遣唐使・井真成に降りかかる数々の試練。旅に出た真成一行の行く手にあるものは? 夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」# 110〈前編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」は「カドブン」(https://kadobun.jp/)で配信中の連載小説です。
6/8未明から発生している大規模システム障害により、「カドブン」をご覧いただけない状況が続いているため、「# 109〈後編〉」以降を「カドブン」note出張所にて特別公開することとなりました。
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「蠱毒の城――⽉の船――」# 109〈後編〉
夢枕 獏「蠱毒の城――⽉の船――」
これまでのあらすじ
二十四章 青壺
(七)
始皇帝陵の前に立つ項羽の前に、青壺がやってきたのは、前二〇六年のことだ。
その二年前――
前二〇八年――秦の二世皇帝の二年。
青壺は、洛陽にいた。
酔い潰れて、路上に伏している。
あれからずっと女を捜し続けてきたのだが、捜しあてられなかった。あれから、というのは、女を殺そうとした時から、ということだ。
ことによったら、もう、死んでいるのかもしれない。
いや、死ぬわけがない。あの女は、死ぬわけがないのだ。死のうと思っても、死ねないのだ。
それだけではない。
歳さえとっていないのではないか。
女と会いたかった。もう一度、言葉をかわし、あの柔らかい肉を抱きしめたかった。愛しい女だった。しかし、あの女が怖ろしかった。愛しいのに怖い。女の裡に隠れていた、怖いものに、気がついてしまったからだ。
しかし、そうか。
あれは、あの女の中にだけではなく、この自分の内部にも潜んでいるものではないのか。人なら、誰でも、あのようなものが、その心や肉の奥に隠れているのではないか。たぶん、そうだ。
あの女は、たまたまそれが外に出てきたのではないか。あの女には出て、この自分にはたまたま出てこなかった、それだけのことだろう。
会いたい。
会えないのなら、あの時、自分は死ぬべきだった。
自分だけが老い、すでに七〇歳を越えてしまった。いや、八〇になったか。もう、自分の歳もわからなくなっている。
酔って、酒がまわった頭で、まだ、あの女のことを考えているのか、このおれは。
胸と腹にあたっている地面の冷たさがここちよい。
このまま、死んでしまうのなら、それはそれでいい。それで楽になれるのなら、望むところだ。
あの女に会えないのなら――
しかし、会ってどうするのだ。
もう、あの女とは、生きる場所が違う。
女に会えないから、女のかわりに、始皇帝に手を出したのだ。
秦が憎かった。始皇帝を弄んでやりたかった。こうなってみると、始皇帝が憎い秦そのものだ。そもそも、あの時、始皇帝――つまり、邯鄲で政のやつをまっ先に喰ってやればよかったのだ。
何故、そうしなかったのか。
それを思うと、はらわたが煮えてぐつぐつになる。
考えること、思うことが、頭の中をぐるぐるとめぐっている。
その始皇帝が、死んだ。
巡遊中に、死んだのだ。
哀れと言えば、哀れだ。
あれほど人を殺しておいて、自分が死ぬことだけは、誰よりも怖れていた。
だから、騙してやったのだ。
永遠に生きる方法はござりますよ。
歳をとらぬ法はござります。
わたくしは、それを知っております。
真人となればよろしいのです。
金丹、仙丹、それらを呑み、雲に乗り、天に遊び、この世の快楽も恣にござりまするぞ。
人に姿を見られてはなりませぬ。
人に居場所を知られては、真人はやっては来ませぬぞ。
哀れなほどたやすく騙された。
その噓がさすがに、知られそうになって、逃げ出したのだ、このおれは。
その後にも、政のやつは騙された。
徐市という、斉の男に。
あんなに愚かな男に、よくこの天下が獲れたものだ。
その天下も、あと、どれほどもつのか。
始皇帝よ、今どんな面をして、死んでいるのか。
その面でも、拝みに行ってやろうか。
いや、おれが本当に見たいのは、始皇帝の面ではない。
愛しい、哀れな、あの女の顔だ。
一度は、殺そうとしたのだ。
別れてから、十五年目か、二十年目であったか。
あの時は、女の方から殺してくれ、と、そう言ったのだ。
泣きながら、おれに哀願したのだ。
殺して。
しかし、殺せなかった。
いや、殺そうとはしたのだ。それが、女のためだと思ったのだ。
それで、剣で突いたのだ。
心臓を。
だが、死ななかった。
次に、腹を。
次は、眼を。
それで、死ななかった。
首を両断したが、もとにもどった。
その時の光景は、思い出したくない。
思い出したくないが、しかし、眼に焼きついて離れない。
いくら、死なぬと言っても、斬られれば痛い。そして、苦しい。見てはいられなかった。それ以上できなくなって、あきらめたのだ。
以来、女には会っていない。
今、どうしているのか。
会いたい。
たまらなく会いたい。
しかし、会ったとて、殺してやることはできない。会っても苦しいだけだ。しかし、無性に会いたくなる。会いたくて、身がちぎれそうになる。
始皇帝を、騙してやったのも、女に会えぬ苦しさをまぎらわしたかったからかもしれない。
始皇帝のもとを去ってから、女を捜したが、結局、会えていない。
そして――
(後編につづく)