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【試し読み】『〔新訳〕ジョニーは戦場へ行った』冒頭特別公開!

第二次世界大戦勃発直後に発表され、過激な「反戦小説」として波紋を呼んだ『ジョニーは戦場へ行った』が、9月10日に待望の新訳で発売となった。
1960年代以降、ベトナム反戦が盛り上がる中で再び脚光を浴びることになった。「発禁本」とも噂され、アメリカの血塗られた裏面史を暴く問題作と評された本作に込められた思いとは?
「ロサンゼルスにて 1959年3月」「ロサンゼルスにて 1970年1月」――著者トランボが寄せた2つのテキストを特別公開する。

あらすじ

青年はアメリカにすべてを奪われた――20世紀反戦文学の金字塔!

「そんなわけで、すいませんが、あなたはどうぞ自由のために戦ってください。ぼくはあんまり興味がないんで」
2つの世界大戦からベトナム戦争にかけて、反戦の旗印として文学史に刻まれた問題作

『ローマの休日』『黒い牡牛』『スパルタカス』……赤狩りによってハリウッドから追放されながら、数々の歴史的名作を生み出した稀代の脚本家、ダルトン・トランボ。彼が第二次世界大戦中に発表し、過激な反戦小説として波紋を呼んだ問題作、待望の新訳!
第一次世界大戦下、仏戦線での砲撃により、視覚・聴覚・味覚・嗅覚と四肢を失った青年ジョー。すべてを奪われ、後悔の中で絶望に囚われた彼が、ふたたび世界と繋がるために見つけた希望とは?


『〔新訳〕ジョニーは戦場へ行った』試し読み


まえがき(1959年)

