【音楽聞いて散歩しながら考えたことシリーズ】ファンタジックなメランコリーと楽園市街(11月7日)
今日はとてもいい晴れだった。朝起きた瞬間、窓から太陽の光が入ってきていて、そのおかげで目覚めるというなんとも健康的な朝だった。ベッドからのそのそと起き上がり、着替えて身支度を整える。今日は出社なので、ヨーグルトを食べてからリュックを背負って玄関を出た。寒い。思ったより気温が低い気がする。丈の長い羽織り物を着てきてよかったと、そのとき思った。ワイヤレスイヤホンを耳に入れて、今日も今日とてSpotifyから曲を選ぶ。会社に向かうまでの道のりもまた、あえて近所の公園をつっきることで散歩しつつ向かうのがいつものルーティーンなのだけれど、今日も例に漏れずそのルートを取った。そうしている間に曲もなんとなく決まった。"楽園市街"、今日はこれを聴こう。そう決めて、Spotifyの画面を見て、やっぱりYoutubeに切り替える。"楽園市街"の楽曲は、一部がまだYoutubeやニコニコ動画でしか配信されていないのである。そしてたまたま今日の朝聴きたかった曲は、どれもその二つでしか配信がない曲だった。
「Non-mellow」、「ロヒプノール」、「lullaby」、「ルートヴィヒ美術館」……。秋から冬に移り変わる、低い気温の澄んだ空気にどこか憂鬱で退廃的な歌詞がマッチする。今日のタイトルに書いた通り、"楽園市街"の楽曲にはファンタジーやメランコリーという単語がよく似合う。独特の、ちょっとダークな児童書みたいな世界観と思わずため息が漏れそうな息苦しさが、人にそういった感情を抱かせるのかもしれない。歌詞にたびたび登場する危い単語もそれに拍車をかけている気がしなくもない。ジャンルとしては十一月二日に紹介した"Emilie Simon"に近いかもしれない。違いを挙げるとするならば、"Emilie Simon"が「陰鬱な潜水」なら"楽園市街"は「謎解き」のようである、といったところだろうか。"Emilie Simon"は歌詞自体は案外シンプルで、楽曲自体に雰囲気が委ねられていたりもするが、"楽園市街"の、楽曲の言葉遊びのような、それでいて深い意味が隠されていそうな歌詞は、聴き手の深読み心をそそるものがあると思う。その証拠に、ブログやYoutube内のコメントに"楽園市街"楽曲の解釈を載せているのを頻繁に見かける。
わかる気がする。私は自分が歌詞の解釈をするとすごく独りよがりになってしまうので、どこかに解釈の掲載する予定はないのだが、謎多き歌詞の秘密を解いてみたくなる気持ちはとてもよくわかる。だって、"楽園市街"の楽曲は、まるでこの世のどこかにある、誰もまだ解いたことがないパズルみたいだから。その秘密を暴きたくなるのは、とてもよく理解できるのである。
が、私が一番好きな曲は「lullaby」という歌詞がない曲なので、秘密を暴くも何もない。ただこの「lullaby」という曲も歌詞こそないもの、Youtubeの動画上では「青い薔薇が逆さに描かれていて、その上に蛾が乗っている」という状態から再生されるので、それはそれで議論を呼んでいたりもする。そして恐らく、彼/彼女の楽曲がこんなに謎解き心をくすぐるのは、彼/彼女がほとんど素性を明かしていないことにもあると思う。
"楽園市街"は男性かも女性かもわからない。顔出しはせず、イベント等にも出ず、ただ淡々と曲を作りリリースしている。これは確かにミステリアスである。ファンタジックでメランコリックな楽曲を作っているのがどんな人なのか、もちろん気にならないわけではないけれど。これからもそのミステリアスさに踊らされたい気もする。そんなことを思った朝のことだった。