「サメ」で日本の漁業と食を変える〜SAMEYAの挑戦〜
※このnoteは、
筆者が実際出会った面白い活動をしている人を取り上げ、周囲の方々に認知してもらうためのnote。
(うなぴむプレスと自分で言ってます。今回はnoteですが反響があればメディア化したいなぁなんて...)
10月ごろから、いろんな人に声をかけて、やっと1回目の掲載となりました。
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#01 回目は「サメ肉」を利用し、日本の漁業と食を変える挑戦をしている
SAMEYAの髙瀨 拓海さん。
「なぜ、サメ肉なのか」「なぜ、サメ肉を広げる活動を始めたのか」
日本の常識を変える革命家の思いを、このnoteに込めて伝えたい。
<目次>
◾️サメ肉
◾️サメ肉の歴史
◾️サメ肉で日本の漁業と食を変える挑戦
◾️SAMEYA 現在の活動
◾️SAMEYA 今後の挑戦
◾️SNS紹介
◾️「サメ肉」
「サメ肉」と聞くと何を連想するだろう。
「サメって臭くないの?」
「毒とかないの?危なくないの?体に悪そう」
「そもそもサメって食べられるの?食用?」
これは、自身の周囲の人間に聞いたイメージだ。
正直、私もSAMEYAさんに出会うまでは、
「サメ肉」が「食べ物」であることすらも知らなかった。
SAMEYAさんに会って、初めてサメを食べ、
「サメ肉」は紛れもなく「食べ物」であり、加えて非常に美味であることを知った。
↑ SAMEYAさんの #サメタコライス
そして、「栄養価」という観点から見ても非常に優秀な肉らしい。
特筆すべき、サメ肉のポイントは
・高タンパク、低カロリー、数値はまさしく鶏の胸肉並み。
・鉄分はなんと鶏肉の「10~20倍」
・コラーゲンもたっぷり入っている
・水分を豊富に含んでいるので、パサつきが少ない
ダイエットや美容に最適で、現代の食生活にぴったり、それがサメ肉だ。
◾️サメ肉の歴史
そんなサメ肉が、なぜこれまで利用されてこなかったのだろう。
順をおって説明するために、話を「日本のチルド配送技術がまだ発達してなかった時代」まで戻すことにする。
昔ーーー。
沿岸部では新鮮な魚が獲れ、人々は様々な魚に舌鼓を打っていた。
一方、チルド技術がなかったため魚を山間部まで配送することができず、
山間部の人々は魚を食べることができなかった。
そこで代替品として登場したのが「サメ」である。
サメは死んだ後、体内にある尿素が微生物によってアンモニアに分解される。
そのアンモニアは、人体だけでなく細菌類にも有害であるため、防腐作用が働く。
なので、山間部まで運んでも他の魚のように道中で腐らない。山間部の人が唯一食べられる魚、それが「サメ」だった。
だが、尿素がアンモニアに分解される過程で【強烈なアンモニア臭】を放つ。
「山間部の人は強烈なアンモニア臭を放つサメ肉を食用として食べていた」という風習から「サメは臭い」というマイナスイメージが定着したらしい。
チルド技術と配送システムが確立してからは、沿岸部から新鮮な魚が山間部へ運ばれるようになり、サメの役目は終わりを告げた。
つまり、
沿岸部の人間:新鮮な魚が獲れるのでサメをそもそも食べ習慣がない
山間部の人間:サメ以外の魚が届くようになったので、他の魚を食べたい
という具合に、サメ肉を食べない日本人の習慣は、この頃から出来上がっていった。
現在は、水揚げ後の冷蔵処理が的確になされており、アンモニア臭が発生する仕組みそのものが抑えられているため、特に臭いの問題はない。
◾️サメ肉で日本の漁業と食を変える挑戦
ここまで、サメ肉に関して説明してきたが、そもそも髙瀨 拓海さんが「サメ肉」に目を向けた理由はなんだったのだろうか。
ーーー 第1章 気仙沼との出会い ーーー
最初のきっかけは、東日本大震災だった。
髙瀨さんは、東北が津波に襲われる様子をテレビを通して知った。
「何とか力になりたい...!」
居ても立っても居られず、ボランティア受け入れ許可がおりた最初の日に東北まで車を飛ばした。
受け入れ先は、気仙沼。
津波の被害が大きかった地域の一つである。
辺り一帯、全ての建物が津波に飲み込まれ全てのものが泥を被って居た。泥の中の微生物が腐り、辺り一帯ひどい臭いを放っている。
遺体を遺族の元に返そうとも、遺体を安置する場所すらもなく、供養もできない。
