥様の名前はマイカさん。フィリピン出身の女性なのだが、広崎さんが彼女とどこで出会ったのかはわからない。結婚は三年前。マイカの旦那が将司じゃかっこつかないから、これから俺はリックでいこうと思うんだ。広崎リック。意味不明な宣誓は町内の人間にとって記憶に新しい。以降、リックさんと呼んであげるとたいそう喜ぶ。
大好きなものは奥様とゴルフとビール。それから、近隣住民のゴシップ。
「何々、何だか、ただならないじゃない。急に埼玉だなんて。それにその大きいの何?」
「あ、いや」
「ちょっと――」俯いてしまった母に助け船を出すつもりで口を開いたのだが、うまく二の句が継げない。「複雑な、事情があって」
「複雑な事情? 何よ複雑な事情って。新年一発目から気になるじゃない」
いたずらに広崎さんの好奇心ばかりを煽ってしまう。
この段になり、ようやく僕らは言い訳というものを何一つ考えていなかったことに気づかされる。慌てていたばかりに、理論武装があまりになおざりになっていた。一月一日、謎の木箱を台車に載せ、埼玉まで行きたいので車を貸してくれと頼み込もうとすれば、広崎さんでなくとも誰だって怪しみたくなる。
すみません、やっぱり何でもないですと言ってこの場を後にできたら楽だったのだが、戸田さんが不在の今、広崎さんは僕らにとって唯一の希望であった。
焦れた惣太郎が、とにかくお願いなんでと力業に出ようとしたところで、
「はじめまして」と賢人さんが前に進み出た。「喜佐あすなさんと結婚することになりました、高比良賢人と申します」
「おぉ、あすなちゃん結婚するんだ。喜佐さん、こりゃあ上物の男だよ」
広崎さんはぐわっはっはと高笑いしながら母のことを覗き見た。
「ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。実はですね、僕らはとある大会に参加する予定だったんです」
「……大会?」
「ええ、それも全国大会です」賢人さんは淀みなく、堂々と語った。「この大会は家族でエントリーする必要があり、今回僕ら『チーム喜佐』は、ご覧の四人のメンバーで挑むことに決めました。お母様、惣太郎さん、周さん、そして僕」
突如として始まった完全なる法螺に、僕らは内心震えていた。賢人さんの話がどこに向かうのかもわからない。しかしを露呈させるわけにもいかないので適当に頷き、どうにか話に信憑性を持たせようと、そのとおりなんです、ええ、まったくもってそのとおりです、というような表情だけを作ってみせる。当の賢人さんはすでに腹を決めているらしく、まったく隙を見せない語り口で、
「今日の朝、最後の作戦会議を終え、いよいよ決戦の舞台である浦和に向かおうとした僕らは、悲しい手違いに気づきました」台車の上の木箱を示す。「こちら、競技で使用する大事な道具が、会場の浦和ではなく、僕らのいる山梨に届けられてしまっていたんです」
「はぁー」と広崎さんは、納得したように唸った。
「もちろん、本来であったなら僕らは電車で浦和の会場まで行く予定でした。しかしこの荷物を持って電車には乗れません。そこで、ご迷惑を承知の上で、現在広崎さんにお願いをしているという状況です。僕らはこの大会に向けて入念に準備をしてきました。我々にとって大会制覇は、まさしく悲願なんです」
「そりゃ残念だとは思うけど、協力は――」
「正直に申し上げます」
賢人さんは広崎さんの言葉を遮ると、少しばかり声の大きさを落とした。
「少々、手前味噌な話にはなってしまいますが、我々は目下のところ優勝候補の筆頭です。出場できればほぼほぼ間違いなく、優勝できます。浦和にこの荷物を持って移動するだけで、優勝が手に入るんです」
賢人さんはそこで言葉を切り、
「優勝賞金が出ます」
賢人さんの話に驚きそうになるが、顔に出すわけにはいかない。広崎さんが少しばかり前のめりになったのを確認した賢人さんは、ゆっくりと両手を揉んだ。
「ただ、僕らが求めているのは、お金ではありません。あくまでも名誉と、家族全員で大きな闘いを乗り越えたのだという達成感。これを求めて今日まで練習に励んできました。なので、です。このまま優勝できたとして、賞金が手に入った際には、ですよ? これはもう、僕らの難局を救ってくださった広崎さんにお渡ししても、ね?」
と、こちらを振り返る。
僕が大きく頷くと、広崎さんの目の色が、明らかに変わる。
「そう話してたんですよ」と僕が強ばった笑みで肯定すると、
「……優勝賞金はどんくらいなのよ?」と広崎さんが食いつく。
「えぇと、ですね――」そう言って賢人さんは間を取りながら、我が家の中で最も懐の暖かそうな惣太郎のことをちらちらと横目で見つめた。「おそらく、ひゃ、ひゃくま――」
「十万! 十万! 十万!」
惣太郎がオークション会場のように繰り返しながら賢人さんを見つめ返すと、広崎さんは興味を失したように俯く。これではまずいと判断した賢人さんはもう一度、広崎さんに向き直り、
「二十万だったような」
さっと表情が明るくなった隙を逃さず、無責任に決定打を放ったのは、
「三十万でした」母であった。
根拠もなく釣り上がった優勝賞金に納得した広崎さんは、ぱんと一つ両手を叩くと、マイカさんに行き先の変更を伝えた。名古屋観光を楽しみにしていたらしいマイカさんはしばらく不平らしきものを口にしていたが、帰りに銀座で好きなものを買ってやると告げられると機嫌を直し、やはり執拗に広崎さんと唇を重ねた。
時刻は十二時三十八分。
ご神体返却のリミットまで、残り十一時間二十二分。
僕らは慌てながらも、慎重に広崎さんの車へとご神体を載せ替える。荷室の扉を勢いよく閉めたところで、
「ところで、何の大会に出るの?」
尋ねられた僕は慌てて賢人さんを捜したのだが、すでに車内に乗り込んでしまっており助けは求められない。すぐに答えなければ。僕はリアガラス越しに木箱を見つめながら、どんな競技ならこれだけの大荷物が必要なのかを音速で考えた。しかしどうにも中に眠るご神体の姿を頭から拭うことができず、さらには数時間前に見たテレビ番組に大会のイメージを引っ張られた。
苦しみながらどうにか僕が捻り出したのは、
「……ニューイヤーロボット、コンテスト、です」
いえ
鉛筆を動かす手を止めると、あすなは鬼気迫る声を家中に響かせた。
「何としてでも、お父さんを見つけるから」
あすなは居間に戻ってくるやいなや炬燵の上に一枚の紙を広げ、人差し指で細かくつついた。そして遅れて入ってきた珠利が遠慮がちに覗き込んでいることを確認すると、これが現在の喜佐家の間取り図であると説明する。
三十年以上前、この家を改築した際に大工から提出してもらった設計図だ。当然、紙は干からびたように黄色く変色している。倉庫にほんの数枚だけ残っていたものであった。
「古い上に、近所に住んでた大工さんに施工してもらったから、家もこの間取り図も造りは雑。でも大体このとおりだから、スマホでこの図面を撮るなりして、一緒に家中を探して欲しい」
「……何を探せば」
「お父さんの居所の手がかり。絶対にあるから」
「電話、やっぱり繋がらないんですか?」
指摘されたあすなはすぐさまスマートフォンを掴むと、素早い動作で父さんに電話をかけた。しかし電話口から応答があるはずもなく、まもなくどこからか重たいバイブレーションの音が響き始める。あすなは耳を澄ましながらゆっくりと立ち上がると、音の発信源を探して廊下に出る。
