コメント返し3

割引あり


教師による言語化の意義

まず前々回のコメント返し会に対するコメント返しです。ムータロさん、コメントありがとうございました。家庭学習交流会での子どもたち同士の星とコメントの交流についてですが、『なんでここに星とコメントがついているの?』という子供に対して、『あなたが自然とできている工夫を言葉にしてくれたんだよ』という声かけをしていきたいと思います。

これは最初のワーママ先生の話にも関わっていると感じたのですが、子どもたちのけテぶれも教師の指導も、技術や工夫を言語化して具体化することで共通言語になり、共通アイテムになるんだなと思います。

まさにその通りですね。発掘評価というやつですね。子供たちの無意識の行動を解釈して言葉にするということです。これは最近私が作って、ホームランなどで喜んでいたはずですね。知るがあって、その後納得の壁があって、やってみるでできるの壁があって、説明するでわかるの壁があって、作る・使うというそういう図を作ったわけですけれども。

ここでもつまり、やってみるの次が説明なんです。説明というのはつまり言葉にするということで、言葉にするということは考えるということなんですよね。そのやってみる・考えるを繰り返すことが私の主張の基本的なところにあるわけですけれども、その考える部分というのはやはり言葉にするということなんです。

考える=言葉にする

意識的に考えるというのは、言葉にして世界を切り刻んでブロック型にして、それらを組み合わせたり組み替えたりすることが、つまりは考えるということであります。言葉というものは思考と非常に密接に関わっている範疇にありまして、それを出してくるというか、無意識にやっている、まあやってみるという行動・行為の中にはかなり無意識の中で自動的に駆動しているものが多いんです。

それらを振り返って言葉によって整理整頓することによって再現性を高めていく、スキルとして固めていく、そういう方向になっていくわけですね。これが言語化するということで、けテぶれも結局、子どもたちがこうやってるんじゃないの?というのを言語化したらけテぶれになりました。そしてそれらが共有されると、それを合言葉にみんながそれに向かって進むことができる、使うことができるという感じです。

これはもうあらゆる概念がこういうことを必要とする、こういう処理が有効であるということなんです。指導技術もそうですし、職人的な先生がいるじゃないですか?でその先生に「どうやってやってるんですか?」って聞いても「いや、なんとなく。感覚だよ」みたいなことを言う先生がいるでしょう?それってやってみる・できるの段階で止まってるという話なんです。

ここがあまりにも感覚的で膨大で、言語化をする気が起こらないという可能性もあるかもしれませんけれども、それをしないとやはり他者への伝達は難しいですよね。同僚で働いていても、謎の先生はクラスが落ち着いていたり子供たちから好かれるけれども、理由が分からないわけです。それは分からないということは言語になっていないという話です。言語で整理整頓すればその辺が分かってくるということです。

それは先生、職人の先生で今例えましたけれども、じゃあ子供たちに置き換えた時に、子供たちはやってみるということを毎日繰り返すことがメインになるわけですね、その学級・学校生活での。そこで自分も週一回とか大分析の一回とかで振り返って、それらを言葉により整理整頓する。それを求めるわけです。

あなたが無意識でもやっているやってみるというところの中から、うまくいったこととか、もしくはうまくいかないからここは注意すべきだとか、そういう言語を切り出して整理整頓し、あなたのやってみるという制度をどんどん高めていきましょうね、みたいな指導をする時に、これだけ言うのか。その上でこういうことをあなたにやってほしいという前提の上で、先生がそれを見た時に「先生としてはこういう言語をあなたの活動・行動に対して表現したいと思うよ」という言語の提示、提案ですよね。先生はこういうふうに切り取ったよという話です。

こういうふうに見えるよとか、そういう言語を子どもたちに与える、提案する、示すことで子どもたちの思考、考えるということが言葉を得られるわけです。そしてそれを構造的に示すことによって子どもたちは分かりやすくなるという話です。

けテぶれは「やってみる」の見方考え方

それがけテぶれもそういうふうに作用するわけです。なんとなくやってみた、やっているところにけテぶれという言葉が提示されるわけです。そしたら無意識にもしくは我武者羅にやってきたその行為が、計画・テスト・分析・練習という四つの枠組みによって見えるようになるわけです。

