【試し読み】吉田修一『罪名、一万年愛す』冒頭特別公開!
『悪人』『パレード』『パークライフ』『東京湾景』『ミス・サンシャイン』など、純文学やエンタメの垣根を越えて作品を発表してきた作家・吉田修一さん。本作は、「驚きと感動のクライマックスに落涙」「身体に衝撃が走りました」「タイトルの意味が分かったとき、涙が止まらなくなりました」と先行読者からコメントが寄せられた、本格的ミステリーにして感涙の衝撃作です。冒頭大ボリューム試し読み、ぜひお楽しみください。
あらすじ
『罪名、一万年愛す』試し読み
プロローグ
九十九島は長崎県の北西、北松浦半島西岸に連なるリアス式の群島である。
ただ、九十九という数字は風光明媚なイメージを喚起させるためのもので、実際の島数は二百八とも二百十六とも言われている。そのほとんどは岩礁や無人島であるが、古くからの有人島もあり、昔から富裕層が所有する別荘島も多く、最近ではいわゆるプライベートアイランドとしてもてはやされている。
東シナ海に浮かぶこれら群島の絶景は、日本百景に選出されていることはもとより、この数年だけでもハリウッド映画や有名な日本のアニメ映画の舞台にたびたびなっているほどである。
さて、これからお話しするのは、この九十九島を舞台にした、とある有名一族の物語である。
そう、話の発端はこうである。
横浜は野毛地区に遠刈田蘭平という私立探偵がいるのだが、ある夏の午後のこと、エレベーターもない古い雑居ビルの五階にある彼の事務所を、この有名一族の三代目を名乗る青年が、汗だくで訪ねてきたというのである。
この三代目、たいそうな色男で、全身汗だくでも暑苦しく見えなかったというのだから、よほど清潔感のある青年なのであろう。
仮に、この有名一族を梅田家と呼ぶことにしよう。
さて、この梅田一族の祖は、今回の依頼人であるこの三代目の祖父に当たる男で、その名を梅田壮吾という。
戦前に生まれ、佐賀市内の呉服問屋での下働きから身を起こした苦労人で、若くに独立して開いた小さなスーパーマーケットが高度成長期の波に乗る。
独自の流通システムと独特な顧客主義で年々事業は拡大。福岡の一等地、天神に梅田丸百貨店を開業させるまでにそう時間は要さず、さらに世は高度成長期真っ只中、天神本店を皮切りに九州の各都市に支店を増やしていったのである。
その豪腕な経営方針と強気な哲学もまた、その時流に乗ったのであろう。彼自身もまた、時代の寵児としてもてはやされるようになっていく。
ちなみに梅田丸百貨店といえば、大規模な屋上遊園地が有名である。
デパートの屋上に子ども用の遊具を初めて置いたのは銀座の三越だと言われているが、本格的な遊園地施設として発展させたのは、この梅田丸百貨店であるという説もある。
実際、梅田壮吾が目指したのは子どもたちのためのデパートであった。そして時代は空前のベビーブームであったのである。
屋上遊園地や展望レストラン、おもちゃ売り場の拡大が、梅田丸百貨店に次から次へと中産階級となった客たちを呼び、独自の流通システムで仕入れた商品は売れに売れた。
ただ、その勢いが絶頂期を迎えたころ、壮吾も少し尊大になったのであろう、とある経済誌のインタビューで次のような談話を出してしまう。
「要するに、子どもという生きものは欲の塊でありますからね……」
こう始まるインタビューは次のように続く。
……男の子であれば、あのゲームが欲しい、あの電車に乗りたい、野球がやりたい。女の子であれば、あの洋服が欲しい、ピアノを弾きたい、苺のケーキが食べたいってね。
とにかく子どもの欲ってものには際限がない。
そして、親というものはですね、厳しく育てるのが子どものためだなんて口では言いながらも、結局、我が子の欲を満たしてやることで自分たちの欲を満たしているところがありますでしょ。
「なんだか梅田社長のお話をうかがっていると、まるで『子どもは銭になる』。そうおっしゃっているように聞こえますが」
そうたしなめるインタビュアーを、このとき壮吾は笑い飛ばす。
「あはは。いやいや、そうは言ってませんがね。でも実際、私たちがそのおかげで儲かっているのはたしかですからね」と。
さて、この記事が出た当時、梅田丸百貨店はさらに商機を広げようと、学習塾やピアノ教室などへも事業を拡大していた。だが、この方針と壮吾のインタビューでの発言が相反した。
結果、梅田丸百貨店は世間から激しいバッシングを受ける。
あいにくこのときばかりは時代も味方にはなってくれなかったようで、というのもこの騒ぎの直後、いわゆるバブルが崩壊するのである。
バブル崩壊後、真っ先に不景気の煽りを受けたのが、実は地方の百貨店業界である。その後、現在まで続く地方の疲弊がこのときに始まったといって過言ではない。
梅田丸百貨店もまた、その凄まじい地盤沈下から抜け出すことができなかった。
一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけての失われた十年では、まるで老人の歯が抜けるかの如く、各地方都市の店舗が次々と閉店に追い込まれていく。
結果、二〇二〇年代となった今現在、「梅田丸百貨店」の称号でかろうじて営業を続けられているのは福岡天神の本店の一ヶ所のみであり、さらに、この本店でさえも「ニトリ」や「ユニクロ」といった巨大ブランド店への貸しビル業のような形態になっているのが実情である。
さて、私立探偵の遠刈田蘭平の元へ依頼にきたのは、この豪腕創業者、梅田壮吾の孫に当たる三代目の梅田豊大という青年であった。
清潔感のある色男とはさっきも述べたが、
さらに遠刈田曰く、
育ちの良さというものは隠しようがないのか、今年三十歳になるらしいその相貌は健全そのもの、日に灼けたその腕には、十八歳の誕生日にオークションで競り落としたというアンティークの腕時計があったらしいのだが、それさえも嫌味にならなかったというのだから見事なものである。