電話台の引き出しの中から携帯電話を見つけたあすなは、居間に戻ると少々乱暴な動作で炬燵の上に放り投げた。
「お父さんは絶対に電話には出ない。一番安いプランで契約だけはしてるけど、どこに行くにしても携帯は家に置きっぱなし」
どうあっても連絡はとれないという事実に強度の不安を覚えたのか、珠利は小さな鼻を震わせ始めた。そして喉をしゃくり上げると、涙をはらはらとこぼす。
あすなは面倒くさそうに天井を見上げてからため息をつくと、苛立たしさを隠すことなく珠利をきっと睨みつけた。
元来根は優しいはずなのだが、あすなは人を慰めることを極端に苦手としていた。当人は親切にしているつもりなのだが、声が少しばかり低いのと、眼力がいささか強いせいで意味もなく相手を畏縮させてしまう。不得手だと割り切れたのが十代後半。慣れない励ましの言葉で鼓舞するよりも、いっそ突き放すほうが性に合っていると判断したのか、以降は年少の周相手にも言葉を尖らせるようになった。
「悪いけど、今はしっかりして」
「あの……もしこれ、最悪の場合、惣太郎の会社も――」
「わかんないよ。私にはわかんない」
あすなはハイカラな染め方をした髪をき上げると、叩くと撫でるのちょうど中間の力で、珠利の頭をぽんぽんと何度か触った。
「喜佐の人間でもないのに、こっちの問題に巻き込んじゃって悪いと思ってる。ただ、今は少し聞いて。家の中からお父さんの手がかりを探して欲しいって言われてもぴんとこないのはわかる。でも、この家には一つだけおかしな点がある」
珠利は顔を上げると、洟を一つ啜った。
「お父さんはとにかくいっつも家にいない。どこかに遊びに行っては、そこの戸棚にお土産だけを残す。それの繰り返し。家にいる時間が極端に短いから、当然この家の中にもお父さんの荷物はほとんどない――ほとんどないからこそ、引っ越し三日前だっていうのに、荷造りほったらかしにしてどっかに遊びに行くことができてるの。でもね――」
あすなは視線を間取り図へと落とす。
「いくら何でも、荷物が少なすぎる」
鉛筆に向かいかけていた手を止める。
あすなは間取り図を持ち上げると、ひとつひとつの部屋を指差しながら説明を始めた。ここが両親の部屋、私の部屋、周の部屋、台所、浴室。惣太郎と珠利が結婚したのは今から三年前。珠利がこの家に来たのは今日が初めてではないが、居間以外の部屋に入った経験は皆無であった。
「倉庫はすでに見た。でもお父さんの荷物らしいものは特になかった。両親の部屋、今は物置みたいになってる元子供部屋、この辺りにないのなら、床下か屋根裏を漁ってでも――」
「この……これは?」
「昔使ってたトイレ」
喜佐家は二回の改築を経て現在の形に落ち着いたものの、一九九二年に二度目の改築を行うまで、トイレは家の中に存在しなかった。用を足す際には家の外にある狭い木造の小屋に向かう必要があり、雨の日は体を濡らすことになった。現在ではまったくと言っていいほど見られなくなったが、防臭機能が不十分だった当時はまま見られる形式であった。
あすなは外のトイレも同様に確認しなくていいことを伝えつつ、とにかく家中のありとあらゆる場所をひっくり返して構わないと口にした。引っ越しの準備は順調に進んでおり、小物の類はほとんど段ボールに収納済み。今こそ家の中をくまなく探すことができる絶好の機会に他ならない。父さんの荷物が見つかったところで、父さんの居所に繋がる情報は出てこないかもしれない。今回のご神体騒動の原因を突き止められるとも限らない。
「でも」と、あすなは語気を強める。「この家族の真ん中はずっとお父さんだった。お父さんを捜すことが、あらゆる問題を解決する一番の近道に違いない。少なくとも今の私たちにできることはこれしか――」
「あの……訊いてもいいですか?」
「何」
「惣太郎、倉庫から出てきたあれを見たとき、二回目って、言ってたと思うんです」
あすなは沈黙する。
明らかに、触れられたくない話題であった。あまりにも事情が込み入っており、なおかつ喜佐家の誰もが、まだあの事件の全容を飲み込めていなかった。語りたくないというのも本音なのだろうが、語ろうにも語れないというのが実際でもある。珠利もあすながその話題に対して決してポジティブな反応を見せていないことは承知している様子であったが、しかし引き返すことはしなかった。
「以前もあったんですか? こういうこと」
「ちょっとごめんだけど、今、説明してる時間はない」
あすなは急いたように、廊下へと繋がる襖に手をかける。
「必要なことは後で絶対に話すから、今はとにかくお願い。それと最初に一つだけ約束して欲しい」
「……約束?」
「この家から仮にどんなものが出てきても、それを他の家族には伝えないで」
意図をはかりかねた珠利は黙したが、喜佐家で育ってきた人間であれば、あすなが何を危惧しているのかは自ずと理解できる。かつてあすなの父、喜佐義紀は、妻子のある身でありながらとある女性との不貞行為に及んでいた。浮気相手との関係は完全に清算されたはずであったが、その後も密かに通じていた可能性は否定できない。文通や、贈り物の形跡などが見つかったとして、それを家族の誰か――とりわけ母さんが知ることになれば、彼女は大いに傷つくことが予想された。
「何かを見つけたら、まず私のとこに報告に来てほしい。お願い」
「……わかりました」
珠利はあすなの提案どおり間取り図をスマートフォンのカメラ機能で撮影すると、あすなとともに居間を飛び出した。二階に駆け上がり、廊下を走り回り、戸棚という戸棚を開けては閉める。屋根裏を探し、天井付近を強引につつくような音も響いた。かと思うと強度を探るように、こつこつと床を叩く音も響かせる。床下に繋がる継ぎ目を探していた。
この日の最高気温は摂氏七度。最低気温はわずか二度。
居間では石油ストーブが稼働していたが、それでも完全には暖まりきらない。断熱機能が貧弱な喜佐家の中に、快適と言える場所は少なかった。動き回っていれば多少は体も温まるだろうが、快活に過ごせる気温ではない。二人は定期的に暖を求めて居間に戻ると、しばし炬燵で体を温めてから再び居間を出た。
広い家ではない。調査を始めてから一時間もすれば探すべき箇所にはあらかた手が伸びてしまい、徐々に手詰まりの気配が見え始めてくる。あすなは居間の中央で腕を組むと、次なる一手を考えるように目を閉じた。壁面の一点を見つめ、つま先でとんとんとバスドラムを小刻みに叩くよう、床を鳴らす。
「あの」
珠利が勢いよく居間に飛び込んできたが、あすなの表情に期待の色はわずかばかりも存在していなかった。もとより、あすなは他者に期待することをよしとしていない。あらゆる物事を自分で決定したいと願う気持ちを自己中心的であると誹られることもあったが、彼女の本質はどこまでいっても強さであった。事実として彼女は、これまでの人生の多くの局面を独力で乗り超えてきた。
どこか珠利に物足りない印象を覚えていたあすなが、彼女に対して過剰な期待を抱けないのも無理からぬことであった。どうせ、取るに足らない発見を口にするのだろう。どこか冷めた表情で珠利を迎えたあすなだったが、一枚の紙を見せられると途端に目を見開いた。
短冊形の白い和便箋に、ボールペンの文字がさらさらと躍っている。
「これ、どこに?」
「倉庫の中です。一応と思って探したら、端っこのほうに落ちてて」
