【#読書の秋2022】死にがいを求めてオタクしているの
明日死ぬことになってもオタクするのだろうか。
地下アイドルオタクのかべのおくです。
前回に引き続き、「 #読書の秋2022 」関連のnoteになります。最近仕事とか副業とかオタ活とかオタ活とかオタ活とかにかまけてサボってましたけど、やはり本はいいですね。
今回は朝井リョウさんの「 #死にがいを求めて生きているの 」を読みました。
今回は僕と朝井リョウさんの作品に対する思い入れから話し始めたいと思います。今回はさっさと始めますね。
自分にとって「何者」と「次元」
大学時代のほとんどを液晶ディスプレイと楽譜に向き合う時間にあてていて、文学に触れてこなかった僕にとっても、朝井リョウさんは当時から身近な作家の一人でした。
確か大学4年くらいのとき、ちょうど周りの友達が就活をしている時期に「何者」を読んで衝撃を受けたのを鮮明に覚えています。様々な登場人物の視点から描かれて徐々に進行してゆくストーリーと明らかになる事実。まるで自分の一番恥ずかしいところを見透かされているような、「隠してても分かるんですよ」と言われてるいるような心境でした。
また、朝井リョウさんは2016年の全国NHK学校音楽コンクール(Nコン)高等学校の部の課題曲「次元」を作詞されていることも、僕が朝井さんに親しみを感じる要因に思われます。
この曲が発表されたときには僕はもう高校生ではなかった(高校生だったとしても、高校に合唱部はなかった)ものの、結局その後何度か歌う機会に恵まれました。その人が「何者」であるかではなく、その内面の「いのち」そのものを考えさせられる朝井さんの詩作は、今の僕にも大きな影響を与えてくれているように思います。
今回、「#読書の秋2022」の課題図書として「死にがいを求めて生きているの」があった時、不思議なめぐり合わせを感じざるを得ませんでした。そんなわけで、しばらくのブランクを経て三たび、僕は朝井作品に向き合うこととなったわけです。
本の内容
「死にがいを求めて生きているの」は、「螺旋プロジェクト」という現代の作家たちによる文学リレープロジェクトの1つという位置づけです。螺旋プロジェクトのテーマでもある海族と山族の対立の構図の中で、平成の世の若者たちの生きづらさが描かれる作品でした。
物語はとある二人の若者にまつわるストーリーが、周りの登場人物たちの視点から描かれます。一人一人に感情移入しながら少しずつ読み進めていく感触は、「何者」を読んでいたときに近いものを感じました。
著者は、死にがいを求めて生きる姿勢を肯定もしていないし、否定もしていないというのが印象的でした。というよりもそこに対して答えを出す必要はないと考えているように思います。世間一般に「何者かになんてならなくていい」という主張はありがたがられますが、現実はそれほど上手くは行かないというのは最近気づかれつつある(僕が気づきつつある)ことです。物語の中で堀北雄介は、常に生きがいを求めて何かに生命を注いでいます。一方で、南水智也はそのようなものを求めない対照的なキャラとして映ります。しかし実際には、そんな雄介を止めることが智也の「死にがい」だったというのは、とても皮肉に思いました。
作中では坂本亜矢奈が「誰かと対立することって大切だと思うの」という言葉を残しています。何かと比べなくてもいい、競わなくてもいいと言われても、結局僕たち人間は無意識に比べてしまうものなのでしょう。智也は、いつかはわかり会えるときがやってくることを信じて雄介と向かい合っていましたが、その試みは失敗に終わりました。分かりあうなんてことは無理なのかもしれないと思ってもあきらめずに挑戦し続けるしかない。この本からはそんな、著者の絶望とも覚悟ともつかない思いを感じました。
感想
この本を読んでいるとき、自分も作中の人物のように、死にがいを求めてオタクをやっていることに気づきました。
思えば最初にオタクし始めたのは、周りの友人とは違った趣味が欲しかったからです。中高生時代に、周りの友達がゲームとか漫画とかバンドとか普通の趣味に興じる中で、アイドルオタクという姿に身を堕とすことは僕の生存戦略だったのではないかと思いますし、現に今でもそうなっているように感じます。これは、興味もない政治問題をレイブで取り上げて、注目を集めようとした安藤与志樹に重なります。目的と手段が逆転しているところもそっくりです。
しかし、いざアイドルオタクの世界に飛び込んで見ればその中でも競争がありました。それはいわば「誰が一番強いオタクか?」というマウンティング合戦です。その結果、ツアーに帯同して毎週全国を飛び回ったり、挙句の果てには海外にまで行ってしまうようになりました。これは若手革命家の中で自分の存在価値を保つため、ホームレス支援に必要以上に傾倒してしまった波多野めぐみと同じです。
それでも飽き足らなくなった僕は、他のオタクがあまり手をつけていない領域としてnoteを始めました。そしてこのnoteでは、オタクやアイドル、アイドル現場同士の対立や区別をことあるごとに描いています。これはいつも何かに対して戦っていないと済まない堀北雄介や、何事も海族と山族の対立という構図に当てはめてしまう南水智也の父・智則となんら変わりません。
こんなふうに、他人と比較してオタクになった僕は、これからも他人と比較してオタ活することをやめられません。やめるつもりもありません。
しかし推しメンが増えたり減ったりするたびに、結局自分は「オタクとして推しメンがいる状態」が手に入れられれば良くて、その対象は誰でもいいんじゃないか?と考えることがあります。多分あの日、あの場所で、あのライブを見なかったら推しメンは違っていたんじゃなかろうか?と思うくらい、自分の中で推しメンが推しメンたる理由というのは心もとないものです。もちろん巡り合わせは大事にしているのですが、「この子が推しメンでいいんだろうか?」という迷いは常に捨てきれません。そしてその迷いを取り払うために、ますます現場へと足を運ぶことになるのです。
しかしいっぽうで本作は、人間を傷つけるのも人間であれば、人間を癒やすのも人間であることを教えてくれているように思います。作中で、安藤与志樹と出会った波多野めぐみの言葉に次のようなものがあります。
僕はともすればネガティブになりがちな人間です。学生時代に勉強や研究をしていても、アルバイトをしていても、会社で働いている今でさえも、いつもどこかに「自分に生きている価値なんてあるのだろうか?」という迷いを抱えていながら生きている気がしています。それは頑張る原動力になることもありましたが、いっぽうそれが原因で正常な判断ができなくなったり、必要以上に頑張り過ぎてしまったりもしてきました。
そんな自分を「このまま生きていてもいいんだ」と肯定できるのは、オタクとして推しメンを推しているときです。推しメンに感謝の言葉をかけてもらった時、ライブ中にイキイキとした顔をしている時、僕は自分のためだけではない、誰かのために自分の生命を使っているように感じられます。
そしてこれはオタクだけでは無いと思います。アイドル側も激しい競争にさらされる中で、オタクの数やチェキの売り上げが減ったりすれば、自分はこの世界に価値をもたらしているのか分からなくなることもあるのかもしれません。そんなときにアイドルが「このままでいいんだ」と思ってもらえるきっかけが、応援するオタクであったら嬉しいと思います。そして自分もその一部になれていたとしたら、きっとそれが自分の死にがいなんだと思います。
おわりに
まとめます。
オタクだけが死にがいなのかも分からないもんね。
以上です。