1970年代のテレビ番組考
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ビデオが登場する以前、子供にとってのテレビは、時計以上に時間を強く意識させる機械でした。
毎週決まった時間に決まった番組を見せてくれる魔法の箱。
一定の周期でくり返される強い時間性がそこにはあったのです。
一方、テレビに映し出されるヒーローマンガがつむぎだしていたのは、単純にまわるだけの時間ではなく、最終回に向かってすすむらせん形の時間でした。
そうした番組に対する思い入れが、意識に特定の方向性を与えた可能性は小さくありません。
それに気づくきっかけになったのは一冊の本。
マテイ・カリネスク氏の『モダンの五つの顔』という専門書にふれた時でした。
ヨーロッパの文学的モダンを精査したその本はいささか難解であり、一読しただけではピンとこないイメージがいくつもありました。
それでも随分とおもしろく読みすすめられたのですが、段々と自分の思い描いているイメージが、本に書かれている内容とは似て非なるものだと気づき始めたのです。
何か別のたとえをあてはめて考えている……と。
モダンという感覚は、キリスト教によってしか生まれ得なかったと言われており、それ故極めてヨーロッパ的なものとされています。
わたし(たち)はキリスト教徒ではなく、ヨーロッパ人でもありませんから、そのものズバリがわからなくても仕方はありません。
しかし、では逆に何故それほど似たようなイメージを想起できたのか?
その代替イメージとは何だったのか?
そうして思い当たったのが、幼少の頃見たテレビ番組であり、テレビを見るという行為自体の習慣性でした。
つまり、それらがあまりにも「モダン」だったのです。
テレビの影響を一般化して論じることは容易ではありません。
しかし、制作サイドの人間が自分たちの作ったものに影響力がないと言ってしまうのは寂しいことです。
それは多くの場合、暴力的であるとか性的であるといった攻撃をかわすための免責的な言い訳ですが、自分が作ったものを無闇に軽んじるのは感心しません。わたし自身はテレビ番組の影響をしっかりと受けましたし、それには良い面も悪い面もあったと考えています。
ただし、同世代の人々が同じ影響を受けたと言い切ることはできません。
その意味では、本稿(今後、投稿していく『モダンの5つの仮面』シリーズ)のすべては仮説と言えますし、個人的な回想録に過ぎない可能性もあります。
それでもなお、大学時代のひとつの記憶が、考えたことを世に問う気持ちをあと押ししてくれました。
それは、授業中に始まったらくがきの応酬。
多くの友人が、それぞれに大好きだったマンガのキャラクターを描きあった、愉快な思い出です。
1970年代の日本を生きた方には、本稿のすべてではないにせよ、いくつかの部分に大きくうなずいてもらえると思っています。
そして、ご自身の感覚がどんなものであるかを考え、新しい時代にあわせて意識をアップデートする、きっかけにしてもらえれば幸いです。
【音声版】
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