あすなは、珠利の手の中に収まっている紙切れを険しい表情で見つめていた。いつまでも腕を組んだまま紙を受け取る気配がないので、自分が紙面を読み上げるべきだと判断したのだろう。珠利は甲高くも小さな声で、ゆっくりと紙面を読み上げた。
喜佐様
ひとまず五万円失礼いたします。残りの四十万円については、また後日、正式にご神体の引き渡しが済んだ際にお願いできればと思います。くれぐれも内密に、そして厳重に保管をお願いします。
読み上げると、珠利は動揺から体を震わせた。
「これ、お義父さんが別の誰かとやり取りして、あの箱を保管してた――ってことですよね?」
「……外部の誰か」
「窃盗団とか」
珠利は咄嗟に口にしたが、あすなに見つめ返されると矢継ぎ早に弁明を始めた。
「すみません。さっきテレビで神主さんみたいな人がそんなこと言ってたんで、つい。でもこれ、そういうふうにも読めるメモで。何だか……」
「お父さんが、外部の誰かと結託してた、か」
あすなはぼそりと呟くと、しばらく可能性を吟味するように黙り込んだ。これまでの状況とメモの内容を参照してみれば、父さんが外部の何者かと協力関係にあったと見るのが自然であった。しかも金銭の授受が発生していた形跡が読み取れる。果たして取引相手は珠利が口にしたように窃盗団であったのだろうか。
車で移動中の惣太郎たちにも、このメモの存在を共有すべきではないか。
珠利が提案すると、あすなは伝えてあげて構わないと返した。あすなが漏洩を恐れているのは、父さんの不貞行為に纏わる情報。今回のご神体騒動に関するものであれば止める必要はない。どころか、積極的に全員で共有してよいと考えていた。
「それと、もう一ついいですか?」
珠利は炬燵の上に置いたままになっていた間取り図を手に取ると、中央辺りの一点を細い指で示した。
「ここって……」
「あぁ、この向こう側ね」
あすなはよくある質問を耳にしたといった様子で歩き出すと、居間の壁面を拳で二度ほど叩いた。軽快な音ではあったが、不意の物音に持っていたものを落としそうになる。珠利は気を取り直して、そこがと言葉を続けようとしたが、あすなは興味なげに話を続けた。
「ここは改築したときの影響で意味のない二重構造になってるだけ。たぶん、ものすごく薄い空間だろうけど、図面のとおり向こう側には意味のない空洞がある。耐震性を確保するために柱を動かせなかったからこうなったってお父さんからは聞いてるけど――」
「その、そこが――」
「この向こう側はどこにも繋がってない。空気が通るようにはなってるけど、四方を壁で嵌め殺しにしちゃったから――」
「行けるんです。たぶん」
聞き間違いをしたと思ったのか、あすなは小さく首を傾げた。
「反対のこっち側の壁の一部、扉みたいになってるんです。だから、きっと行けます」
残り937キロメートル
くるま
「つまるところ、そのボールをフィールドの端にある籠に運べた数で勝敗が決まるんです」
広崎さんは心底納得したように相槌を打つと、ETCゲートを通過するためにぐっとブレーキを踏み込んだ。ゲートが開くと再加速。母、惣太郎、賢人さん、僕、そして広崎さん夫妻の計六人と、十和田白山神社のご神体を乗せたハイエースは、都留インターから中央自動車道へと進んでいく。
「そりゃあ、ずいぶんと大変そうじゃないですか」
「仰るとおりです」と賢人さんは頷いた。「大変に難度の高い競技と言えます」
ニューイヤーロボットコンテストという架空の大会をでっち上げたはいいが、その詳細を訊かれると僕は言葉に詰まった。ルールが少々複雑で。適当な言葉で間を繋ぎながら視線で家族に助けを求めると、賢人さんが笑顔で話を引き取ってくれた。
ニューイヤーロボットコンテスト(通称ニューイヤーロボコン)は、一般的な理系専攻の学生によるロボコンとは異なり、家族単位での出場が義務づけられている特殊な大会。それぞれの家族がレギュレーションの中で思い思いのロボットを作り上げ、全国優勝を目指して毎年火花を散らしている。基本的にはボールをフィールドにあるA地点から、B地点にいくつ運べたかを競うシンプルな競技なのだが、相手チームへの妨害行為も認められているため戦略が大変に重要になってくる。移動、攻撃、防御。すべてを一台のロボットでまかなわなくてはならず、なおかつ参加している家族のメンバー全員がコントローラーを握らなければいけないというのも今大会の特徴。腕を動かす係、足を動かす係、攻撃用のロケットを動かす係。全員の息が合わないと、勝利を掴むことはおろか、ただロボットを動かすことさえままならない。
僕は最初こそ賢人さんの如才ない即興劇に戦慄していたのだが、途中からなるほど、本当にこういう競技がどこかにあるのだろうと理解できた。あまりに説明が滑らかにすぎる。少なくともモチーフにした何かが存在しているのだ。
「義紀さんは、メンバーから外したんだ?」
「はい?」
「コンテストのメンバー」
広崎さんは振り返ると、こちらに向かって白い歯を見せた。
運転席には広崎さん、助手席にはマイカさん。二列目に僕と賢人さんが座り、三列目に母と惣太郎が座る配置になっている関係で、どうしたってこの質問には僕が答えなければならなかった。僕はルームミラー越しに苦笑いを見せつけ、そうしましたとだけ答えておく。
「まぁ、そうなるわね。義紀さんはほら、家族の和を乱す側の人だろうし」
そのとおりであったのだが、外部の人間から言われると居心地の悪い胸騒ぎが走った。羞恥心と痛みが胸にずしんとのしかかり、反論を試みたくなる疼きが刹那、胃袋の上辺りを駆け抜ける。しかし反論できる材料などまったくないものだから、曖昧な苦笑いに逃げることしかできない。そうして当たり障りのないリアクションをしている自分に気づいたとき、やっぱり僕は心の底から父のことが許せないのだなと再認識する。
本当に、恥ずかしい人だ、と。
悲しいことに父がかつて浮気をしてしまったことは、狭い町内では周知の事実となっている。噂はたった一人の力で広まるものではないが、拡散にあたって八面六臂の活躍を見せたのは他でもない広崎さんだ。なぁ、知ってるかい、義紀さんとショップ栗田の娘さんの話。もちろん僕らに彼を責める権利はない。ただ、広崎さんとの関わり方には細心の注意が必要であるということを、あの一件から大いに学んだ。
だから今回も、可能ならこの人の力は借りたくなかった。万が一にも積み荷が盗品であるとバレてしまった日には、お金を二兆円包もうが絶対に口を塞ぐことはできない。
「あの、あすなちゃんの旦那さんの……」
「賢人です」
「賢人さん。あなた色男だからモテそうだけど、男はやっぱりね、浮気は絶対にいけないよ」
僕は気まずさに顔を顰め、小さく後ろを振り返った。車内が広かったこと、そして高速道路を走行していたためロードノイズが大きかったことが奏功し、広崎さんの言葉は母の耳には届いていなかった。母は車が道路の継ぎ目で揺れる度に、不安げに木箱の様子を窺っている。
「浮気をしない、そんで、奥さんを抱き倒す。これに尽きるよ」
「情熱的ですね」
「そのとおり、すべてはパッションですよ。家庭円満はそこに集約される」
「勉強になります」