見えて、それらをサイクルであり、順番性があってということであると、その順番というか四分割された自分の頑張っている努力学習という行為を四分割し、その四分割の中に含まれている言語って何だろうな、計画何したっけ?テスト何したっけな?みたいな感じで分析的な思考が進んでいくという、その足掛かりという感じですね。

どういう例えがいいかな?例えばスイカでかい、かぼちゃにしようか。でっかいかぼちゃ丸ごと一個トンと渡されて「じゃあこれを料理してください」って言われても歯が立たないかもしれませんよね。よりは、まあ四つぐらいにガバッと切ってあげて「ここから料理しましょう」の方が料理しやすいじゃないですか。

魚一匹渡されて「じゃあこれを調理してください」と言われるよりも、下処理ですよね。三枚に下ろして、頭と背骨、尾びれは切って、ヒレは取ってみたいな形の魚として渡された方が捌きやすいわけでしょ?そういうことを学習ということを言葉によって整理整頓し、裁くことを子供たちが求めるからには、そういうことをやってあげたらいいし。

さっき言葉がけということで言うと、さらにですよね。この四分割だけじゃやっぱりまだ荒いわけでしょ。裁こうとする子どもたちに対して「先生だったらこういうふうに切るよ」とか「こうやって切ったらめっちゃ綺麗に切れるよ」みたいなことを提示していくというのが、この辺かなと思います。

学校の仕組みをハックする

続きまして、七ですねに対するコメント返しですけれども。ここはコメント欄が盛り上がっておりますね。いいですね。まずフレデリックさんからですね。通信を出さなければ、出すとなるとこう今の職場では学年主任と管理職に回さなければいけず、すぐに帰ってくるわけでもないので、毎年出すのを諦めてしまっています。これはめんどくさいですね。こういう経験はないなぁ。

その代わり毎日のけテぶれノートの中からいくつかピックアップして子供たちの前で「今日のグッドけテぶれ」。でも本当は保護者にも内容を理解してほしいので、今年度は諦めずに通信を出してみたいと思いますということで。いやーそうですね。これ、チェックがいっぱい入ってくるというのは、まあ逆手に取ると、結構取り組みを知っていただく機会にはなりますね。もう強制的に読ませることができるということではあるかな?

それに対して忍者さんです。「横から失礼します。私の職場も保護者向けの発信は起案してから出すということになっています。フレデリックさんと同じように諦めていましたが、ふと授業で使うプリントは起案しないということに気づき、なるほど、それと同じ位置づけにすればいいと考え、学び方をするためのプリントとこじつけて発行しています」。いいですね、こういうのほんといいですよね。

どんどんやっていきましょう。「子どもたちは見る、学ぶ、真似る(まねぶ)ために参考となるようなみんなの取り組みを紹介する」と言っています。通信にすることの強みを実感しています。環境が似ているのでコメントしてしまいました。

なるほどね。じゃあいいアイデアとして、フレデリックさん、そうですね。授業用のプリントだったらいいもんね、という授業用のプリントですけど何か、みたいな感じでも出していくって感じですね。

忍者さん同様、つい反応してしまいました。ということで忍者さんに対しても「私も通信を起案しなくてはならず、ロスタイムのもどかしさです。保護者に絶対に伝えたかったので通信をキャンバスで制作して家庭で見られるようにQRコードを貼り付け、そこにノートの写真を追加しています」。ショートグレーかもしれませんが、ということで。

いやいやね、もうこういうことですよ。本当にね、もう抜け道抜け道見つけて。紙色とかシステムが決まってるからこう、というだけの話ですからね。だからそんなに問題ないと思いますよね。

またTeamsで子供たちがノートを見れるように、ノートの写真をアップしておいてもいいかなと思っています。フレデリックさんのコメントにお邪魔しました。かなり話が盛り上がりましたね。その宿題自由にするしないの話、通信の話ですね。

この二つは、通信に関してはちょっとシステムの話なので、皆さんそれぞれに抜け道を。私だったらそれかな?授業で使うプリントですか?でもう全部出しちゃうということかな?