とはいえ、世間には「金持ち三代続かず、貧乏は七代続く」という不吉な言い伝えもある。
さて、この青年がそんな不吉な言い伝えを知っていたかどうかは別として、この三代目、なんと大学卒業後は家業を継がず、幼いころからの夢だったという小学校教諭となっているという。
さらに現在は公立小学校で二年生を受け持ち、課外クラブではバスケット部の顧問をしていると嬉々として語ったそうなのである。
「こんなに立派なお家柄のご長男が、事業を継がないなんて選択があるんですね」
さすがに遠刈田も驚いた。
だが、三代目はしれっとしたもので、
「私はまったく経営に興味がありませんしね。なにより子どもたちが大好きなんですよ。ああ、あと、私には二卵性の双子の妹がおりまして、名前を乃々華というんですが、この妹が私なんかよりよっぽど事業経営の才がありましてね。本人もその手のものが好きみたいですし、ですから正真正銘の三代目は彼女なんです」
そして、そう屈託なく話す三代目から、このとき遠刈田蘭平が受けた依頼が次のようなものであったという。
1
なんでもここ最近、彼の祖父、壮吾の素行におかしなときがある。
米寿を迎える年なので、認知症も疑われるのだが、夜な夜なありもしない宝石を探し回るという奇行が見られるというのである。
現在、壮吾本人は、すでに一族のビジネスからも完全に身を引き、昔から所有していた九十九島に浮かぶプライベートアイランド「野良島」で、優雅に余生を過ごしているのであるが、
そんななか、
「あのぉ、旦那様が、夜な夜な宝石をお探しなんですが……。なんでも『一万年愛す』という名前のついた宝石らしくて、ご存じないでしょうか……」
という困惑した住み込みの家政婦からの連絡が入ったそうなのである。
心配した豊大たち家族は、すぐに壮吾が余生を過ごす野良島へ向かった。
しかし、壮吾本人に尋ねてみても、そんな物を探したこともなければ、そもそもそんな宝石など知りもしないの一点張りである。
住み込みの家政婦たちが噓をついているとも思えない。となれば、やはり年齢的には認知症が疑われた。
豊大たちはすぐに専門医を野良島に呼び寄せた。
物忘れテストであるとか、年齢的に受けておいた方が良いのだなどと言いくるめようとしてみたのだが、老いぼれ扱いされることに憤った壮吾は頑なに検査を拒否。
結局、医者ともども豊大たち家族までも、その日のうちに野良島から追い出されてしまったというのである。
さて、その帰りのフライト中である。
「ああやって額に青筋を立てて僕らを追い返すところなんかは、いつものお祖父さんのままだけど、やっぱりガクッと老けたように感じましたね」
これが豊大の素直な感想であった。
……にしても、「一万年愛す」なんて。
お祖父さんにもロマンティックなところがあったんだなと思って、なんだか可笑しくなっちゃいましたよ。いやもし、そんな宝石が実際に存在して、そんな名前をつけていたとしたらですけど。
まあ、仕方のないことではあるが、これから徐々に認知症も進んでいくのであろう。まだまだ剛健そうには見えても、いつまで祖父をあの島に一人で置いておけるものだろうか。などと考えながら、豊大は気疲れした体をシートに埋めていた。
「……もちろん、お父さんも知らないんでしょ? そんな宝石のことは」
豊大が改めてそう確認したときである。
隣の席で雑誌をめくっていた父、一雄が、とつぜん次のような話を始める。
「いや、それがな」
……ふと思い出したことがあるんだよ。古い話になるんだが、と。
一雄の話は、一九七〇年代後半にまで遡った。
当時、一雄はまだ小学生である。
その一雄少年が、ある日、父の書斎に向かうと、室内で壮吾が誰かと電話をしていた。ドア越しではあったが、何かを決めようとしているようであった。その際、ときおり聞こえてきたのが、「一万年愛す」という言葉だったのだという。
電話が終わり、一雄少年は書斎へ入った。このとき、もう何の用で壮吾の書斎を訪ねたのかは覚えていないのだが、壮吾の机に「一万年愛す」と書かれたメモが置かれていたことを思い出したというのである。
「よくまあ、そんなことを何十年も覚えていたものですね」
と、つい遠刈田蘭平は豊大の話に口を挟んだ。
少し照れくさそうに笑った三代目が、
「ええ、実は私も同じように不思議に思ったものですから、父に尋ねてみたんですよ。そしたらね……」
と、その真相を教えてくれる。
このときの一雄の話によれば、当時彼はちょうど思春期を迎えていたという。
「猥語か何かだと思ったんだよ」と一雄。
「え? 猥語?」と豊大。
「ほら、お前だって経験があるだろ。いやらしそうな言葉を辞書で調べてみたりして」
「ああ。そういうことですか」
と、豊大は呆れ果てたらしい。
「いやな、いつも堅物な親父が「愛」なんて言葉をメモに書きつけてるんだ。それも『一万年愛す』なんて」
一雄少年は、自室へ戻ると、すぐに辞書で調べたらしい。
ただ、あいにく手持ちの辞書にも百科事典にも「一万年愛す」などという言葉はなかったのだが、なぜかこの言葉だけは、何十年ものあいだ、一雄の頭の中に残っていたのである。
この辺りまでの事情を聞くと、遠刈田は改めて口を挟んだ。
「ちょっといいでしょうか」
……いや、あなた、豊大さんのお父様が、その名前を記憶していたにしろですよ、それが宝石の名前だったという確証はないわけですよね、と。
「ええ、それはそうなんです」
「ということはですよ」
……現実的にそんな宝石が存在しているのかどうかまだ分からない。
もっといえば、認知症が疑われてもおかしくないご高齢の方が、これまで誰も見たことも聞いたこともないものをとつぜん探し始めた。
そこで私にもそれを一緒に探してくれと?