賢人さんが大人の対応で返すと、広崎さんは助手席に座るマイカさんの太ももをむにゅりと撫でた。マイカさんは表情を変化させることなくあっさり手を払いのけると、スマートフォンの画面を広崎さんに見せつける。おそらくはティファニーの商品紹介ページ。車に乗り込んだときから、彼女は銀座で買ってもらうべき商品の選定に忙しい。これという商品を見つけると広崎さんに見せつけ、広崎さんはちらりと脇見すると機械的にいいねぇと唸る。すでに三度ほど繰り返されていた光景だ。
「あれ、周くんも結婚だって話だよね」
「あ、そうなんですよ」
「情熱だよ情熱。まっすぐな情熱で抱き倒す」
「頑張らないとですね」
「違う違う、頑張るんじゃないよ。自ずとむくむくっと湧き上がってくるもんなんだよ。いい夫婦っていうのは、情熱がね」
「あはは」
「冗談言ってるんじゃないからね。夫婦ってのはそれで成り立つんだから」
いたく感心している表情だけを整え、確かにそうかもしれないですねと、僕は心にもない言葉を返した。
何とも単純で、この上なく下品な人だ。
僕は意識を窓の外へと向ける。帰省ラッシュとUターンラッシュの間に挟まれた一月一日の中央道は、想定していたよりずっと快調に走った。現在時刻は十三時十五分。藤野パーキングエリアまで残り三キロの看板を通過すると、車はまもなく神奈川県へと入る。
後席に座る惣太郎からLINEでメッセージが送られてきたのは、そこからさらに三十分ほどが経過した頃だった。車は順調に距離を稼ぎ、東京都は青梅市に到達。首都圏中央連絡自動車道に乗り換え、もうまもなくで埼玉県入間市というところまで来ている。
惣太郎が直接話しかけてこないことに意図を感じた僕は、一度運転席の広崎夫妻を覗き見た。こちらに注意を払っている様子はなかったが、念のためネットニュースでも見ているような何気なさを装い、メッセージに目を通す。
[珠利から来た写真を転送する。家の倉庫から出てきたらしい]
添付された画像をタップすると、一枚の紙切れが表示される。判読できるように拡大すると、僕は平静を装うのも忘れて画面に釘づけになる。
喜佐様
ひとまず五万円失礼いたします。残りの四十万円については、また後日、正式にご神体の引き渡しが済んだ際にお願いできればと思います。くれぐれも内密に、そして厳重に保管をお願いします。
このメモから正しい考察を積み上げていくためにはいくらかの時間と、何より事実だけを見極める冷静さが必要だった。僕は深い呼吸を続けながら、文章を三度ほど通読する。
ご神体という文言が明記されていることからして、この手紙があの木箱の中身について語っているのは間違いなさそうであった。今さらではあるが、やはりあれはれっきとした十和田白山神社のご神体なのだ。
[珠利とあすなは、窃盗団とのやりとりを疑ってる]
追加で送られてきた惣太郎からのメッセージにはいくらかの飛躍を感じたが、よく噛みしめてみれば存外的外れでもない推論かと思えてきた。木箱をただ持ち上げるだけでも大人三人の力が必要なのだ。神社からの盗難、山梨への輸送、自宅倉庫への収容。すべての作業を一人でやったと考えるのはあまりにも非現実的だ。父には協力者がいたと言われたほうが、むしろしっくりとくる。
窃盗団という響きはずいぶん安っぽかったが、考え得る限りもっともリアリティのある仮説であった。思い出したくもない悪夢だが、二十年前のマスコット窃盗事件。あのとき、父と「おもちゃん」との間には明確な関係性があった。しかし今回、父とあのご神体とを結びつけるものは何一つとして見つけられない。ご神体を欲したのは父ではなく外部の人間であり、父の目当てはあくまで金銭。妥当な推測だ。
父はいつものようにふらりと家を出ると、青森へと向かった。青森に行くことに特別な意味があったのかはわからないが、個人的には、何となくだろうと推測する。何においても強い願望や執着のない人間だ。流されてよい状況のときはどこまでも流される。選択肢を提示されたとしても自身が選ばなくてもよいのだと判断すればとことん何も選ばない。そんな父は旅先の青森で、ご神体の窃盗を企てている人物と出会ってしまう。
手付金五万円、成功報酬四十万円。
少なくない金額を提示され、父はご神体の窃盗に力を貸すことを決めた。喜佐家の倉庫を保管場所として提供し、犯人たちから謝礼金を受け取る。
所詮は現状見えている景色から組み上げた仮のストーリー。後になって事態を詳らかにしていけば、いくらかは父に対して同情できる背景が見えてくるのかもしれない。しかしそれでも、手元にある情報だけで、僕はすでに十分に失望することができていた。
後席の母を確認すると、涙を隠すように両手で顔を覆っていた。先のメモを確認したのだろう。少し取り乱しすぎていることを注意しようかとも思ったが、体を丸めていたのでルームミラーには映らない角度であった。広崎さんに異変を悟られることはあるまい。朝からあまりに多くのことが起こりすぎていた。母にも心を落ち着かせる時間が必要だった。
解体を目前にして、またも父の持ち込んだトラブルがこの家族を苦しめる。
僕はこれまでの人生でこういった局面に遭遇する度に、毎回判で押したように同じ思考に囚われた。まずは父を恨み、父を許してしまう母に呆れ、家族の問題に無関心である惣太郎とあすなに憤る。そして最後には、自分はこんな家族は築くまいという強い使命感に駆られる。
家族はこうあるべきではない。間違ってもこんな父親に、僕はなるまい、と。
「このまましばらく真っ直ぐで、オートバックスが見えたら右折で」
惣太郎が道案内を始めたということは、彼の家が近づいているということだった。緊張で時間感覚が乱されていたが、車に乗ってからもう間もなく二時間が経過しようとしている。
「大会、間に合いそうかい?」
振り返った広崎さんに対して誰よりも最初に返事をしたのは、意外にも母であった。
「本当にありがとうございます。広崎さんの分も頑張ります」
先ほどまで涙を流していた人間とは思えないほど、澄み切った瞳をしていた。焦りもあって表情に余裕はないが、声は一切掠れていない。一瞬にして何かを切り捨て、新たなものに希望を見出し、前を向く。逞しさと悲しみがちょうど同量ずつ含有されている、いつもの母の表情だ。
わずかでも時間を惜しみたかったが、惣太郎の家の前に車を横づけし、ここがニューイヤーロボコンの会場ですと嘯くわけにはいかなかった。一応のところロボコンの会場らしきところへ向かう必要がある。そこで広崎さんには、惣太郎の家から歩いて五分ほどの位置にある公民館を目指してもらっていた。
「え、ここ?」
ナビが到着を告げた瞬間、広崎さんは想像以上にこぢんまりとした公民館の外観に驚いた。実物の画像を確認していなかった僕らも驚いた。建物は小さな図書館くらいの大きさしかなく、全部で六台止められる駐車場は二台しか埋まっていない。しかしうだうだと言い訳を並べる時間も、もう少し大きな会場を指定しておけばよかったと後悔する時間もない。
「中は、意外に広いんです」僕が言い切ると、
「狭いフィールドの中をいかにスムーズに移動していくかというのも、この競技の醍醐味の一つなんで」と賢人さんも補足してくれる。
車を降りると、すぐさまリアゲートを開けてもらう。先に台車を地面に降ろし、続いて木箱に手を伸ばす。右サイドからは僕が、左サイドからは賢人さんが引っ張ろうとしたのだが、慌てていた僕らは呼吸を合わせることを忘れていた。
持ち上げる準備を整えるタイミングが、ほんのコンマ数秒、遅れた。
