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note書いてたら、美大大学院に合格した【タイ移住日記2024/2/29-3/7】

忙しすぎて一週間ご無沙汰してしまった。仕事が増えた上に、一カ月セメスター休みだったタイ語レッスンが3月からまた始まった。週に2、3回。社会人並みに働きながら一日3時間の学習(往復1時間の移動)はなかなかしんどい。小手先のライフハックなんかじゃ打倒できない。

最近嬉しいことがあったので、今日はその話をしようと思い、仕事のやる気をブーストするためにも趣味の執筆を行う。まあ、仕事も執筆なのだが。

半年ちょっと、そして一時期は病みながらnote書いてたらそれが評価されて京都芸術大学大学院文芸領域(通信課程)に合格した話を綴ります。

皆さんの期待する合格への近道とかハックなんかはありません。タイトルにつられて読んでいただいた方の中にはここでしょんぼりして閉じてしまう方もいると思うが、一応一定期間は無料公開しておくので、サーッと読んでみてほしい。もしかしたら私が病んでいた話の中にヒントもあるかもしれないし。



大学院に入りたい!という風にずっと思っていたわけじゃなく。

私のライフイベントはいつもふいにやってくる。

タイのチェンマイに移住したのも本当にたまたまだ。妻の仕事の関係でチェンマイに行くことになり、結婚もしたばかりで離ればなれもな、と思い、新卒3年ちょっとでスパッと会社を辞めてついてきた。


大学2年生の時にちょうどミャンマーの少数民族迫害が悪化し、その時に支援と調査をかねて(もちろん、支援団体、国連関係者とともに)ミャンマーとタイの国境沿いに行った際に中継地点として、チェンマイに訪れたのが私の最初のタイとの接点である。

(今もなお、ミャンマーの状況は良くない。マジョリティー側は18歳以上の男性は徴兵され、少数民族は命を追われている。その結果、タイ語の先生が話していたのは、学生ビザでタイ語を学びに来ている今月入学の生徒がオールミャンマー人だったらしい。同じクラスのミャンマー人もどちらの側にとっても意味がない、と話していた。)

そのときのチェンマイの街のイメージがよく(1泊滞在しただけだったが)、いつかここで住めたらいいなとうっすら思っていた。

私がタイに行けたのも、当時関西で一番大きな学生難民支援団体(私の次の代で後任がおらず、地域の活動に吸収された)で代表をしていた関係でお誘いいただき、偶然にも参加できたものである。

団体の代表になったのも一番先輩と仲が良かったから、というぐらいのものだ。卒論もその大学では珍しく難民研究をテーマに書いた。そのまま大学院で学びたいという気持ちの反面、なかなか大学院のお金を出して、までは言えないなと思い、とりあえずは文句を言われないように就職した。


会社を辞めてタイに移住してきたあと。

とりあえず、1年間生活できるぐらいの貯金だけもってタイに来た。日本だったらすぐになくなる額だろう。

そのせいでハローワークにも行けないし、それなのに申請しても年金払えと言われるし、日本の政治もクソみたいなもんだし、お金が想定よりも減るのが早い。自分の生活が危うくなると思って、年金は追納することにした、払いたくないけど。会社員の時にあれだけ払って、そして手取りを見ると20万円以下なんてざらにあった。おい、大手に就職したはずなのに。

住民税だけでも高い。それはもちろんちゃんと払っているが、これで何の役に立っているのかもわからない。私の税金が何に使われたのか細かく記載して送りつけてほしい。とか思ってしまったりする。とりあえず人間お金がなければ、卑屈になり、病むのだ。

病みながら日々やることもなく書く日々。

文章を書くことが好きで、コロナ禍で完全に仕事がなくなったときも自分でブログを立ち上げていろいろ書いていた。今はまったくいじれていないけど、維持はしてる。コロナの時は旅行会社なので売上ゼロの日々が延々と続いた。仕事がなく、補助金を得るために大事な新卒1年目が失われ、たまに出社しても、旅行いつ再開するんや!という旅行好きなのか、とんちんかんなのかわからないご老人の相手。暇すぎて、延々とその話に耳を傾けるしかなく、私たち同期の中では、「私たちは介護士になったんだ」と言い聞かせていた。

業界でもトップの、しかも団体ツアーという「ザ・旅行会社」をできる職場に入社できたのに、やるのはクレーム処理。週に何度かの出社で、仕事がそんなことばかりだと本当に病んだ。ストレスに対処するために、私は本を読んだり、映画で見たりして、その感想を世の中に発信していた。直接人と関わりたくなくなった時期だった。

そして今もご年配と対すると、正直「対人恐怖症」というか、いやな気持ちがフラッシュバックする。それぐらい病んでいた。

タイに来てからもやることがなく書く日々。

その後旅行会社は、政府のGoToキャンペーンなる税金無駄遣いキャンペーンにより、復活を遂げた、と言いたいが、結局は政府の後手後手な対応に振り回され、仕事はあるものの、辛い日々が続き、同期や先輩、これまで会社を引っ張ってきた方々も病んだり、お金が稼げず苦しいからと転職して辞めていった。