自由提出の落とし穴と扱い方

年度最初から提出頻度を自由にしたら全然出さない状況になって焦りました。その後ルールをまっさらな状態に戻して毎日提出に戻るのは結構大変でしたということで。これは本当に要注意ですよね。ここ、安易に解放してしまうとマジでやらなくなるんですよね。

だからね、その子供たちの「やりたさ」を大事にみたいな話だけすると、普通にそうなるんでしょ?いいことやりたくないから。人間はそのしんどいことをやりたくないし、意味のないしんどいことに子どもたちを巻き込むのも違うという、このバランスですよね。この中で確実にしんどいけれども力になる、さらにその先を見た時に、楽しい、楽ではないが楽しい世界がそこに広がっているということを確信し、そこに連れて行こうとするというのが教師であると考えた場合に。

この辺の、本当に大仏ゾーンみたいなことを書いてある。あれはね、本当にまあちょっと表現としてもマイルドっちゃマイルドだけれども、ああいうキャッチーな表現でやっちゃうと取り入れちゃいますよね。要注意なんですよ。そういうことはもうちょっと宿題革命の中で深く話しても良さそうな範囲ですね。ありがとうございます。

提出の自由度に関しては真面目に注意という話ですね。ずっと頭に引っかかっていてやってなかった、やらずに終わっちゃったのが何かというと、学習力のその星のポイントがあるじゃないですか。あれをまあ言うたら学習力と紐づくような位置づけであれ出してるでしょ。

ここは微妙、ちょっと私も要素として、位置づけとして、取り組みとして、解釈としてという微妙さがあるから発動しなかったんだけれども。何かというと、○○ポイント以上を貯められた子は例えば大仏ゾーンが解放されますとかいうやつですね。

ここまでシステム化するとちょっとめんどくさいし、しかも結局その「やらなくていい」みたいな選択がご褒美的に発動してしまうので、それをそういう意識を強めるような取り組みとしても作用してしまいそうな気がして結局やらなかったんですけれども。根拠としては妥当というか。学習力が高いイコール、そのやる・やらないの範囲に関しても自分の学習をコントロールできるという証明ではあるかなという解釈も一旦筋は通るかなとも思いますので、もしやるんだとしたらその辺かな?とか。

まあそこまでシステム化しなくても、その毎日提出は求めないけど、でもやるのが基本だよね、みたいな。だって○○だからっていう、その根拠がちゃんと示せたらそういう形にしてもいいだろうし。この辺で難しいですね。

一旦私が今現場に戻るんだったら毎日提出にします。それを基準に考えます。過去二年間ぐらいはそれやめてたんですよ。毎日で必要基本っていうのでちょっと外してたんですけれども、やっぱりね学びの深まりというか、その起爆具合、爆発具合は毎日提出・基本提出の方が明らかに高いです。これはもう間違いなくいえますね。

そこまで緩めてしまうとかなり緩くなるんですが、学びとしてもその辺ちょっと要注意というか。チューニングしながら確実にその毎日やるという縛りの中で子供たちを伸ばしていくということはかなりできる気はしますね。やっぱりね毎日やるという意識は消さない方が結局いいんじゃないかなというのが今のところの答えですね。

とはいっても毎日やらないことを否定しないというか。ここもその両輪感がありますね。どちらのあり方も認めつつ、比重というか重心というか、基準ラインというか、最低限の明示というかに関しては、やるを基本においてもいいんじゃないかなと思っております。

次が上田さんです。「去年大仏ゾーンなどの提出の仕方をやってみたのですが、全然その効果を上げられず今年はやめました」。いやそうなんですよね、この辺は結果的にそうなるというのは意外じゃないかなと思いますね。

学習感が育ってからやるものなんだなぁと当時も反省したんですが、一年経って改めて反省しました。また今年は算数で単元別自由診断を進めようとやってみた時があったのですが、こちらの見取りもうまく、子どもたちのけテぶれの方もまだ甘い状態でやってしまったのでテストが散々に終わったことがありました。子どもたちには申し訳ない気持ちです。現在は一斉指導からのけテぶれタイムとして取り組ませて定着を図っています。

家庭との共通言語

いやーそうですね。もうこの辺のチューニングは本当に子どもたちの様子や、ムータロさんも言われていますが、見取りとか30人に対する個別指導のあり方、まあ結構いろんな要素が絡んできますので、本当にスモールステップで始められたらいいかなと思います。