さすがに遠刈田の言い分が正論である。
すると、依頼人である若き三代目が、「それが、実はですね……」と話を引き取ったというのである。
……もちろん遠刈田さんのところへうかがう前に、私自身でも調べられることはすべて調べてみたんです、と。
……幸い、会社関連のものは、祖父の壮吾が会長職を引退したときに、すべて父、一雄の名義になっておりますので調べるのも簡単でした。
もちろん会社関連とは別に、祖父個人の名義での隠し金庫などがないとも限らないのですが、こちらは付き合いの長い顧問弁護士に尋ねたところ、やはりそういった貸し金庫や隠し財産の類いのものはないと断言できるそうなんです。
「でも、顧問弁護士など口止めをしようと思えばいくらでもできるでしょう」
と、遠刈田は遮った。
「ええ。ですから正直に話しました。祖父に認知症の疑いがあるのだと」
その際、顧問弁護士の口から出たのがオークションの話だったそうである。
ちなみに梅田家には次のような伝統があるという。
一族の者が十八歳を迎えると、その祝いにサザビーズやクリスティーズなどのオークションで欲しいものを落札するというものである。
このとき若い三代目の腕に巻かれていたアンティーク時計も、まさにそのオークションでの戦利品であったのである。
さて、この顧問弁護士曰く、
「まあ、万が一、梅田翁が私と知り合う前に、そのような宝石を手に入れていたとすれば、おそらく入手先はオークションでありましょう」
豊大はすぐに調査を開始した。
幸い、有名なオークション会社にはかなり古いものまで、そのコレクションの資料が保管されているのである。
「そうしたら見つかったんですよ。これが」
と言って、おそらく豊大が発見したときと同じような興奮した声で、持参したバッグの中から古いカタログを取り出したのである。
見るからに年代物のカタログだが、そのアールデコ調の造本は見事である。
「まあ、このページを見て下さい」
開かれたページを、遠刈田は覗き込んだ。
ちなみに造本も見事なら、写真印刷も精巧でまったく色落ちもない。
「ほう」
遠刈田は思わず息をもらしたという。
そこに写っていたのは、ルビーのペンダントであった。
精緻なプラチナ細工で飾られた大きなルビーのペンダント。
その色はまるで血が滲んでいるように濃い。
美しいというよりも、恐ろしさを感じるような宝石である。
「これが、その……」
と、遠刈田は指で写真に触れた。
「ちなみに、これは原本ではないのですが、一九四〇年にスイスのチューリッヒで催されたクリスティーズという会社のオークションカタログです。で、遠刈田さん、 ここを読んでみて下さい」
豊大が、写真の下に掲載された説明文を指でなぞる。
こちらの至宝「一万年愛す」はアンナ・ボナパルト王女のコレクションの一つである。一九三〇年代からスイス銀行金庫に保管されていた。二十五・五九カラット
「二十五・五九カラットというと、どれくらいの大きさなんでしょうな」
遠刈田は自分の指を丸めて、その大きさを想像した。
「いやいや、そんなに小さくはありませんよ」
すぐに豊大が訂正する。
「きっと、これくらいと思います」
このとき、失礼します、と断って、豊大が指差したのは、遠刈田がおやつに食べようとテーブルに置いていたアーモンドチョコレートであった。
遠刈田は思わずチョコを手に取った。
ちょっと贅沢をして買ったベルギーチョコなので、気のせいかずっしりと重い。
「まあ、ここまで大きいかどうかは分かりませんけど、イメージとしてはこれくらいだと思います」
豊大も、遠刈田の手のひらのチョコを奪いとり、いろんな角度から眺めはじめる。
「ちなみに、このときオークションで競り勝って、この『一万年愛す』というルビーを手にしたのは、とあるロシア人らしいんです」
……もちろん、今と違って完全非公開ですので、その正体は不明。
ただ、落札価格だけは残っていて、当時の日本円にして百五十万円ほどでした。
豊大がチョコを丁寧に皿に戻す。
「当時の百五十万円ということは、今の価値にすると……」
遠刈田はたずねた。
「まあ、物価や為替変動なんか、いろんな見方はあると思いますが、ざっと見積もっても、現在では三十五、六億といったところでしょうか」
「三十五、六億……」
遠刈田はまたチョコに伸びそうになった手を引っ込めた。
「そこで、遠刈田さんに早速お願いがあるんです」
豊大がチョコの皿をテーブルの端に避け、前金が入っているらしい分厚い封筒を置く。
……今度、九十九島にある野良島で、祖父の米寿の祝いがあるんです。
そこに私たちと一緒に来ていただけないでしょうか。
遠刈田は改めてカタログを手にした。
「一万年愛す」と名付けられた美しきルビー。
いや、やはり美しいというよりも、恐ろしさを感じさせる宝石である。
2
さて、ここはその九十九島の上空三千メートルである。
長崎空港を時刻通りに飛び立ったヘリコプターは順調に航路を進み、夏日に輝く海に点在する緑の群島を眼下に収めている。
「見事なもんだな」
先ほどからこの絶景に嘆息をもらしているのが坂巻丈一郎という老齢の男である。
「坂巻警部は、九十九島は初めてでありますか? 日本の西の端ということもあるんでしょうか。今時分から日没までのあいだがやはり一番きれいでありますから」
元部下であった操縦士の声がヘッドフォンに届き、坂巻はガラス窓に押しつけていた額を離した。
「おい、だから、その『警部』はもう勘弁してくれよ」
「あ、そうでありました。申し訳ありません」
さて、紹介が遅れたが、この坂巻丈一郎もまた、この物語には欠かせぬ登場人物の一人である。
ちなみに元部下に「警部」などと呼ばれて照れるのも当然で、彼はすでに十五年も前に公職を定年で退いている。
現在は隠居の身であるが、数年前までは転職した中堅警備会社で、後進の指導に厳しく当たっていたこともあり、その体や顔つきはまだまだ精悍そのものである。
同乗する操縦士は、彼がまだ新米刑事だったころから、この坂巻がよく面倒をみていた男で、仕事の相談はもちろん、不器用で奥手な彼のために嫁さんを世話してやったのも坂巻なら、退職後、彼をこの小さな航空会社に口利きしてやったのもまた坂巻である。
「貴子さんは元気にしてるのか?」
坂巻は元部下の妻を気遣った。
「はい。お陰様で元気にしております」
……娘夫婦が大阪に転勤になりまして、孫の世話ができなくなったのが少し寂しいみたいですが、最近また介護のパートに出るようになりましたもので、なんだかんだ愚痴をこぼしながらも楽しそうに毎日やっております。
「盆暮れにいつも珍しい食べ物を贈ってくれるから、うちの女房も喜んでるよ。今回、ちょっと挨拶できればよかったんだけど申し訳ない」
坂巻は謝った。
「いえいえ、そう言っていただけるだけで女房も喜びます。本人が食い道楽なものですから、休みの日なんかに、二人であちこちバス旅行をしておりまして、その先々で旨いものを見つけるのが楽しみなんです」
見合いをセッティングしたときには、明るく人好きのするこの女性に、きっと我が部下はあっさりと振られるだろうと坂巻は思ったものである。
