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【音楽聞いて散歩しながら考えたことシリーズ】クオーターライフクライシスとLucky Kilimanjaro(11月1日)

今日から11月だ。気づけば今年はあと2か月、17時であたりは真っ暗、いつの間にか洗濯物の乾きも微妙になっていて、「ああ、11月が来たんだなあ」と思い知らされる。夜はさすがに半袖パジャマだと寒いし、外に行くにはちょっと分厚い上着が必要。もうそんな時期なのかと、毎年驚いている気がする。

今日はフレックスを使って早めに出勤したので、16時半には退勤していた。私は職場から歩いて30分ほどの場所に住んでいるのだが、その帰路の途中には大きな公園がある。その公園の、木々が立ち並ぶ並木道をあえて通って帰るのが、実は密かな楽しみだったりする。紅葉だ。紅葉まっさかり。都会には意外と自然があり、そのわずかな緑に癒されたりする。そんな瞬間が、私は何よりも好きだ。

しかし今日はそれだけでは十分にはリフレッシュできなかった。ここのところ、仕事での心労が続いていたのだった。
私の仕事は、社内外共にとっても調整が多い。折衝したり、交渉したり、説得したり、怒られたり、謝ったり。とにかく、ありとあらゆるコミュニケーションが発生する。ときには交通事故のようなひどい事態に巻き込まれ、心がぽっきり折れることもある。そんなことが積み重なってしまっていたせいか、今日はなんだか鬱々としていた。交通事故のような飛び込んできた突然のアクシデントも、他の人だったらもっとうまく切り抜けられたんじゃないか。あの調整も、あの調整も、もっとやりようがあったんじゃないか。そんな思考ばかりが頭をぐるぐるする。

そうしているうちに、思考はどんどん飛躍して、しまいには全く立場の違う同年代と自分の比較がはじまる。
31歳ともなれば、家族を作ったり守ったりしている人もいるし、昇進して部下を持ち責任のある立場にいる人もいるだろうに、相変わらず私は自分一人の人生を生きるだけで精一杯。いまだに人生そのものが心許ない状態で、情けなくて、かっこ悪くて、たまらなく悲しくなったりする。いわゆる、クオーターライフクライシスというやつである。と、ここで自分の頭を取り巻く現象の名前を出すと仰々しくなってしまうが、些細なきっかけからネガティブな世界が広がってしまうのは、私の考え方の癖だ。実際の問題はもっと小さくて、意外と分解すればなんとかなるもの、ということもよくあるのだけれど、ついつい考えすぎてしまったりする。そして、そんなとき、自分に必要なのは「どんな立場の人にもその立場特有の苦しみがある」という一般論や励ましではなかったりする。そういのじゃなくて、もっと。この鬱々した気分を吹き飛ばしてブチ上げてくれる何かがほしい。思考することそれ自体をまずはストップさせたい、と思う。

そんなときは、"Lucky Kilimanjaro"を聴く。聴いて、歩いてみる。"Lucky Kilimanjaro"を聴いて歩くと、チルでダンサブルな音楽に脳を丸ごとハックされて、いつの間にか嫌な思考がどこかへ飛んで行ってしまう。"Lucky Kilimanjaro"は鬱々としている私によく効く。これは持論である。
元々私は聞いているだけで手足をフリフリしたくなってしまうようなダンサブルな曲が大好きだ。"showmore"の「恋をした」とか、"De De Mouse"の「nulife」とか、"ゲスの極み乙女。"の「キラーボール」とか、そういうの。アップテンポだったり、チルだったり、楽し気だったり、そいういう雰囲気が好きというのもあるけれど、やっぱり一番は「思考をやめられる」ことに尽きると思う。私は元々心配性でものすごくたくさんの処理しきれないことをいっぺんに考えてしまうほうなのだが、ダンサブルなチューンのすごいところは、圧倒的な音のシャワーが頭上に降り注いで脳をハックされることで、聴く人の身体そのものに音楽が作用するところだと思う。そこに思考はない。何も考えなくていい。ただ音楽に身を任せればいい。それだけである。

加えて"Lucky Kilimanjaro"にはほどよい脱力感と優しさがある。週休を8日にしたり、少年を取り戻せと言ってくれたり、仕事終わりに350ml缶のお酒を飲んでみたり、ゆるりと13時に起きてみたり。その独特のゆるさと早くも遅くもないほどよいテンポ、そしてときに大人と童心を両立させたかのような歌詞にどれだけ救われ、肩ひじ張った自分から抜け出せたことだろう。これだから音楽ってすごい。

ちなみに、私は心が狭くキャパもない人間なので、体の力みを解放してはじめて、他人に思いを馳せることができるようになったりする。家族がいる人や会社でそれなりのポジションに就き部下がいる人なんかには、それぞれ「重み」が伴うものだと私は思うのだけれど、対して私はよくもわるくも自分を「身軽」だと思うことがある。

私の大好きな漫画「私は真夜中」の中で、主人公の元夫が年齢を重ねると逆に何かに縛られていないと生きづらく、その重力のおかげでしっかり足をつけて歩いていけると言う場面がある。これは確かに大人になるとそういう側面もあるよなあと思う一方で、独身の自分にはあてはまらないものだなあとも思う。例えば、責任を伴う立場にいる同年代は、きっと責任を伴うがゆえの苦労や何にも代えがたい喜び――例えば子どもや部下を育てる苦労や喜び――を知っている。逆に私は、責任が伴わない立場がゆえの不安や身軽さ――例えば将来の自分が自分には何もないと思ってしまうんじゃないかという不安や責任を伴わないがゆえのある意味での楽さ――を知っている。人はひとりで全てを経験することはできないのだから、そうやってみんなある側面 の苦労とある側面の喜びや楽しさを、少しずつ味わって生きているのだろう。こういう考えは、目の前が真っ暗になっているときはなかなかできない。

鬱々として、力が入りすぎていて、考え方に偏りがある、そんなときは"Lucky Kilimanjaro"を聴いて歩いてみる。そうすると、凝り固まった心をそっとときほぐしてくれる。

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