そして残っている人たちには、それまでずっと減額されていた給料を補う「生活支援金」という名のお金をもらった。若手は生活が苦しく、先輩方はローンが払えないと頭を悩ませながら、旅行会社はとても専門職なので(国家資格を持っている人が大半で、業務内容は旅行業界以外になかなか活かせない)、転職も難しく、雰囲気がいい時なんてなかった。

そんなこんなで妻が光をつかみ取ってくれた。

私は一刻も早くあの場所から逃げ出したかった。

悪い会社ではない。噂通り、給料はボーナスで稼ぐようなところで、スーパーエクセレントホワイト、いい人達ばかりだった。
けど、運が悪かったのだ。3年目にして外から妻がチャンスを与えてくれ、辞めることが出来た。

そしてタイに来てからは、とりあえず何もしないのはまたそれもよくないと思い、会社を辞める前に一度チェンマイに来て大学で手続きをして7月から始まるタイ語クラスの申し込みだけした。

とりあえず一年間はタイ語だけやって、後は流されるままに生活し、家事は全部私が行うことにした。ツイフェミにはなんか言われるかもしれないが、本当に全部の家事を引き受けた。うそだと思うなら妻に聞いてほしい。


タイで何を書いていたのか。

最初のころはタイ語と家事しか本当にやることがなかったので、タイ語の読み方はすぐ習得した。そして一つ一つの家事が楽しかった。ネットで買った3000円ちょいの掃除機でどこまで部屋がきれいになるのかというのにさえワクワクしたし、洗濯ものを干すときもずっとこの服が着れるようにとゆっくりゆっくりしわを伸ばして二人分をラックにつめつめになりながら干す。少し干す場所が足りなくなる時もあるけれど、それも工夫してなんとか乗り越える。タイは排水溝が日本よりも細いためにお風呂が詰まりやすく、10日に一度は強力な除去剤で掃除しなければならない。本当に臭くて大変なのだが、ぬくぬくとした生活をしている私にとってはそれだけでもサバイバルである。

タイに来てからは、仕事がないので、日常の一つ一つをゆっくりできる時間の「幅」のようなものがあり、一つひとつの動作に「意味」を持たせることができた。その結果、自然と文章を書きたくなる。まあ、もともと文章を書くことが好きなので、一つひとつの動作が「意味」を持つことで、悪い言い方をするとすべてがネタになる。

お金が不安になり、仕事を始める。

年末になるとなぜか焦燥感に襲われる。これは完全に会社員病である。そしてまだ半年も経っていないのに、お金この先どうしよう・・と不安になる。

そんなこんなで、私が運営している本屋でZINEを仕入れさせてもらった方が塾の後任者を探しており、その方の紹介で塾講師を始めた。


そして11月にはAI関連のベンチャー企業からスカウトが来て、興味あるし海外でもOKみたいだし、ということで面接をさせてもらったら、最初は営業でという募集だったのだが、話をしているうちに趣味の話になり、こんなブログ書いてるんですよ、という話をすると食いついてもらえて、実は募集はしていなかったけどマーケティング用のコンテンツを書ける人が必要という話で、結果ライターとして採用。まさかのライターの道が開けたわけである。なかなかこんな風に淡々と(誰に見てもらえるかわからないライティングというコンテンツを)書き続けられる人はいないらしい。好きこそもののなんちゃらとはよく言ったものである。


大学院の書類

大学院の書類には、大学院の書類らしく、志望動機と研究計画と芸術大学院なのでポートフォリオを求められた。まあ、普通である。

私はそんな実績もないので、日々書いているnoteで個人的に一番オモロイと思っているやつと、後は仕事で書いたAIに関する記事を送った。noteの記事は↓のもの。

なぜ受かったのか、

なんてわからない。私はただの奇跡だと思っている。自分が楽しんで
書いているだけなので、センスがあると思っているわけではないし、それでももっと自分の中で様々な執筆分野に足を延ばす足掛かりとしながら、客観的にかつ専門的に私の文章がどんなものなのかを見れるようになりたいという希望を書いただけである。研究計画も、多分人文学系、社会学系なら、具体的な計画をある程度練っておかないと話にならないだろう。私が出した書類は芸術大学大学院での研究が殆どわからなかったので、希望を書いただけの印象である。それっぽく、計画っぽくしただけだ。

目標

芥川賞!なんて私は言えない。小心者なので。
といいつつ、一回だけ文学賞に応募したことがある。でも玉砕。
当たり前である。何十年も書き続けてやっとの人が大半なのに、小手先の技術だけで書かれた文学なんて通るはずがない。

でも、世の中の多くの人でなくていいので、誰かの琴線にちょっとでも触れる文章が書けるようになれれば私はもう目標達成だ。といいつつ、どうやってそれを測るのかはわからない。

出版やZINE作成などができれば・・・という感じです。
ので、もしできたら読んでくださるとうれしいです。

通信課程なので引き続きチェンマイで生活しながらいろいろ書いていきたいと思います。



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