だが、こうやって定年退職した後に、二人でバス旅行を楽しんでいるというのだから男女の相性というのは分からないものである。
「坂巻警部、あれが、梅田翁の島『野良島』であります」
また「警部」と呼んだ元部下をたしなめようとしたが、それよりもふいに眼下に現れた美しい島に坂巻は目を奪われた。
思っていたよりも大きな島である。
話には聞いていたが、実際、上空から見るとタツノオトシゴのように見える。
「ヘンな形だなあ」
思わずつぶやいた坂巻に、
「リアス式の地形でありますから、この辺の島はどれもヘンな形をしたものばっかりです」
と、元部下が律儀に答える。
そのタツノオトシゴの尻尾の辺りにヘリポートがある。
Hと書かれたペンキがひどく剝がれ、周囲にも雑草が生い茂っているところを見ると、あまり使われていないらしい。
「この辺に島を所有している金持ちたちは、自家用の高速船を使うんですよ」
そう口にしたのは、ヘリポートに同じ印象を持ったらしい元部下である。
さらにヘリが野良島に接近すると、島の中央部にある屋敷が見えてきた。
森にとけこむようなモダンなデザインで、ヘリポート周辺とは違い、こちらは手入れが完璧に行き届いている。
「あの梅田翁、まさかこの島で一人暮らしをしているんですか?」
着陸態勢に入った元部下が、操縦桿を握り直す。
「一人は一人らしいが、住み込みの家政婦さんや通いの看護師さん、島には男手もあるらしいよ。まあ、本人はまだピンピンしてるしな」
「米寿のお祝いってことは、あの梅田翁も、もう八十八歳ですか。……警部と会うのはどれくらいぶりになるんですか?」
「だから……」
また「警部」と呼んだことをたしなめようとしたが、さすがに坂巻も面倒になる。
「梅田翁と会うのは、二年ぶりだな。ただ、毎年必ず連絡だけはあるんだ」
「例の事件が起こった時期にでありますか?」
「ああ、そうだ。いつも決まって楽しげな口調で、こう言ってくるんだよ。『坂巻警部、さて、何か新たな証拠は見つかりましたかな?』ってな」
坂巻は梅田翁の声色を真似た。
「あの事件から、もう何年になりますか?」
「四十五年。……四十五年だよ」
坂巻は繰り返した。
「坂巻警部にとっては特別な事件だったんでしょうが、まさか、まだ梅田のじいさんを挙げようなんて思ってるわけじゃないですよね?」
着陸態勢に入りながらなので、元部下の声も少し高くなってくる。
「まさか」
坂巻は笑い飛ばした。
「世間を賑わした失踪事件の容疑者と当時の担当刑事。それが今では友達みたいになっている。改めて考えても不思議な関係でありますね」
元部下がさらに高度を下げる。
「前にも話したかもしれないが、俺が定年退職した日に梅田翁からお祝いが届いたんだよ」
坂巻は当時を思い出しながら独りごちた。
……立派な古伊万里の皿だったよ。迷宮入りした事件の容疑者からの定年退職祝いの贈り物。
まあ、腹も立ったが、感慨深くもあった。ああ、これで俺の刑事人生も本当に終わりなんだな、ってな。
俺が思うに、おそらく梅田翁は梅田翁で、自身が世間を騒がせた事件の容疑者になったことがよほど珍しい経験だったこともあるんだろう。
祝いのお礼に手紙を出すと、「坂巻警部、今度、旨いものでも食べながら、昔話でもどうですか?」なんて誘われたんだよ。以来なんとなく付き合いが続いているわけだ。
二人を結びつけた事件というのは、一九七〇年代半ばに起きたもので、当時「多摩ニュータウン主婦失踪事件」と呼ばれ、センセーショナルに報じられた。
少し過剰気味にセンセーショナルな報道となったのにはいくつか理由がある。
まず一つは、当時の多摩ニュータウンという場所が、いわゆる高度成長期の日本の勢いを象徴するような光輝く場所だったことである。
そしてその光輝くニュータウンで暮らしていた幸せそうな一人の主婦がとつぜん姿を消したのだ。
当時のジャーナリズムはこの光と影のコントラストにまず飛びついた。そして取材報道は過熱した。
そんななか、ある一つの噂が広まった。
失踪した主婦が、以前、吉原の遊郭に身を置いていた元娼婦だったことが分かったのだ。
当然、報道はさらに熱を帯びる。捜査線上に、梅田翁こと梅田壮吾の名前が浮かんできたのがちょうどそのころである。
主婦が消息を絶つ前、彼女と梅田壮吾が会っていたという目撃証言が出てきたのだ。
当時の梅田壮吾といえば、すでに名のある若き実業家の一人であった。
福岡天神の「梅田丸百貨店」の創業者としてその名も全国に知られていたし、好景気の波に乗り、天神本店だけでなく、九州の地方都市に次々と店舗を拡大している最中でもあった。
そんな若き実業家が、世間を賑わす主婦失踪事件の容疑者となったのである。
報道はさらに過熱する、かと思われた。
しかしその火はすぐに消されてしまう。
梅田壮吾が報復措置として法的手続きをとったのである。
不名誉な記事を雑誌や新聞に掲載した複数の新聞社や出版社を相手どり、名誉毀損の裁判を起こしたのだ。
一方、このころ、坂巻たち捜査陣も完全な手詰まり状態に陥っていた。
まずこの主婦と梅田壮吾が、いくら調べても繫がらないのである。
逆に、二人の素性を調べれば調べるほどに面識がないことが明らかとなっていく。
さらには二度の目撃情報のうちの一つについて、梅田壮吾本人が九州にいたという完全なアリバイもあった。
気がつけば、過熱を極めていた報道も驚くほどの速さで収束していた。
とにかく慌ただしく賑やかな時代だった。
世間の関心は次から次に生まれる新たな事件へ向かった。光輝くような多摩ニュータウンで幸せな生活を送っていた主婦が一人消えたことを、世間が忘れてしまうのにそう時間はかからなかったのである。
坂巻を乗せたヘリは、さらに野良島に接近していた。岩礁で波が激しく割れている。
「梅田翁のご家族は?」
ヘッドフォンに元部下の声が戻る。
「みんな東京で暮らしてるよ」
坂巻は答えた。
……でも、今回のお祝いにはみんな集まってくるらしい、と。
「しかし、こんなプライベートアイランドで使用人たちにかしずかれて余生を送るなんて、夢みたいな人生でありますね。2LDKの公団住まいの私なんかには、まったくもって想像もつかない世界ですよ」
いよいよ着陸するらしく、元部下が合図を送ってくる。
坂巻は親指を立てて応えた。
プロペラの風圧でヘリポートに茂る草木が大きく揺れている。色鮮やかな小鳥たちが慌てて飛び立っていく。
ヘリポートから少し離れた場所に立つ梅田翁の姿を、坂巻が認めたのはそのときである。
杖こそついているが、立派な体格は以前と変わらない。
プロペラの風圧に足元をふらつかせることもなく仁王立ちし、その長い白髪杖乱す姿は、まさに古刹の山門を守る仁王像のようである。
彼の背後に付き添いの若い男性看護師も立っているのだが、どちらかといえば彼の方が慣れぬプロペラの風圧によたよたしている。
ヘリが着陸すると、坂巻は自らドアを開けた。
「では、またお迎えに参ります」
元部下の言葉にうなずくと、なるべく身軽に見えるようにステップから飛び降りる。