虚を突かれた僕はつるりとした表面に手を滑らせ、木箱を掴み損ねる。すっ、と、氷のような絶望感が体を走ると、容赦ない衝撃音が走る。木箱は台車を弾いて地面に落下。運悪く締め方の甘かった留め具も外れ、弾かれた蓋が開いてしまう。
日の光に照らされたご神体と目が合ったのは、ほんの一瞬。中身は見られていないだろうと信じてすぐさま留め具を嵌めたのだが、ぞっとするほど耳の近くで、
「今の何」
恐る恐る振り返れば、そこには広崎さんの疑いの眼差しがあった。
惣太郎も母も、そしておそらくはこの僕も、取り繕えないほどの動揺を顔一面に浮かべていた。運の悪いことに、見えてしまったのはご神体の上半身。誰がどう見ても、ロボットコンテスト用のロボットには見えない。
「逆に広崎さん――」賢人さんはすぐさま転がっていった台車をもとの位置へと戻しながら、「今見えたこの箱の中身、何だと思われましたか?」
「何か、仏像みたいなのが――」
「それです」賢人さんは言い切ると、人差し指を立てた。「どう見ても仏像にしか見えない。なのにどのチームよりも高性能なマシーン。相手を油断させるこのギャップこそが我々を勝利に導くんです。よく見てください、この箱だって見るからにロボットが入っているそれではない。すべての小さな配慮が勝利に繋がる我々の――」
「いやいや、さすがにこれは仏ぞ――」
「今はこうなんですって、広崎さん!」
力強く言い放ったのは母だった。
「時代が変わったの。固定観念に縛られちゃ駄目なんですって。このほうがずっと速いの」
なぜだか年長者に言われると説得力も増すようで、広崎さんは首を傾げながらも黙り込んだ。しかし組んでいた腕を解いて首筋を丁寧に揉みしだくと、やはりそんなはずがないと思い直したのか、徐々に懐疑の色を濃くしていく。バレてしまう。もはやここまでかといっそ死を覚悟した僕らを救った一声は、
「三十万!」
マイカさんは力強く叫ぶと、公民館の入口を指差した。
「三十万! 急いで!」
マイカさんの鬼気迫る一声に、広崎さんも山梨から一路埼玉県を目指した理由を思い出す。これではいけないと引き留めたことを詫び、三十万三十万と叫びながら握り拳で僕らを鼓舞してくれる。僕らもまた合い言葉のように三十万三十万と唱和し、木箱を載せた台車を押しながら公民館の入口へと走る。
言うまでもなく公民館に用事など何もない。そのまま一直線に裏口まで駆け抜け、惣太郎の家を目指して台車を押す。歩道の上を転がる車輪の音は相当に耳障りであったが、一月一日の住宅街は幸運なことに通行人も少なかった。誰に見咎められることもなく惣太郎の家に辿り着く。
3LDK、庭つきのマイホーム。二年ほど前に建てたという話は聞いていたが、母も僕も訪問するのは初めてであった。敷地面積は想定を下回っていたが、建物自体の造りは大変にモダンでいかにも惣太郎が好みそうな高級感を醸していた。しかし中に入って少しお茶をというわけにもいかず、僕らは駐車場に止まっている黒塗りの高級ミニバンに向かって一目散に走る。三列目のシートを側面に上げ、賢人さんと協力して木箱をラゲッジスペースに押し込む。
しかし、入りきらない。
押せども押せども、木箱の端がリアゲートより外側に飛び出してしまう。せっかくここまで来たのに、こんなオチはあんまりだ。絶望に天を仰ごうかと思ったとき、惣太郎が二列目の背部に工具箱が挟まっていたのを発見する。工具箱を横にずらしてやるとするり、木箱の全体がラゲッジスペースに収まった。僕らはその場に倒れ込みそうなほどに安堵したが、これを笑い話にできるかどうかはこれからの僕らに懸かっていた。
スライドドアを閉め終える前に、発進。
このまま十和田白山神社に向かいたいのが偽りのない本心ではあったが、さすがに不義理がすぎた。理由はどうあれ、広崎さんは貴重な元日に百キロもの距離を走破してくれたのだ。惣太郎が近くのコンビニに車を止めた意味を、この場にいる誰もが深く理解していた。
「言っとくけど、俺一人じゃ三十万なんて出せねぇからな」
惣太郎はシートベルトを外しながら言うと、まず金額を勝手に決定してしまった母を批難してから、
「周、半分出せ」
「は、半分?」僕は目が点になる。スポーツカーと高級ミニバンを乗り回す経営者相手に、公務員の僕が折半。「……出せるわけないだろ。こっちは結婚前だよ」
「だから、結婚式のために金貯めてんだろ」
「いや、それは、結婚式用に貯めてるんであって、優勝賞金のために貯めてたわけじゃ――」
「俺だってニューイヤーロボコンのために金貯めてねぇよ! どうせ結婚式はご祝儀で利益出るんだから、ここでケチるなよ!」
「利益なんて出ないよ!」
「出るよ!」
「出ないって!」
「俺は出したよ!」惣太郎は運転席横の小物入れを拳で叩きながら、「メシのランク下げて、引き出物ケチって、顔見知りレベルのヤツ全員呼べばどうとでもなるんだよ!」
こうなったときの惣太郎は絶対に引かない。僕は唖然としながらも、ひとまず車を降りてしまうことに決めた。母や賢人さんが気を遣い始める展開は避けたい。母はパート勤め。賢人さんの正確な収入はわからないが、同僚であるあすなの薄給具合は十二分に承知していた。あらゆる意味で気軽に頼っていい相手ではない。
コンビニATMへの道すがら激しい価格交渉を繰り広げ、どうにか僕の出資額は九万円ということで決着がつく。ATMから吐き出された九枚の万札を抱きしめながら、僕は心の中で婚約者に詫びた。
一方の惣太郎は、残念ながら準優勝だったので賞金は十万円だった、予想外の大敗を喫して賞金は出なかった等の言い訳を直前まで考えていたが、最後には文句を垂れながら二十一万円をATMからおろした。相手は広崎さんだ。何かしら味噌がついてしまえば、喜佐家にとって大きな厄災に繋がってしまうとも限らない。
「袋とかは、お前が買え」
捨て台詞のように言われたので熨斗袋と筆ペンを購入し、この中では最も字がうまい母に車内で一筆したためてもらう。祝優勝。ピン札は用意できなかったが、さすがにそれで勘ぐられるようなことはあるまい。三十万を包んだところで公民館の裏手に回り、今度は裏口から入って表に出る。
「やりましたぁ!」
何もめでたくないのに優勝したふりなどできるのだろうか。試合をしてきたと言い張るにはあまりにも戻ってくるのが早すぎるのではないか。駐車場脇のベンチに座る広崎さんの姿を見てもまだ心は固まりきっていなかったのだが、先頭に立った賢人さんのガッツポーズがすべての不安を吹き飛ばしてくれた。
力強く、爽やかで、それでいて確かな喜びが感じられる質量のある笑みと所作。あまりに自然に喜ぶので、不思議と賢人さんを祝いたい気持ちが僕らの頬にも笑みとなって浮かんでくる。熨斗袋を手渡す瞬間はあまりに意味のない出費に目頭が熱くなるも、それもいっそ歓喜の落涙といった雰囲気に映ったらしい。広崎夫妻は僕らを大いに讃え、埼玉まで行きたいと言われたときはどうしようかと思ったけど、やれやれ本当に優勝してくれるとは――というような思い出話を始めたので、僕らは慌ててその場を後にする。
「ありがとうございました!」
手を振って広崎さんに別れを告げ、路上に止めていた惣太郎のミニバンに飛び乗る。
乗り込んだ瞬間にナビを十和田白山神社に設定すると、到着予想は八時間三十分後と表示される。現在の時刻は午後三時二分なので到着予定は、
午後十一時三十二分。
