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vol.54 永井荷風「雨瀟瀟」(あめしょうしょう)を読んで

孤高の生活の中で、雨と病と漢詩を織り交ぜながらつづった文章に、江戸の情緒を愛した荷風の心持ちがよく伝わった。

小説とも随筆ともつかない作品だった。男が妾を持つということの悲哀などをつづりながらも、しとしとと降り続く秋雨に、情緒のある文化をも流してしまう寂寥の念が浮かんで、憂鬱になっている荷風を感じた。

また、病に悩まされながら、昔の友からの手紙などを読み返し、最近は江戸風の情緒もなくなったものだと、独り気高く呼吸する荷風を思い浮かべた。

この「雨瀟瀟」は、荷風42歳、1921年に「新小説」に発表されたもの。「瀟瀟」(しょうしょう)を引いてみた。辞書に「風雨の激しいさま」という意味であると記されていた。しかし荷風は「二日二晩しとしとと降りつづけた揚句三日目になってもなお晴れやらぬ」と描写している。やはり、この長く降り続く彼岸ごろの小雨の風景が、荷風の粋な文章には似合うと思った。

あらすじの代わりに文章を抜粋する。

「これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない代わりまたさして悲しい事も起こるまい。秋の日のどんよりと曇って風もなく雨にもならず暮れて行くようにわたしの一生は終わって行くのであろうというような事をいわれもなく感じたまでの事である。」「十年前新妻の愚鈍に呆れてこれを去り七年前には妾の呑気深きに辟易して手を切ってからこの方わたしは今に独りで暮らしている」「詩興沸き起これば孤独も生涯の更に寂寥ではない。」

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(写真:浅草ロック座でストリッパーと楽しげに談笑する永井荷風さん 1952年)

この「雨瀟瀟」で「これから先わたしの身にはもうさして面白いこともない・・・」と書いた30年後、楽しげにストリーッパーと談笑する荷風さんが好きだ。

僕にも来るだろうか、「葡萄酒と缶詰を買って一人楽しむ」という境遇が。その時はそれを楽しみたい。

おわり

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