降りた途端、濃い潮の匂いがした。
坂巻はプロペラの風圧に耐えながら、小走りにヘリを離れた。
身をかがめながら会釈を送ると、梅田翁が片手を上げて応える。
遠くから見ても武骨な手である。そしてまた、日灼けした顔も剛健そのもの、長い白髪はまだフサフサしており、白髪三千丈とはほど遠い。
梅田翁よりひと回りも若いはずの坂巻でさえ、横に立てばくたびれて見えるかもしれない。
背後でヘリが飛び立っていく。
坂巻が高度を上げるヘリを見送った。
そしてヘリの音が遠ざかると、改めて梅田翁に目を向けた。
「ご無沙汰しております」
「坂巻警部、遠いところ、よくきて下さった」
と、梅田翁が手を差し伸べてくる。
「ですから、その『警部』はもう勘弁して下さい」
そう照れながら、差し出された梅田翁の手を坂巻は握った。
肉厚の、苦労した男の手である。
「まあ、堅苦しい挨拶はなしにしましょう。見ての通り、何にもない島ですが、釣りなら、島の桟橋からでも、船釣りでも、やりたい放題ですから。好きなだけのんびりしていって下さい」
「ええ、そのつもりでやってまいりました」
二人は強く握り合っていた手をようやく離した。
ヘリが夏雲のなかへ飛びこんでいく。
「坂巻警部」
ふいに梅田翁の声色が変わり、坂巻は空から視線を戻した。
「……さて、何か新たな証拠は見つかりましたかな?」
夏空を見上げたまま、梅田翁が楽しげに問いかけてくる。
3
ヘリポートで、梅田翁が坂巻元警部を出迎えているちょうど同じ時刻、島の反対側にある桟橋には一台の高速ボートが着岸していた。
乗ってきたのは、梅田翁の孫である梅田豊大と遠刈田蘭平である。
船酔いした遠刈田は桟橋に降り立つと、思い切り島の空気を吸い込んだ。
少し気分が楽になる。
「そういえば、野良島というのは、元々の名前だったんですか?」
遠刈田は背伸びをしながらたずねた。
……こういう無人島を買うと、自分で島に名前をつけたりするそうじゃないですか。でも、野良島だと、そういう感じもありませんし。
遠刈田は島を見渡した。
「いや、これでも祖父が名付けた名前なんですよ」
「野良と?」
「なんでも子どものころに飼っていた猫がいて、その子の名前がノラだったそうで。でも、この島を買ったのがもう五十年近くも前のことで、当時は島名にカタカナを使うことができなかったらしくて、それでそのまま『野良』だったそうです」
「ああ、そうでしたか」
二人を乗せた高速ボートが着岸したのは、きちんと護岸工事された桟橋である。
航行中、時間を持て余した遠刈田が、土地の者らしい船長に尋ねたところによれば、
「この辺の島にあるのは、ほとんどが浮き桟橋なんですけどね。この野良島は梅田翁がお金をかけて護岸工事をしてるんですよ」
……まあ、さすがに台風や嵐の日は無理ですけど、多少の高波程度であれば、私くらいの腕のある船長なら着岸も可能ですよ。
ただ、まあ、今度の台風は大きいみたいですから、あれがこっちに向かってくると、ちょっと船をつけるのは無理でしょうけど、まあ、幸い、今度の台風は台湾の方に進路もズレましたから、お帰りのときも大丈夫ですよ。
とのことであった。
さらに船長はこんな話もしてくれた。
「この野良島はねえ、断崖ばかりの九十九島群島には珍しくねえ」
……西側が小さな砂浜のある入江になってるんですよ。
だからまあ、ああいった立派な桟橋が造れたんでしょうね、と。
遠刈田が、事前にGoogleマップで調べたところ、さほど大きな島ではなさそうだったが、こうやって実際に来てみると、入江の桟橋の周囲は鬱蒼とした森そのもので、その原生林の木一本一本の太さにまず目を奪われる。
金持ちが所有するプライベートアイランドとはいえ、太古からの歴史を持つ原始の島なのである。
船酔いを覚ますように桟橋で遠刈田が背伸びをしていると、その原生林から一人の男がぬっと現れた。
あとで分かることなのだが、この男、島の管理を任されている三上譲治という人物で、髪も髭も伸ばし放題の野性味あふれるその姿は、ちょっとしたターザン然としており、まるでこの野良島から一度も出たことがないようにさえ見えた。
現れた三上は、慣れた様子で高速ボートに飛び移ると、遠刈田と豊大の荷物を手際よく桟橋に運び出してしまう。
一応、遠刈田は島の客人であり、さらに豊大に関していえば、自分の雇い主の孫ということになるのだが、そのどちらに対しても愛想一つ言うわけでもない。
逆に、桟橋に突っ立っている二人が邪魔とばかりに顔を顰め、二人の荷物を両肩にひょいと担ぐとそのまま屋敷の方へ歩いていく。
「ああ、すいません。紹介すればよかったですね」
と、ふと気づいたように言ったのは豊大である。
遠刈田が三上の背中を目で追っていたのに気づいたらしい。
……今の人が、三上譲治さんです。庭仕事から電気工事まで、まあ、この島の男手ですね。
そう紹介した豊大も、すでに三上の無愛想には慣れているのか、遠刈田の横で同じように島の空気を胸いっぱいに吸い込む。
さて、梅田壮吾が現在優雅な隠居暮らしをしている屋敷は、この野良島の中央部にある。
入江の桟橋からは遊歩道が延びており、手入れの行き届いた花壇を通った先が屋敷の中庭である。
中庭には噴水があるのだが、決して悪趣味なものではなく、ちょっとした苔庭を思わせるような、なんとも落ち着いた風情である。屋敷へはこの中庭から出入りする仕組みになっている。
要するに玄関というものがないのである。
屋敷自体は二階建てのモダンでシンプルな外観で、現代風なコロニアル様式とでも呼べばいいのか、二階は風通しの良さそうな広いバルコニーが中庭をぐるりと取り囲んでいる。
「遠刈田さん、お疲れになったでしょう」
屋敷を眺める遠刈田に、豊大が声をかけてくる。
……夕食までのんびりなさってて下さい。家族の者たちはそのときにでも紹介しますので。
あ、そうだ。
そこでふと思い出したように豊大が足を止める。
……先日もお話ししたんですが、今夜の夕食会、ドレスコードがありまして、白いものを何か一つ着けていただければと。もちろん全身真っ白でもかまいませんし、逆に白いネッカチーフだけでもかまわないと思いますので。
「ええ。承知してます」
と、遠刈田はうなずいた。
……白いサマージャケットを持ってきましたので、それで大丈夫かと思っているんですが。
「ええ、完璧です」
「ところで豊大さんのお祖父様は、いつもこういった趣向でお祝いを楽しまれるんでしょうか?」
「いえ、初めてなんですよ。祖父がドレスコードなんて言い出したの」
……元々、そういうスノッブなお遊びみたいなものが大嫌いな人なんですけど、今回に限ってはなぜか。
だから、家族皆で首を傾げてるんです。でもまあ、単なる思いつきなんでしょ。
そう笑い飛ばしながら、豊大が中庭から屋敷に入る。
遠刈田もそのあとに続けば、そこは立派な大理石張りのホールで、二階へ向かう階段はまるで豪華客船の大階段のようである。
その二階へ豊大が向かおうとする。
大階段の壁に家族の肖像画が飾ってある。
「見事な絵ですね」
思わず遠刈田は絵の前で立ち止まった。