間に合う。
惣太郎は必要以上に力強くアクセルを踏み込むと、ほとんど赤であった黄色信号を三つほどぶち抜いて国道463号を進み、ナビの指示に従って新見沼大橋有料道路へと入った。乱暴な運転のおかげで到着予定時刻が二分ほど早まったことを確認すると、惣太郎はようやく前のめり気味だった姿勢を正し、深呼吸をしながら背もたれに体を預けた。
もう広崎さんもマイカさんもいない。意味のわからない演技をする必要もなく、後はひたすら事故なく車を走らせるだけでいい。もちろん八時間以上のロングドライブの経験など誰にもない。今後もドライバーの交代や給油、渋滞回避など、いくつかの懸念事項は想定されたが、車内の空気は劇的なまでに弛緩した。
惣太郎は進行方向を見つめたまま今一度、優勝賞金を三十万円に設定した母に対して苦言を呈した。そしてそのままの流れで九万円しか拠出できなかった僕を責め、そもそも金で広崎さんを釣ろうとした賢人さんにも批難の矛を向け、しかし最終的には思い直したようにハンドルの縁を拳でひとつ叩いてから、
「ったく……全部あのバカ親父のせいだよ」
悲しいほどに、そのとおりであった。
まったく、何てことをしてくれたんだ。叫んで父を糾弾したい気持ちはあったが、荒れている惣太郎を見るといくらか怒りを吸い取られた。のたうち回っても状況は変わらないし、感情を剥き出しにしている人間はシンプルに見苦しい。
母が助手席を選んだので、僕と賢人さんが後席に並んでいた。ご神体盗難のニュースを見たときから一瞬たりとて心の休まる瞬間はなかったが、ここにきてようやく少しばかり落ち着ける状況になった。僕は深く息を吐くとここまでの一連の出来事を振り返り、
「賢人さん、すごいですね」
「何がですか?」
「いやなんか、広崎さんの説得から何からあまりに堂々としすぎてて」
「はは、ならよかったです。あれで結構緊張してたんですけどね。コートの内側は汗でびっしょりでした」賢人さんは笑いながら胸を叩くと、「意外に僕らの仕事って、イマジネーションと度胸が鍛えられるんです」
「そんなお仕事なんですか?」
「あすなさんから詳しくは聞いていませんか?」
「何となく美術系だとは」
「僕らの仕事は舞台美術。『大道具さん』などと呼ばれる領域の仕事になります」
あすなと賢人さんが勤める会社はイサイ美工という名の美術会社で、本社は山梨県甲府市にある。テレビ番組や、イベント、演劇などの舞台美術を手がけているそうだ。基本的に映画のスタジオやテレビ局にはお抱えの美術スタッフがいるのだが、イサイ美工は独立した法人だそうで、様々な仕事を多方面から請け負っている。
クライアントの要望に対してどのようなデザインがいいかを考える作業はまさしくイマジネーションを求められ、それでいて答えのない世界の中で生きていくには度胸も必要。思い切ってアイデアを捨ててしまおう、いや、やはりこれでいい、我々の案のほうが絶対にいいのでこちらでいかせてください。よもやこんな形で役に立つとは思わなかったと笑いながら、賢人さんは自身の仕事を説明してくれた。
「そんな職場で、あすなさんとも巡り会えました」
「姉、気難しくないですか?」
「神経質で個性的なのはこの業界、全員お互い様です。四日前まで熊本の現場に泊まり込みで三泊の出張をしてたんですけど、誰も彼もわがまま言いたい放題でしたよ。何だったら、我々はいくらか寛容な部類です」
「寛容ですか」と僕は笑ってしまう。
「まあ、あすなさんも、湯船のない部屋はNGだと少々ゴネてはいましたけど」
堪らず噴き出してしまうと、惣太郎が乱暴に車線変更をした影響で体がぐっと右に持って行かれる。車は東北道を仙台方面に向かって北上していた。
「姉が普通に結婚して家族を作るなんて、思いもしませんでした」
「普通に結婚して家族、ですか」
「まあ、何というか――」僕は少し言葉を選び直し、「だいぶ世間の感覚とはズレてる感じの人だったんで。前衛的というか、進歩的というか」
「結婚って何なんでしょうね」
僕に質問しているようにも聞こえたし、自身に問いかけているようにも聞こえた。思えば僕ら二人は、互いに結婚を間近に控えた男同士であった。結婚とは何なのだ。父に端を発するトラブルに巻き込まれている最中ということもあって、賢人さんの言葉は必要以上の意味を纏い、僕ら二人の間をもやもやと漂った。てっきりこの話題はこのまま抽象的な感慨とともに沈黙の中に溶けていくのだろうと思っていたのだが、賢人さんが続けた言葉は予想外にぐっと本質に踏み込み、
「最近の若者は、非婚化、晩婚化が進んでるなんて言うじゃないですか」
僕は声を上ずらせながら、はいと答える。
「でも実はね、概ね大体の人が結婚をする『皆婚社会』のほうが特殊なんです。歴史的に見ても一九五〇年代から七〇年代の間くらいしか達成されていません。そういう意味では、ですよ。普通に結婚するほうが実は変、と言えるかもしれない」
「……お詳しいんですね」
大学で文化人類学を齧っていたんですと語ると、車がまた急な車線変更に揺れる。賢人さんはドア上部についている持ち手を握り、
「男は外で仕事。女は家で家事。多くの人は古くさい家族像ですねと言うのでしょうけど、これも実は歴史的に見るとかなりモダンです。アメリカでは一九五〇年代くらいから始まり、日本ではもう少し遅れて一九七〇年代くらいにピークを迎える。それまで家族の形は実に様々な要因によって大いに揺さぶられ、めまぐるしく形を変化させてきました。歴史的に母子の関係は強固であることが多いですが、母が子供の父親が誰であるかに関心を持たない時代もありました。チンパンジーの群れなんかと同じで、共同体みんなで子供を育てるから、夫が誰であるのかはあまり重要ではないんです。大昔は夫が妻のもとへと通う妻問婚が採用されていた時期もあり、このとき夫婦は必ずしも一緒に住んでいません。僕らがごく自然にそこにあると信じている家や家族は、律令制度が始まった頃、政治的、経済的理由で作られた人工的な産物です。今はたぶん、昭和に固着した家族像の残り香の中で、新たな形を探している過渡期。果たしてそんな中、結婚という制度はどんな意味を持っているんでしょうね」
「男女が子供を儲けるために必要とされる行政的なシステムなんじゃないですか」
「お子さんのいないご夫婦も結婚はされますよ」
「それはそうか」
たった一手で論破された僕だったが、特にそれ以上言葉を重ねることはしなかった。正直、あまりこの手の話題には興味がない。深く追究していけば少しだけ賢くなった気になれるのかもしれないが、結局のところ賢くなった気分になるだけだ。市役所勤めの僕に言わせれば、結婚は戸籍を一緒にするための法的手続きでしかない。それ以上の意味は、結婚する各々が勝手に考えればいい。
歴史的に見ようが文化人類学的に見ようが、今の普通が僕らにとっての普通なのだ。普通を逸脱する人を責める気は毛頭ないが、普通のレールに無理なく乗れる人間は普通のまま過ごすのが一番いい。
僕は結婚する。父になれるかどうかはわからないが、将来的には子供ができたらいいなと思う。どんな旦那、どんな父でありたいかという理想はうまく持つことができていないが、反面教師だけは常に明確であった。
家族を蔑ろにして、こちらのことを見つめようともしない自身の父、喜佐義紀のようには、死んでもなりたくない。
「何か複雑な事情があったんでしょう」