 第一次世界大戦は夏祭りのように始まった――みんながふっくらしたスカートをはいて金色の肩章をつけていた。沿道を埋め尽くす群衆が歓声を上げるなか、羽飾りをつけた皇帝や皇太子や陸軍元帥などの道化者たちが輝かしい自国の軍隊を先導してヨーロッパ各国の首都を行進した。
 寛容の季節だった。誇りと音楽隊と詩と歌と善意の祈りの時だった。8月は紳士の士官と彼らが永遠に置き去りにする恋人たちとの結婚前夜にときめいて息もつけずにいた。あるスコットランド高地地方の連隊は初戦のとき、力いっぱい演奏するキルト姿のバグパイプ奏者40人を先頭に、塹壕からいっせいに突撃していった――敵の機関銃に向かって。
 死者が900万人に達すると、音楽隊の演奏は止まり、皇族は逃げはじめ、バグパイプも開戦当初と同じ音色を響かせることは二度となくなった。第一次世界大戦は冒険活劇のような戦争としては最後のものだった。そして過去の戦争とはまったく異なる第二次世界大戦の勃発前に第一次世界大戦を描いたアメリカの小説の中で、この『ジョニーは戦場へ行った』はおそらく最後の作品だろう。
 この本は奇妙な政治的歴史をたどって来た。反戦論がアメリカの左派や多くの中道派にとって嫌悪の対象だった1938年に書かれ、1939年の春に印刷され、同年9月3日に出版された。独ソ不可侵条約の締結から11日後、第二次世界大戦の開戦から2日後のことだった。
 その直後、(開戦がこの本の売り上げ増につながると考えた)ジョゼフ・ウォートン・リッピンコット氏の勧めにより、この本の連載権が米共産党の機関紙『デイリー・ワーカー』に売られた。その後数カ月にわたり、この本は左派の結集点になった。
 真珠湾攻撃後は、この本の主題がバグパイプの音色と同じくらい当時の世相にふさわしくないと思われるようになった。ポール・ブランシャード氏は『読む権利(Right to Read)』(1955年刊)の陸軍の検閲に関する記述の中で「数誌の枢軸国寄りの外国語雑誌と三冊の本が発禁になったが、そのうちの一冊が独ソ不可侵条約の有効期間中に作られたダルトン・トランボの反戦小説『ジョニーよ戦場へ行け(Johnny Get Your Gun)』だった」と述べている。
 ブランシャード氏が本書の「作られた」時期と題名の両方をまちがえているのはたんなるうっかりミスだと思いたいが、そういうまちがいがあるという点でも、この本の発禁に関するくだりは、あまり信用できない。実際、わたし自身はそういう話を知らされたことがないのだ。陸軍の蔵書にあったこの本を読んだという海外駐在の兵士たちから多くの便りを受け取ったし、1945年にはわたし自身がまだ戦闘継続中の沖縄で偶然にもこの本を見かけたくらいだった。
 だが、もし発禁処分になって、それを知らされたとしても、声を大にして抗議すべきだったかどうかは疑わしい。ある特定の個人の権利より、もっと大きな公共の利益のほうを優先せざるをえない時期というのはあるからだ。危険な考えなのは百も承知だし、この考えを広げすぎるべきではないが、第二次世界大戦はけっして冒険活劇のような戦争ではなかった。
 戦争が激しくなったころ、この本はすべて絶版となって入手困難になったが、そのことがアメリカの極右派から人権問題とみなされるようになった。わたしのもとには全米各地の平和団体や「母親」団体から強い同情の念を示す手紙が大量に届くようになった。彼らは、交渉による即時平和を望む数百万人の真のアメリカ人をおじけづかせるためにこの本の出版に圧力をかけたユダヤ人や共産主義者、ニューディール政策支持者や国際金融企業を非難していた。
 手紙を送ってくる人の中には、優雅な便箋を使い、大西洋沿岸の住所をこれみよがしに書いている人が大勢いた。彼らのあいだにはある種の情報網があり、抑留所にいる親ナチスの人々も含まれていた。彼らの影響でこの本の価格は中古本で一冊6ドル以上に高騰し、それはわたしにとっていろいろな理由から嬉しくなかったが、そのひとつは金銭的なことだった。彼らはわたしを旗振り役に全米規模の平和デモを行なうことを提案してきたり、出版社に復刊を求める投書運動をすると約束してきたりした(そして実行された)。
 このことから、わたしは第二次世界大戦が終わるまでは復刊すべきではないと早々に確信するにいたった。出版社もこの考えに賛成だった。手紙を送ってくる人々の活動が戦争の遂行に悪影響を及ぼすのではないかと憂慮する友人たちの強い勧めで、わたしは愚かにも彼らの活動をFBIに報告してしまった。ところが、いかにも釣り合いの取れたふたりのFBI捜査官が自宅に現われたとき、彼らの興味の対象は送られてきた手紙ではなく、わたし自身にあった。あのときのことは今でも自業自得だと思っている。
 1945年以降に出版された二、三の新版は、穏健左派から好意的な評価を得たものの、それ以外の人々からは、戦時中に熱心に活動していた「母親」団体も含めて、完全に無視されたようだった。それらの新版も朝鮮戦争中にふたたび絶版になり、当時のわたしはこの本の印刷用の刷版を買い取ったが、それを軍需品への転換用に政府に転売したりはしなかった。そこで話はいったん終わり、また始まる。
 何年も経ってからあらためてこの本を読み返したとき、あちこちの言葉を直したり変えたり、表現をはっきりさせたり、訂正したり、具体的に書きこんだり、カットしたりしたくてうずうずする気持ちと闘うはめになった。それもそのはず、この本はわたしより20歳も若く、わたし自身はかなり変わったのに、本のほうは何も変わっていないのだから。それとも変わったのだろうか?
 変化に抗えるものは果たしてあるのだろうか? まったくお門違いの理由から買われたり葬られたり禁止されたり非難されたり賞賛されたりする、ごくありふれた商品であっても。たぶん、抗えないだろう。この本は三つの戦争のあいだ、それぞれに違う意味を持っていた。今のこの時代における意味はひとりひとりの読者が考えるとおりであり、しかもすばらしいことに、それぞれの読者は、ほかの誰とも違うし、それぞれに変わりゆくものだ。
 そういうわけで、わたしはこの本をあえて刊行当時のままにして、今の読者のみなさんがどう考えるのか見てみたいと思う。
 ロサンゼルスにて 1959年3月25日
 ダルトン・トランボ


追 記(1970年)