「ありがとうございます。ちなみに祖父の膝に座ってる男の子が僕ですよ」
「幸せを絵に描いたような、とはこういう絵のことなんでしょうね」
「まあ、僕らが不幸せだなんて言ったら、きっと贅沢だって𠮟られるでしょうね」
その後、遠刈田が案内されたのは、中庭に臨む二階の客室であった。
シンプルな内装ながら、清潔なリネン類や洗面台のアメニティなどは五つ星ホテルレベルである。
案内してくれた豊大が部屋を出て行こうとして、ふと足を止める。
「あ、そうだ。もしお疲れじゃなければ、先に島の中を少しご案内しましょうか?」
「いや、ちょっと船酔いしたみたいなので、少し横になっておきます」
「そうですか。分かりました」
豊大も無理強いするつもりはないらしく、あっさりと引き下がる。
「……もし何か欲しいものがあれば、一階に清子さんという家政婦さんがいますので、なんでもおっしゃって下さい」
……ちなみに僕の部屋は廊下を出て右側の突き当たりです。
しばらく部屋にいると思いますが、もしいなければ携帯にかけてもらえれば。
「ご親切にありがとう」
「では、ごゆっくり」
豊大が出ていくと、遠刈田は窓の外を眺めた。まだ日は高く、海原は眩い。近隣の島々も見渡せる美しい九十九島の眺めである。
少し船酔いしていたせいもあるのだろう。シャワーで汗を流した遠刈田は、十五分ほどのつもりでベッドに寝転んだのだが、階下から聞こえる賑やかな笑い声に目が覚めたとき、すでに窓の外は燃えるような夕映えとなっていた。
慌てて白いサマージャケットを羽織り、遠刈田は部屋を出た。
大階段を一階へ降りていこうとすると、豊大が駆け上がってくる。
彼もまた白いジャケットで、そのポケットには律儀に白いネッカチーフまで差している。
「ああ、良かった。ちょうど今、お迎えにあがるところでした」
「すいません。少し眠ってしまって」
「長旅でお疲れなんでしょう。大丈夫ですか」
「すいません、ちょっと横になるつもりが寝入ってしまったようで」
……しかし、旅というのは不思議なもので、東京からここまで、飛行機と高速ボートで三時間もかからなかったはずなのに、なんと言いますか、ちゃんと移動した距離分だけ疲れが出るもんなんでしょうね。
大理石張りのホールの先が、メインダイニングになっていた。
その両開きのドアは開放されている。ダイニングには白いテーブルクロスも眩い長テーブルが置かれ、百合の花が上品に飾られた花瓶が並んでいる。
すでに今夜の客たちも揃っているようである。
豊大に背中を押され、遠刈田はダイニングに足を踏み入れた。
「遠刈田さんがお見えです」
豊大の声に客たちの視線が集まる。
「ご紹介しますね。まず、こちらが、僕の両親と妹です」
豊大の紹介に、少しわざとらしいくらいに恭しく立ち上がったのは父の一雄で、
「ようこそいらっしゃいました。とおがったでしょ?」
と、一人で笑い出す。
どうやらダジャレ好きな男らしく、その目尻に刻まれた深い笑い皺が彼の人柄を伝えてくる。
彼が着ているのは白いタキシードで、こちらはこういうパーティーの趣向が嫌いではないと見える。
その横で夫のダジャレに呆れているのが豊大の母、葉子なのだが、こちらは大胆に肩を出した白いイブニングドレス姿である。
「いらっしゃい。遠刈田さん。遠いところ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、お会いできて光栄です」
ちなみに、この梅田葉子、八〇年代にエアラインのキャンペーンガールとしてデビューしてドラマやバラエティ番組に引っ張りだこだった元タレントであり、その白いイブニングドレスが似合うのも当然である。
ただ、その人気絶頂のころに、知人の紹介で知り合った一雄との結婚が決まると、あっさりと引退して以来、一切芸能界との縁を切っているところを見ると、元々はそう目立ちたがり屋でもないのかもしれない。
彼女の隣にいたのが、豊大の妹、乃々華である。
豊大曰く、正真正銘の梅田一族三代目である。
こちらは仕立ての良い白シャツという簡素な装いながら、その生地や仕立ての良さ、さらに少しだけ開いた胸元からは、気品とも知性とも色気とも才覚とも、とにかく曰く言い難いものがあふれ出ている。
長男である豊大が安心して、一族の事業を彼女に任せてしまうのも納得できる。
「初めまして、乃々華です」
「初めまして。お会いできて光栄です」
これで梅田家が揃ったことになるのだが、それぞれが遠刈田を迎えるその微笑みからは、心からの歓迎があふれている。
――育ちの良さというものは隠しようがなく、その相貌は健全そのものである。
これが豊大に対する遠刈田の第一印象であったが、なるほど、こんな家族のなかで生まれ育てば、さもありなんと思わせる人たちなのである。
「そして」
遠刈田がそれぞれの家族に挨拶を済ませると、豊大が奥に座る老紳士に手を差し伸べる。
「……あちらにいらっしゃるのが、祖父のご友人の坂巻さんです」
立ち上がったのは、白髪を角刈りにした眼光鋭い男である。
「坂巻さん、こちらが先ほどお話しした遠刈田さんです」
豊大の紹介に、坂巻が一礼する。
「初めまして坂巻丈一郎です。梅田翁とは、もう長い付き合いでして。今回は私もお祝いにお呼ばれしております」
元警部とは聞いていたが、なんとも美しい所作である。まるで伊勢神宮にでも参拝するような、それは見事な立ち居振る舞いで、長年、矜持を持って官職に就いていたことがそれだけで伝わってくる。
ちなみにこちらはグレーのジャケットに白いハンカチを差しているだけだが、遠刈田の視線にすぐに気づいたらしく、
「まあ、私は、この白髪頭がドレスコードの白ということで」
などと、その頭をガシガシと搔く。
「初めまして。私は遠刈田蘭平と申します」
遠刈田もまた深々とお辞儀した。
以上六名が、今回、梅田翁こと梅田壮吾の米寿祝いに招かれた者たちである。
さて、一通りの挨拶を済ませた遠刈田が自席に着いたときである。
とつぜん野太い男の笑い声が響いたかと思うと、いつの間にか、参加者たちの背後に今夜の主役、壮吾が仁王立ちしていたのである。
驚いて振り返った遠刈田の眼前に、その仁王が立っている。
年相応に頰の肉は落ちてはいるが、かつて立派な体軀だった面影はあちこちに残っており、日灼けした顔に伸びた長い白髪は、圧倒されるほどの貫禄がある。
さらに光沢のある白いガウンを羽織っていることもあり、一種異様な雰囲気である。
その姿をあえて譬えるとするならば、幾度の戦火や災禍を生き抜いて尚、生命力豊かな老木……。
これが遠刈田の第一印象であった。
自身の登場にまだ呆気にとられている客たちを、その鋭い眼光でぐるりと見回した梅田翁が、
「ああ、愉快だ。実に愉快」
と、また呵々大笑する。
……いやいや、まさかこんなに愉快な米寿祝いになるとは思ってもいなかったよ。
年寄りの祝いなんてものは、悲しみだけ行く手にはあり、喜びはすべて背後に去ったことを思い知らせる場でしかないと言うじゃないか。
いや、それがこれはどうだ。
こんなに愉快な祝いになるとは誰が想像できる?
