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『献灯使』⇒ けんとうし ⇒ 点灯夫…

小さな星のあのひとのように、穏やかに夜を灯すひとを想った。


文庫本のカバーには沈黙の鳥。
微動だにしない。
ひたすら獲物が油断するのを待っているハシビロコウ。

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主人公の義郎は百歳を超えた作家。
無名という曾孫の男の子と二人で暮らしている。

―無名は青い絹の寝間着を着たまま、畳の上にべったり尻をつけてすわっていた。どこかひな鳥を思わせるのは、首が細長い割に頭が大きいせいかもしれない。絹糸のように細い髪の毛が汗で湿ってぴったり地肌に貼りついている。空中を耳で探るように頭を動かして…

物語はこの一文からはじまる。
寝間着の青さが鮮やかに浮かぶ。
薄っすらと湿った頤から首にかけて己が指を這わせているような感触。
今にも消滅してしまいそうな儚さが絶滅の確率を思い出させる。

多和田さんが設定した世界は、義郎ばかりか老人たちはみんな100歳前後ですこぶる元気。“現役”なのだ。
無名が通っている小学校には両親に育てられている子がひとりもいない。
「孤児」ではなく「独立児童」と呼ばれている子供たちはジュース一杯飲み下すことすら苦行で、肌を刺激しないパジャマをひとりで脱げるかどうかが朝の大問題なのだ。
人間は後始末などできないことを知りながら怪物を野に放つ。

本書は、SNS等の書評の多くでディストピア小説に分類されている。

文中にはディストピアと化した原因は明記されていないが、読み進めば、あれが原因だな、と思い至る。
街並みはそのままなのに住む人間の居ない首都の姿が出てきたり、外来語を使うことが憚られたり、食べ物の問題など、なるほどディストピア小説か。

なんというか、ぼくにはこの「ディストピア」という概念がよく理解できていない。

ディストピアは、ユートピアに対するディストピアという捉え方でいいのだろうか?
トマス・モアの<現実には決してあり得ない理想的な社会>が“ユートピア”だとすると、ディストピアはあり得ないものの対局にあることになる。

しかし、自然によってもたらされた天変地異や、人間の愚かさ故の悲劇、戦争、紛争、民族浄化、環境破壊、パンデミック、ここには書き切れないほどの歴史と事実を“ディストピア”と呼ぶならば、それは未来永劫に消えてなくならないだろうと予感する。

ティーンエージャーに成長した無名は、選ばれた献灯使としてある国へ送られる。
物語はそういう風に終末していくのだが、多和田さんの物語だ。そう信じていいのだろうか。
何度読み返しても“そういうことだったのか”と容易に納得できないでいる。

出来ればとぼくは強く思う。
無名には、夜を迎える街角に、ぽっと灯りを点す点灯夫のように暮らして欲しい、と。

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