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【書評】家族的な想像力には、戦争を止める力がある――今村翔吾『海を破る者』レビュ―【評者:吉田大助】

※本記事は「小説 野性時代 第248号 2024年7月号」掲載の書評連載「物語は。」第126回(評者:吉田大助)を転載したものです。

 歴史時代小説作家の今村翔吾は、戦争小説の名手である。戦国を舞台に、合戦を軸に据えた作品を数多く手がけてきた。史実を元に大胆な想像力を加えた戦略・戦術の描写や、映像が目に浮かび、火薬の臭いまで感じられるアクション表現も魅力的だが、物語の核をなすのは「戦争とは何か?」という問いかけだ。単行本デビュー作『童の神』、直木賞受賞作『塞王の楯』、平家物語に材を取った『茜唄』……。思弁的な主人公たちが合戦に臨む動機は、勝つことではない。戦争を終わらせることであり、止めることだ。その姿勢は、二〇二二年に起きたロシアによるウクライナ侵攻を契機に、戦争の終わらせ方、止め方を真剣に模索し始めた現代人にとっては高い共感性を持つ。一方でこの作家は、「家族とは何か」を問う家族小説の名手でもある。家督を継ぐ人物を主人公とすることで、自己の人生にとって支えとなると同時に呪いとしても機能する、イエの問題を深掘りしてきた。最新長編『海を破る者』は、今村流戦争小説のど真ん中を行くものであり、なおかつ今村流家族小説の最新型となっている。取り上げられた歴史的題材は、モンゴル帝国のフビライが築いた元の軍が一二七四年と一二八一年の二度にわたって博多はかた湾を襲来したものの、鎌倉武士たちが撃退したことで知られる、元寇だ。
 主人公の六郎ろくろうは、伊予(愛媛県)・河野こうの家の当主。河野家はかつて頼朝よりともから「みなもと北条ほうじょうに次ぐ」とまで言われた名門だが、承久の乱で曽祖父が上皇側に付いたために没落したうえ、祖父の女性問題をめぐって父と伯父との間に骨肉の争いが勃発。父が討たれたことで長男の六郎が家督を継ぐこととなり、伯父へのわだかまりが解消されぬままお家再興の舵取りを余儀なくされた。「第一章 邂逅の夏」は、六郎が湊へやって来た奴隷商人から、青い瞳に黄金色の髪、白雪の肌を持つ若い女性を買う場面で幕を開ける。「海の先には何があるのか」と幼少期から抱いていた疑問を、遥か彼方からやってきた彼女に教えてもらうためだった。手籠めにするつもりだろうと突っかかってきた高麗人の男も、そうではないと本人に知らしめるために身受けする。六郎によって付けられた日本名は、令那れいなはん
 国も立場も異なり言葉もほとんど通じない三人の関係性と、その関係性がもたらす六郎の思考の変化を物語は丁寧に追いかけていく。その過程で、家宝を巡る騒動や海賊退治といったクエストも描かれていくのだが、実のところ総ページ数の三分の二近くまで、今村文学の代名詞である熱さとは正反対の、静謐せいひつな佇まいを保持している。静けさの中にあるからこそ、人々が心を寄せ合っていく身じろぎを、確かな動きとして聞き届けることができる。当初は二人を河野家のコミュニティに迎え入れることに反発していた武士たちが、彼らもまた仲間であると受け止めるようになっていくのだ。
 そこで得た擬似家族的な繫がりが、物語の残り三分の一で描かれる、二度の元寇における河野家の奇抜な行動を支えている。それは六郎の発案によるものだが、配下の武士たちによる自主的な行動が伴わなければ実現できるものではなかった。端的に言えばそれは、「敵」をも家族とみなすという想像力だ。家族だからこそ怒りも湧くが、家族だからこそ守りたいと願い、ゆるすこともできる。そんなエピソードが前半で幾度も登場していたのは全て、この想像力に説得力を与えるためだった。
 家族的な想像力には、戦争を止める力がある。その提案はロマンチックすぎるという指摘もあるだろうが、リアルを語(騙)る言葉が溢れている今の世の中で圧倒的に足りていないのは、リアルを十二分に認識したうえでの「ロマンを語る言葉」なのではないか。その役割を担うのは、フィクションの作り手であり、小説家なのではないか。戦争小説と家族小説を融合させたうえで、現代社会に直接響くロマンを出現させた、今村文学を今後語るうえで避けては通れない重要な一作だ。


書誌情報

『海を破る者』今村翔吾(文藝春秋)
定価2,200円(税込)


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『茜唄(上・下)』今村翔吾(角川春樹事務所)/定価 各1,980円(税込)

武士として初めて太政大臣に任じられた平清盛たいらのきよもりから始まる、平家一門の興亡を描いた『平家物語』。敗者の名を冠した世界史上まれなその物語はどのように生まれ、次代に何を託したのか?最後まで戦い抜いた清盛最愛の息子・知盛とももりを主人公に据え、『平家物語』を戦争小説と家族小説の両面から書き尽くす。


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