大仰な身振り手振りで演説をぶつ壮吾の姿は、まさに舞台俳優、それも英国女王から叙勲でも受けた舞台俳優のようである。
呆気にとられたままの遠刈田をよそに、このような梅田翁の振る舞いには慣れたものなのか、
「まあ、お義父さん、とにかく席にお着きになって下さいよ。そんなところで、愉快だ、愉快だなんておっしゃってなくて」
と、葉子が声をかけたのだが、
「いやいや、葉子さん、これを愉快と呼ばず、なんと呼ぼうか」
と、梅田翁はさらに声を張り、
……いいかい。今日ここに集まっているのは金持ちの一族だぞ。
まあ、正確にはそろそろ没落してしまいそうな金持ちの一族ではあるがね。
梅田翁が、さほど悲愴感もなくそう言い放ちながら、一雄や葉子、そして豊大や乃々華たちの肩に、その分厚い手のひらを乗せながら自席へと向かう。
なんとも芝居じみた動きなのだが、その一挙手一投足についつい見入ってしまうのは、やはり主演俳優たる梅田翁にそれだけの迫力と貫禄があるからなのである。
「……その上だ。今日は家族以外のお客さまも多彩じゃないか」
そう言って、梅田翁がまず手を差し伸べたのが坂巻元警部である。
「こちらには私の長年の朋友……、と申し上げて差し支えないでしょうね? ……坂巻警部がいらっしゃる」
梅田翁に紹介された坂巻が、
「ですから、その『警部』はもうやめて下さいと頼んでいるじゃありませんか」
と、照れ笑いする。
「では、元警部と呼ばせていただこう」
……なにせ、私にとって、あなたはいつまでも私を追いかけてくる敏腕警部さんなんですから。
「追いかけるなんて、もう何年前の話ですか……」
懐かしそうに笑う坂巻元警部から、梅田翁の視線がすっと遠刈田の方に向けられたのはそのときである。
「……そしてだ」
……豊大が今夜お連れしたのは、なんと私立探偵さんだというじゃないか。
ここまでまた梅田翁が、
「ああ、愉快。愉快愉快」
と、さも嬉しそうに高笑いする。
「お父さん、愉快、愉快って、何がそんなに愉快なんですか?」
さすがに梅田翁の芝居がかった態度が少し度が過ぎると思ったのか、ここで一雄が口を挟んだのだが、
「お前も吞気なやつだなぁ」
と、すぐにたしなめると、
「いいか、ちょっと考えてみろ。今、私たちがいるのは絶海の孤島なんだぞ」
と、さらに梅田翁の口調が芝居がかってくる。
「お祖父ちゃん、絶海の孤島だなんて、ちょっと大袈裟よ。だって、高速ボートで空港や対岸の町まですぐなんだから」
ここで話の腰を折ったのは乃々華である。梅田翁も家業を継ぐ三代目の孫娘には弱いのか、
「まあ、そりゃそうだ」
と、素直に認めはするのだが、
……でもな、乃々華、孤島は孤島だぞ。
そしてだ。そこに集まっているのが金持ちの一族であることには間違いない。
そして、さらに招かれているのが元警部さんと探偵さんときている。
次の瞬間、梅田翁の視線がふいに遠刈田に向けられた。
「……ねえ、遠刈田さん」
……こんな状況で、殺人事件が起こらないなんてことがありますか? と。
どこまで本気なのか、とつぜん話をふられた遠刈田は面食らった。
当然である。殺人事件が起こる雰囲気など微塵もなければ、そもそも彼が依頼されているのは宝石探しであり、殺人事件などという物騒なものではない。
「まあ、私がもし、ポアロや金田一耕助ならば、そういうことも起こるのかもしれませんが、残念ながら、当方、同じ探偵とはいえ、そういった有名どころとはまったく縁のない者でして……」
こんな受け答えをした遠刈田を、どうやら梅田翁は気に入ったようだった。
「遠刈田というのは、珍しいお名前ですね? 宮城県の遠刈田温泉は知っておりますが、どの辺りにゆかりのあるお名前かな」
「ええ、私も以前、この苗字の由来について調べたことがあるのですが……」
さて、この遠刈田という珍しい苗字についてだが、宮城県蔵王に遠刈田という地名の温泉地があるにはあるが地縁はなく、縁者もいない。
ちなみに、これが刈田という苗字であれば、岩手や宮城など米どころでわりと見られる。
しかし肝心の遠刈田となると、これまでに家族以外で同じ苗字の者に出会ったことがない。
蔵王の遠刈田温泉は三大こけし発祥の地の一つであるが、遠刈田系と呼ばれるこのこけしは、頭頂に赤い放射状を描き、額から頰にかけてハの字の飾りがあって、胴は菊や梅の花模様となる。
実は、もしかするとこのこけし由来で「遠刈田」という姓にたどり着かないものかと調べてみたこともある。だが、探偵のわりに探究心と根気がなく、今のところ関連は見つけられていない。
遠刈田のそんな長話を、梅田翁はもちろん、そこにいた皆が関心を持って聴いてくれた。
ただ、最終的にオチがないことが分かった途端、なんともいえない徒労感がその場に流れる。
「……ああ、申し訳ありません。つまらない話を長々と」
遠刈田は慌てて謝った。
「いやいや、面白い話でしたよ。というか、あなたはマイペースな方なんですな」
梅田翁がすぐに助け舟を出してくれる。
「それにしても、苗字というのは不思議なものですな」
……生まれたときには血肉と同じように自分に引っついている。
遠刈田さんは遠刈田さん以外ではないし、この梅田壮吾は、やはり梅田壮吾でしかない。
この辺りで一連の会話もお開きとなり、食事が始まるのかと思われた。
しかし、よほどこの夜の状況が気に入ったらしい梅田翁が、改めて話を殺人事件に戻してしまう。
「まあ、ポアロや金田一ではないにしろ、それでもあなたは立派な探偵さんだ」
……とするとですよ、遠刈田さん。
やはり、この状況で殺害されるとなると、私となりますでしょうな、と。
「ちょっと待ってくださいよ。なんで、お父さんが殺されるんですか。バカらしい」
呆れたように口を挟んだのは一雄である。
「なんで私が殺されるか?」
……そんなのは、ちょっと考えてみれば、すぐに分かるだろ? 考えてみろ。
梅田翁が自身の悪ノリに一雄まで巻き込もうとする。
「いや、分かりませんよ。まったく」
「いいか、ここに座っているのは、老いさき短い資産家の老人だ。犯人は、この私の遺産を狙う家族の誰かだよ」
さらに梅田翁が興に乗ってくる。
「くだらない」
いよいよ呆れたらしい一雄が、そばで給仕のスタートを待っている家政婦に、