気づくとラゲッジスペースの木箱を睨みつけていた僕に、賢人さんは優しく語りかける。
「家族だからこそ共有できるものがあるように、家族だからこそどうしても伝えづらいことがある。伝えるために信じられないほど遠回りなことをしてしまうこともある。きっと、何かしら思うところがあってこういうことになってしまったんです」
「同情できるような理由だといいんですけど」
「信じましょう。信じて、とにかく今日中に返すことだけを考えま――」
と言ったところで、これまでで一番大きく車が揺れる。またも強引な車線変更だ。賢人さんは小さく驚きながら、持ち手を強く握り直す。さすがに運転が荒すぎる。一分一秒でも早く着きたい気持ちはわかるが、派手な運転で警察に目をつけられればここまでの道のりが水泡に帰する。堪らずもう少し安全に運転しなさいと母が注意すると、
「違うんだよ」
惣太郎はサイドミラーを見つめながら舌打ちを放った。
「気のせいじゃねぇ……最悪だ」
「何、どうしたの」
「うしろ」
僕と賢人さんは即座に後ろを振り向く。しかし一メートルほどの高さがある木箱のせいで、後方の視界はほとんど遮られていた。よく見えない。何が起きているのだと尋ねると、惣太郎はサイドミラーを見つめ続けたまま、あぁ、と唸る。そして毟るよう乱暴に頭をくと、ひとしきり恨み言を並べてから、
「変な車に、ずっとつけられてる」
いえ
「……何これ」
あすなは囁くように言うと、元子供部屋の壁から手を離した。そして確かめるように再び壁を押さえる。また手を離す。それを三度ほど繰り返す。ほんのわずかであったが、その壁には遊びがあった。手で触れる度に微かに木と木のこすれる音がする。
「開きそう、ですよね?」
「……信じらんない」
父さんと母さんがこの家を購入したのは、今から四十年以上前――一九八四年の春に遡る。山梨県都留市に建つ平屋建ての空き家は、当時すでに築十年以上が経過していた上に脆弱な造りをしていた。内壁は薄く、柱は細く、玄関は歪んでいた。しかし財力に乏しい夫婦二人に贅沢を言う余裕はなく、内見をしたその日のうちに購入を決意した。最初の間取りは倉庫つきの1LK。風呂はあったがトイレは屋外。夏は暑く、冬は寒い家だったが、雨風を凌ぐことはできた。
最初の改築を決意したのは、母さんの妊娠がわかった一九八八年。後に惣太郎と名づけられる長男が生まれてくるまでには、もう少しまともな家にしようと夫婦で話し合い、近所に住む大工に相談を持ちかけた。美観にさえこだわらないなら金額は相当に落とせる。了承すると、大工は他の現場で余った端材などを中心に、なるべく金をかけない方向で改築を進めてくれた。居間は残しつつ、とりわけ劣化の酷かった西側を作り直す。それまで庭だった箇所に建物を延長し、新たに部屋をひとつ増やした。相変わらずトイレは屋外のままであったが、間取りは2LKに拡大された。居間と隣の部屋との間に意味のない空間ができてしまったのは、このときであった。
基礎を壊していいなら綺麗な部屋にできるが、大がかりな工事になるので勧めはしない。
蓄えも少なく、子育てにどれほどの費用がかかるのかもわからぬ二人は、言われるまま安価な工事を採用した。結果、居間から覗く欄間の向こう側は、眺めることはできるが立ち入ることはできない奇妙な空間に変貌した。しかし生活に支障をきたすわけではない。新たにできた部屋を惣太郎のための子供部屋とし、夫婦は謎の空間のことは忘れて過ごした。
二度目の改築は二人目の子供、あすなの誕生と共に執り行われた。空間的な問題もさることながら、それ以上に台所と風呂の老朽化が顕著であった。水回りを一新し、トイレも家の中へと移動させた。狭いながらも二階部分が誕生し、これにて間取りは現在の4LKになる。
あすなは壁を上下左右に揺らすと、いよいよ横滑りすることに気づいた。引き戸だ。わずかに開いた隙間に手を差し入れると、襖ほどの大きさの薄い壁が、するすると横にずれていく。
あすなが今日までこの引き戸の存在に気づけなかったのも無理のない話であった。
そもそもあすなをはじめとする多くの人間が、元子供部屋であるこの物置を使用しない。冷暖房器具などの季節家電も収納されていたが、基本的にはごみ捨て場のような扱いを受けていた空間であった。貧乏性ゆえに捨てられないもの。いち早く廃棄したいのだが処分するためには面倒な手続きと費用が必要とされそうなもの。そういった品々を見ずに済むよう、都合よく忘れたことにして放置できる場所こそがこの物置であった。何か強い目的意識がない限り、この部屋に入室しようとさえ思わない。
また数日前まで引き戸の前には古い畳が立てかけられていた。たまたまではなく、父さんの手によって意図的に立てかけられていたのだが、あすなは知る由もない。引っ越し直前で部屋が整理されていた今だけが、引き戸の存在に気づくことができる数少ない好機であった。
あすなが力をいれると、引き戸は音もなく開く。
全開になると、滞留していた空気が埃とともに動き出し、目の前を新鮮な空気がとおり抜ける。同時に珠利が悲鳴をあげた。
大声で叫んで物置側へと戻り、あすなの後ろに隠れると咄嗟に謝罪の言葉を述べた。あすなは驚かせてすまないと詫びてから、しかし何もそこまで驚く必要はないだろうとすぐに苦言を呈する。
「……大きな声あげて、ごめんなさい。いきなり目が合って、びっくりしてしまって」
あすなは目の前にあった招き猫型の貯金箱を掴んだ。惣太郎が上京する直前まで使用していたもので、往時は底気味悪い目つきがしばしば幼かったあすなと周を怖がらせた。あすなは貯金箱の位置をずらすと段差に足をかける。物置側と、隙間部屋との間には五十センチほどの高低差があった。改築前の土台が影響した関係で、隙間部屋のほうがわずかに高くなっている。
「こんなことだろうとは思ってたけど」
あすなはため息をつくと、欄間へと顔を近づけた。居間よりも隙間部屋のほうが高い位置にあるので、背伸びをしたり踏み台を用意したりといった必要もなく、簡単に向こう側を見渡すことができた。覗けば当然、彫刻の隙間から居間が見える。
「よくもまあ、こんな……」
あすなは視線を隙間部屋へと戻し、室内をぐるりと見渡した。
もともとからして部屋として活用される想定ではない、居間と物置との間にある死んだ空間であった。奥行きは三メートルほどあったが、幅は八十センチ程度しかない。まさしく鰻の寝床。天井照明はないものの、欄間からも北側の壁にある小さな窓からも光は差し込んできており、室内は十分に明るい。
そんな隙間部屋には所狭しと段ボールが積み上げられていた。三日後に利用する引っ越し業者の段ボールで、すべての側面にマジックで「大月」と記されている。すなわち、すべて父さんと母さんの引っ越し先に運ばれる予定の荷物だ。
「ここに荷物を詰めてたわけだ。どうりでお父さんの私物もほとんど見当たらない」
狭い室内に人が二人も入れば大いに窮屈であった。遠慮した珠利は物置側に留まり、あすなの様子をちらちらと窺う。
あすなは、まだ封のされていない段ボールに手を伸ばすと、上部に入っていた書籍を取り出した。水色の表紙の、A4サイズの教科書。あすなは不意に小さな声を洩らすと、呆れたような苦笑いを浮かべた。
それは、あすなが小学生のときに一時期だけ使用していた、書道教室のテキストであった。さらにその下には、弓道で使用する矢筒も入っている。こちらもあすなが、かつて使用していたものであった。