 11年後。数字は人間性を奪う。朝食のコーヒーを飲みながら、ベトナムでアメリカ側の戦死者が4万人という記事を読む。わたしたちは、それを読んでも吐き気を催すどころかトーストに手を伸ばす。朝の通勤ラッシュで人ごみの中を急ぐのは、大変なことが起こったと叫ぶためではなく、自分の取り分を他人が食い尽くしてしまう前に飼い葉桶にたどり着くためだ。
 こんな方程式がある。若者の死者4万人=肉体3000トン、脳56トン、血液19万リットル、生きられることのなかった人生184万年、生まれなかった子ども10万人(ただし、実際に生まれたとしても今のわたしたちには養えないだろう。世界にはすでに飢餓状態の子どもたちがあまりにも大勢いるのだから)。
 わたしたちは、このことを夢に見て夜中に叫んだりするだろうか? しないだろう。夢に見ないのは考えていないからだ。考えていないのは、気にしていないからだ。それよりも自分たちの町の治安のほうがはるかに気になるし、そのおかげでアメリカの町は安全かもしれない。だが、そのあいだも、わたしたちはベトナムの町を血の下水管へと変えている。自分たちの息子にこちらの国で刑務所に入るのか、向こうの国で棺桶に入るのか、どちらかを選ばせて、毎年その下水管に新たな血を補充している。「旗を見るたびに、目には涙があふれてくる」のはわたしも同じだ。
(毎年5月末の戦没将兵追悼記念日の週末に、サーファーや海水浴客やスキーヤーや登山者、キャンパー、ハンター、釣り人、サッカーで遊ぶ人やビールをがぶ飲みする人で高速道路が大渋滞することを除けば)死者がわたしたちにとってどうでもいい存在であるなら、30万人の負傷者についてはどうだろう? 彼らが今どこにいるか知っているだろうか? 彼らの今の気持ちは? 彼らは手足や耳や鼻や口、顔、ペニスをいくつ失ったのか? 耳や目が不自由になった人、口がきけなくなった人、あるいはそのすべてに当てはまる人は、いったい何人いるのだろう? 手足を一本、二本、三本、あるいは四本失った人は、いったい何人いるのだろう? 残りの人生をずっと動けずに過ごすことになる人は、いったい何人いるのだろう? 人目につかない暗くて小さな秘密の病室で、静かに呼吸しながら懸命に生きている脳死状態の人は、いったい何人いるのだろう?
 陸軍や空軍、海軍、海兵隊、陸軍病院や海軍病院、米国国立医学図書館の医学担当部長、退役軍人庁や公衆衛生局に問い合わせれば、自分たちの無知さ加減に驚くだろう。ある組織によると、1965年1月以降の「四肢切断の処置」のための入院件数は726件だったという。また、別の組織によれば、1968年度のはじめ以降に四肢の一部を切断した人は3011人いるという。そのほかの組織からは回答がなかった。
「米国陸軍軍医総監年次報告書」は1954年を最後に発行されなくなった。米国議会図書館によると、陸軍軍医総監医療統計局は「四肢のいずれか、あるいは複数を切断した者の人数を把握していない」という。これは、政府が重要なことではないと思っているのか、または、ある研究員が全米ネットワークのテレビ局に語ったように「軍そのものが、落とした爆弾のトン数は正確に把握している一方で、兵士が失った手足の数については何も知らない」のか、どちらかだろう。
 ベトナム戦争については正確な数字が存在しないとしても、過去の戦争と比較した数字がひとつの手がかりになる。ベトナム戦争では第二次世界大戦のときより四肢の麻痺患者は8倍、全身性障害者は3倍、四肢の一部の切断者は35パーセントも多いという。カリフォルニア州選出のクランストン上院議員によれば、陸軍退役軍人の100人に1人がベトナム戦争の傷害補償金を受給しており、そのうちの12.4パーセントが全身性障害者、つまり全身にわたる障害を有しているという。
 だが、この戦争で生じた、生きながら死んでいる人の正確な数はわかっているのだろうか? わたしたちは知らない。訊ねてもいない。現実に向きあってもいない。目も耳も鼻も口も顔も背けている。「なぜ向きあう必要がある? 俺たちのせいじゃないだろう」と言って。たしかにそのとおりだが、そういう問題ではない。時間は否応なく進んでいく。死はわたしたちのことも待ち構えている。わたしたちには追い求める夢があり、どこまでも純粋な希望があり、それを追いかけて見つけなければならない。光が消えてしまう前に。
 意気地なしどもよ、またな。元気でいろよ。身体には気をつけろ。またいつか会おう。
 ロサンゼルスにて 1970年1月3日
 D・T


書誌情報

書名:〔新訳〕 ジョニーは戦場へ行った
著者:ダルトン・トランボ
訳者:波多野 理彩子
発売日:2024年09月10日
ISBNコード:9784040825045
定価:1,496円 (本体1,360円+税)
総ページ数:312ページ
体裁:新書判
発行:角川新書

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