被災し亡くなった方々を供養するため、唯一あったお寺を綺麗に掃除するところから活動は始まった。
泥を何度もなんども運びだし、人が入れるようになるまで掃除を続ける。時間はあっという間に過ぎていった。
ひとまず、今日の作業を終え、ふと顔をあげた髙瀨さんの目には、津波に流され平坦になった気仙沼の光景が映った。
「これからもう一度、ここに人が住んで、街が栄えていく様子が想像できなかった」
髙瀨さんは当時を振り返り、こう語る。
「一時の支援でどうこうできる問題じゃない」
「ここで一時的に、ボランティアをすることも大切だ」
「だけど、このまま終わるのは違う気がする。
気仙沼に持続可能な経済を持ち込みたい」
そこから髙瀨さんの挑戦が幕をあけた。
ーーー第二章 気仙沼での出会いーーー
ボランティアを終え東京に戻るも、気仙沼で感じていた
「このまま終わるのは違う。気仙沼に持続可能な経済を持ち込みたい」
という気持ちがまだ燃え続けていた。
一度決めるとじっとしていられないのが髙瀨さんの性分。「気仙沼は漁業が盛んである」との情報だけを持って、髙瀨さんは再び気仙沼の地を訪れ、漁師に聞き込みを始めた。「今、困っていることは何ですか?」と。
困っていることを聞き、必死に考えて出した復興案を一蹴されることも何度もあったが、それでも諦めずに、髙瀨さんは自分にも気仙沼の人たちにも問い続けた。
「気仙沼に根付く、持続可能性のあるビジネスって何だろうか?」
それからも、根気強く何十回と気仙沼に足を運ぶうちに、徐々に歓迎を受ける様になった。気仙沼を訪れる際には、ご馳走を振舞われ、漁のリアルな話も聞ける間柄になっていった。
漁にも連れていってもらうようになった髙瀨さんは、「モウカザメ」というサメにまつわる問題を耳にする。
モウカザメは主に気仙沼で水揚げされているサメの一種で、フカヒレにしか値段がつかない。身はただ同然の値段で取引されるらしい。
以前は、フカヒレだけを切り取りそのまま海に戻していたが、動物虐待の観点からその行為は禁止された。
その「ただ」同然ながらも、運んで捌かなければならない邪魔な魚、それがサメだった。
だが、味は悪くない。調理法さえ工夫すれば美味しく食べられる。
「もしかしたら、これかもしれない。」
高瀬さんがサメと出会った瞬間だった。
震災から数年の月日がたった。
それでもまだ、
「気仙沼に持続可能な経済を作りたい。」
という思いは消えていなかった。
「命がけで漁業をしている東北・気仙沼の漁師さんたちの社会的・経済的な評価を上げたい。」
「そして、日本の漁業のあり方も変えていきたい。」
何度も気仙沼に足を運ぶうちに、思いはどんどん強くなった。
サメ肉との出会いを経て、髙瀨さんのSAMEYAはスタートした。
◾️現在の活動
「まずは、サメ肉のイメージ向上と認知獲得が必要」
そう考えた髙瀨さんは、サメ肉に到達するハードルを下げるべく、誰もが気軽に食べられる様に、キッチンカーでの販売を考えた。
今も気仙沼のモウカザメを利用したサメ肉料理(ガパオライス)を、キッチンカーで日本のランチタイムに届けている。
スケジュールはこちら↓
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SAMEYAのサメランチ
11:30〜14:00ころ売り切れ次第終了
(水〜13:30/木〜14:30)
(月)大崎ガーデンプレイス
(火)明治学院大学戸塚キャンパス
※今学期の営業は終了しました
(水)市ヶ谷五番町ナカノビル前
(木)丸の内仲通り丸ビル前
(金)慶應義塾大学矢上キャンパス
◆サメのガパオライス
◆サメのタコライス
※金曜日はサメガパオとサメドライカレー
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◾️今後の活動
今後の活動としてSAMEYAさんは「サメ肉」の「加工品化」へと挑戦のフィールドを移す。どんなものが出来上がるかはお楽しみ...!
「今日の夕食のメインはサメ肉」なんて日がくるのももうすぐかもしれない。
サメ肉は、骨もないし身も柔らかくてジューシーなので、介護食に良いかもと思ったり。無限の可能性を秘めているSAMEYAを今後とも応援していきたい。
◾️SAMEYAさんのSNSを紹介!
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