「……どうしてこんなもの」
あすなは書道のテキストを手に取り、まるで質感を確かめるようにぱらりと捲る。紙面の間から漂う埃のような独特の臭気が、二十年以上前の記憶を呼び起こす。
あすなが書道に興味があると言い出したのは、彼女が小学二年生の夏の日であった。
母さんはどうせ毛筆の授業が来年から始まるのだから我慢したらどうだと言ったのだが、あすなは一度言い出したら聞かなかった。どうしても書道がやりたい。まだネット環境の整備されていなかった当時は、教室を探すのも簡単ではなかった。周囲につてのある人間がいないとなれば電話帳に頼るしかない。
三駅先の谷村町に一軒だけ、書道教室がある。母さんが電話を入れると、いつ来ても構わないと言われたので、早速翌日から通うことになった。道具は貸してくれるとのことだったので、手ぶらで電車に乗り込む。あすなはすでに一端の書家にでもなったような気難しい表情で座席に座ると、目的の駅に到着するまでひたすら指で太ももの上に文字を書き続けた。
書道教室は毎週土曜日、午後二時から三時の一時間。四週通ったあたりで、いい加減教科書と道具が必要だと言われ、なるべく安価なものを購入した。そこからさらに五週ほど通ったところで、しかしあすなは唐突に書道に対する一切の興味を失った。
違った。
何が違ったのだと母さんが尋ねると、あすなはとにかくすべてが違うと訴えた。後にわかることだが、あすなが書道に興味を持ったきっかけはテレビ番組で紹介されていたアート作品であった。黒の墨だけではなく様々な色を用い、ときに絵を添え、形を大きく崩して躍動感のある字を書く、芸術としての価値に重きを置いた作品。文字どおり型破りな作風を求めていたあすなにとって、正しい姿勢、筆の持ち方、美しい楷書体などを覚える作業はすべて興味の外にあるものであった。
違うから、もういい。
きっぱりと言い放つと、あすなはこの日を最後に書の道を諦めた。
弓道に挑戦してみたいと言い出したのはそこから二年後の秋、あすなは小学四年生になっていた。またも電話帳に頼ると、小学生を預かってくれる教室は甲府にしかないことがわかる。県内ではあるものの、電車で片道一時間半。それでも本当に通うのかと母さんが問えば、距離など関係ないと胸を張り、あすなは早足で電車へと乗り込んだ。そして甲府までの車内、ひたすら目を閉じて、精神統一を試みた。
もういいからやめる。
通い始めてから三カ月。教室を出るなり、あすなは迷いなく言い切った。
あすなが弓道に興味を持ったのは、やはりテレビ番組がきっかけ。私もやってみたいと思ったのは、しかし私もこんなふうに気持ちよく弓を引いてみたいと思ったからではなかった。弓を地面に対して水平に持って引けば、正確性も、矢の威力も、格段に増すはず。独自の分析に基づいた仮説を検証するため、どうしてもあすなは本物の弓矢に触れてみたいと願った。なぜみな、同じ射法しか試さない。私が革命を起こしてやるから、刮目して見よ。半ば道場破りに近い気持ちで通い始めたあすなは、いつまでも大人しく指導を受け続けていられなかった。
あすなは中学では陸上競技に精を出し、高校では友人たちとの軽音楽に励み、卒業すると四年制大学で英文学を学んだ。新しいものに次々に手を出す割に熱中する気配がない。いったいどこに就職するのだろうと家族が興味深く動向を窺っていると、もう二年だけ学校に通いたいと言い出した。
服飾系の専門学校。興味が多いのはいいことだが、それはあまりに節操がないのでは。母さんは遠回しに小言を漏らしたが、例によってあすなの決意は固かった。あすなは宣言どおり専門学校に二年間通うと、アパレル系の仕事に就くことなく現在の舞台美術の会社へと就職した。
すでに働き始めてから八年が経っている。辞める気配はないどころか、結婚相手まで職場で見つけたのだから天職である。
あすなは飽き性ではなかった。ただこだわりが強い故に、どうしても自身の肌に馴染むものを見つけるまでに時間がかかってしまう。書道から現在の舞台美術の仕事に至るまで、彼女は一度だって手を抜くことはなかった。真剣に自分の人生と向き合っているからこそ、次から次へと自身のステージを変化させてきた。
多くの人間は、これという道を見定める前に、歩くことに疲れてしまう。あすなは万人が得がたい才能を持った、ひときわ実直な人間であった。
あすなは書道教室のテキストをそっと段ボールに戻すと、隙間部屋の南側へと目を向けた。
北側には段ボールが積み上げられている一方で、廊下に面した南側には天井まで棚が伸びていた。ずらりと並んでいるのは何冊もの手帳と、スケッチブック。あすなは試しにスケッチブックのうちの一冊を手に取る。ぱらぱらと捲ってみれば、次々に現れるのは、風景画。この家で最も芸術に明るいのはあすなであったが、あすなが描いたものではなかった。もとの位置に戻すと、今度は手帳を見つめる。
その数三十冊以上。文庫本ほどの大きさの手帳の背表紙には、例外なく父さんの字でタイトルと数字が振られていた。一番左は「行きたいところ1」、一番右は、「行きたいところ33」。あすなは迷わず最も大きい数字の振られた33番を手に取ると、中身を改めた。
だらしない人間の割に、字だけはうまいのが父さんであった。手帳にはまず行ってみたいと思った地名が記され、続いて行ってみたいと感じた理由が書かれている。滋賀県沖島、琵琶湖の中にある有人島。展望台や資料館アリ、興味深い。台湾九、有名アニメ映画の舞台のモデルとも言われている地域。景観ヨシ。スケッチにも適する。思いつくままに記されたメモは、手帳の中盤辺りで途切れている。あすなは、最後に記されていた地名を確認する。
岩手県鶯宿温泉、五百年近い歴史アリ。農場、田沢湖なども近い穴場。
「お父さんの居場所がわかった」
あすなは手帳を閉じ、表紙を人差し指の爪でぱちぱちと二度ほど弾くと、
「二十年前の『おもちゃん』のこと、わかる?」と尋ねた。
「……おもちゃん?」
珠利が物置から探るような声を出すと、あすなは少し申し訳なさそうに首を振った。珠利はしばらく困惑していたが、質問の意図を理解するとごめんなさいと頭を下げる。あすなは言葉を選び直した。
「……惣太郎が二回目って言ってた件。二十年前、今回と同じように倉庫の中に盗品がしまわれていたことがある。そのとき倉庫に入れられていたのが、『おもちゃん』って名前の人形。ここから歩いて十五分くらいのところにあった、おもちゃ屋さん、『ショップ栗田』のマスコットキャラクター」
「……盗んで来ちゃったんですか?」
「そう」
「お父さんが?」
あすなは黙り込んだ。二十年前のあの日を思い返せば、返事をするのは簡単ではない。しかしここで黙り続けるわけにはいかないと判断し、沈黙が不可解な長さにまで延びない頃合いで、
「そう」と返事をした。
「……どうしてそんなことを?」
「誰にもわかりっこない。ただ――」
あすなは振り返り、珠利のことをまっすぐに見つめた。
「そのおもちゃ屋の店主とお父さんは、不倫をしていた」
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
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