「清子さん、もう始めて下さい」
と、笑顔で合図を送る。
そして、一雄自らも立ち上がると、クーラーから出したシャンパンの栓に手を添え、
「……いいですか、お父さん、だって考えてみて下さいよ」
と、自説を唱え始める。
……たとえば、うちに相続人が多くて、複雑な関係ならば遺産争いも起こるでしょうよ。
ですが、幸いなことに、ここには仲のいい家族が一組いるだけ。
どこをどういう風に捻じ曲げて考えれば、殺人事件なんかが起こるんですか。
それともまさか、今になって、「実はわしには隠し子がおってな……」なんて、衝撃の告白が飛び出してくるわけじゃないでしょうね。この米寿のお祝いに。
そのタイミングで、景気良くシャンパンの栓が抜けた。ポーンという気持ちの良い音が広いダイニングに響く。
この一雄という男、ホスピタリティに富んだ人間らしく、シャンパンを皆のグラスに注いで回る。
「まあ、残念ながら、隠し子なんて話は出てこないな。でも、筋書きはそれだけとも限らないじゃないか」
シャンパンをグラスに受けた梅田翁が、いよいよその体をテーブルに乗り出している。そして、この辺りで遠刈田もなんとなく気がついたのである。
ああ、これがこの梅田家のいつものリズムなのだろう、と。
初めての人間にはまるで大仰な舞台劇でも見せられているようだが、これがこの梅田家のコミュニケーションの取り方であり、とすれば、おそらくこれが初めてではなく、この雰囲気にまったく動じていない家政婦の清子や坂巻元警部にも合点がいく。
「……じゃあ、こういう筋書きはどうだ?」
何か思いついたらしい梅田翁が、また大きな声を上げたのは、そろそろ一雄が最後に自分のグラスにシャンパンを注ぎ終えようとしたときである。
……いいか。たとえば、こうだ。
ここにいらっしゃる坂巻警部が、四十五年前に起きた事件の真犯人が、実は私だったという証拠をいよいよ摑んだという筋書きだ。
「だって、お父さんは疑われたけど、早々に無罪放免になったんでしょ」
と一雄が笑う。
「ええ。まったくその通りです」と、坂巻も一雄を援護する。
「いや、実際はそうだったが、実は真犯人はやはり私で、この坂巻警部がいよいよ、その証拠を摑んだんだよ」
……そして、坂巻警部がそれをネタにこの私を強請ろうとする。
きっと、お前たちのことだ。この私を守ろうとするだろうな。
まあ、ここは大のお祖父ちゃんっ子である乃々華辺りが、私や梅田家の尊厳を守らなければなんて使命感にかられて、坂巻警部の胸をグサリだよ。
結果、坂巻警部はこの孤島で無念の絶命。さあ、あとは一家総出で警部の遺体を隠して、完全犯罪に見せかけるためのアリバイ工作だ。
「あらあら、さっきまではお義父さんが殺されるって話だったじゃありませんか」
少し残念そうに口を挟んだのは葉子である。
……それが、いつの間にか、坂巻さんが殺されちゃって。
少しがっかりしているところを見ると、この葉子という女性、この手の話が嫌いではないらしく、わりと真剣に梅田翁の話を聴いていたとみえる。
「あーあ、お父さんの話も、いよいよバカらしくなってきましたね」
一雄が会話を締めくくるように言い、
……だとしたら、坂巻さんが無駄な罪を犯す前にお伝えしとかなきゃなりませんね。
……さっき、父が言った通りなんですよ。
ここにいるのは、そろそろ没落しそうな金持ちの一族。
ですから、いくら強請られたって、こぼれ落ちてくるのは、これから前菜で出てくるキャビアくらいなものですよ。
「坂巻さん、恥ずかしながら……、実際に夫が言う通りなんですよ」
葉子が一雄の肩をやさしく撫でる。
……今のところは、なんとか体面を保っていますけどね。
万が一、お義父さんが亡くなって、それこそ遺産相続なんて話になったら、莫大な相続税で、何も残りゃしませんからね。
もちろん乃々華が頑張ってくれているのはたしかですけど、正直なところ、私たちの東京の家だって残せるかどうか……。
葉子というのは不思議な女性で、その茶目っ気のある話し方のせいか、語られているのは決して楽しい話ではないはずなのだが、なぜか彼女が口にすると、そんな話でさえ、最終的にはめでたしめでたしの結末が待っているような気がしてくるのである。
気がつけば、乾杯の準備は整っていた。
「さあ、殺人事件の話はここまで。お義父さんの米寿を祝って乾杯をしましょ」
場の雰囲気を変えるように葉子が立ち上がる。
……あ、そうだ。坂巻さん、せっかくですから、乾杯のご挨拶をお願いできます?
とつぜん葉子に指名され、坂巻も少し慌てた様子ではあったが、さすがにこういう場数は踏んできているらしく、
「では」
と、すぐに立ち上がる。
……この私が、梅田翁に知遇を得たのも、考えてみますと、もう四十五年も昔になりますな。
まあ、奇妙な縁ではありましたが、未だこのように近しくお付き合いいただいて……。
坂巻がまるで準備してきたような挨拶を朗々と始め、長年の友、梅田翁の米寿を祝う。
「梅田翁、おめでとうございます。乾杯!」
「お父さん、おめでとう」
「お祖父ちゃん、おめでとう」
皆が掲げるグラスに、さすがに梅田翁の相好も崩れる。
「いやいや、まったく私は幸せ者だよ。みんな、ありがとう!」
気がつけば、窓の外の風が強くなっていた。
もちろん窓は閉め切られていたが、屋敷を囲む原生の森が、この島に台風が近づいていることを知らせていた。
というのも、台湾へ向かっていたはずの台風18号が、この夜、急に進路を変え、大東諸島から九州方面へと進み出していたのである。
乾杯のあと、まず供されたのは、この辺りで養殖されているという生牡蠣に、キャビアをふんだんにのせた前菜であった。
それは濃厚な味の生牡蠣で、遠刈田はすでに咀嚼し終えた牡蠣をいつまでも舌で探し回ってしまった。
さて、こうも長々と、この夜の晩餐の様子を読者諸氏にお伝えしたのにはもちろんわけがある。
というのも、この翌朝、梅田翁こと梅田壮吾がこの野良島から消えてしまっていたのである。
もちろん予定があってのことではない。
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
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