サポートが必要な子供が多く、なかなか学びの方も定着させられていない部分もありますが、保護者への理解を得られて、家庭学習でけテぶれの手本に沿った学習をマンツーマンで教えていますという保護者の声をいただくこともありました。ありがたいなと思いつつ、授業で見取りきれていない部分を改善したいなというふうに思いました。

いやー、家庭の方とそうですね、共通言語的な性質をうまく作用すると家庭ともこうやって繋がることができるというのは、強みとしてはありますよね。

最近もうこんな二学期の懇談期間ですよね。もう終わったか、まあ本社のこの学期ですよね。一学期は結構こう会議的な保護者とかもやっぱり毎年いますからね。二学期末ぐらいまで見といてあげてくださいみたいな感じで言って。二学期になって、この時期ですね、「先生すごいですね」みたいな話になったら、まあ大成功って感じですよね。

学校じゃなくておうちでも共通言語になっています、合言葉になっていますとかいう話は、まあちょいちょい聞かせていただいて嬉しいなと思うわけです。で特にそのスポーツやってる子とか、もしくは兄弟で負けず嫌いが発動してしまってすごいトラブルになっちゃうとかいう子たちが、やっぱり負けるとか失敗するなどの解像度が豊かになっていきますので、その辺ですごく助かっているというお声はよくいただくかなと思います。

宿題交流会

次、八ですね。直近の宿題交流会の話をした回に対するコメント返しです。まず忍者さんです。「宿題交流会は必須だとわかっていても時間が取れないことなどを言い訳にやっていませんでした」。これはそうですよね。

この放送を聞いて宿題交流会の重要性に気づかされたので、金曜日の帰りの会で、「月曜日宿題交流会やるよ」と伝えると、「宿題絶対やらないといけないじゃん」「やめっちゃ楽しそう」「俺算数でやってくる」など意気揚々でした。そうなんだ、面白いですね。いいですね。私自身ドキドキですが、学期通信50号を出していて位置付けをしてきたので、交流会の前に語りを入れて月曜やってみます。今日やってみられたのかな?どうでしたかね。ぜひ盛り上がってたらいいですね。

タイミングとしてはこうやってバーンと入れるのもいいでしょうし、今日のタイミングとかは本当に学期のその総復習、総まとめというか、総計算というかいう形・位置づけでやってもいいかなと思いますし。あと、おすすめのタイミングは大テストとかの後ですね。大テスト・大分析が終わった後というのは、その辺は結果が出た・出ないが結構はっきりするじゃないですか。

となると大分析もそうやって自分の結果を見つめて振り返るんだけれども、そこで結果が出た他者、しかもそれで百点以上が解放されている場合は、めちゃくちゃ点数が高い子たちも共有の中に見えるってなったら、百点以上の子からその学び方のコツを伝授してもらおうみたいな感じで。百点以上だったらここは教える側に回ってくださいと。百点以上に行かなかった子達は、そういう子たちの机もしくはそういう子たちの教室の端っこ周りにこう立ってもらって、ノートのブースを作って、ポスター発表的にいろんなところを回りながらパクリ・盗みたい技術を見ていくみたいな感じでやるのも面白いと思います。

そうなると聞きに行く根拠というかがありますよね。発表する子たちも、科目で、普段おとなしくてそういうことを言うのはちょっと自信がないみたいな子たちも、やっぱり成果を背景に話すと話せますよね。もう明らかに結果が出ているという状況でそれを後ろ盾に話すと結構話せたりするっていうのもありますしね。

ということで大分析明けとか、もしくはその星のポイントでやってるんだったら獲得ポイントが高い順みたいな感じでやったりとか。その交流会も、全員で見合ってノートの交流するっていうこともあり得ますし、意図的に「こういう人たちを今日は教える側として頑張ってもらいます」みたいな感じで、「誰々さんから学ぼう」みたいなことで指定してやっていくというのもまた面白いかなと思いますね。

となると月末だったら学習力の星のポイントが集計された時ですね。もしくは学力だったら大体その点数が出た時とかいうところでやっていくのはいいんじゃないかなと思います。あとは、まね指定制度みたいな感じで神戸の井上先生などがやられていましたが、自分の師匠を誰か一人見つけて、ただ自分は師匠であり弟子であるというこの両方です。だから師匠になる時と弟子になる時と両方作りましょうみたいな感じで。

これはけテぶれ実践ガイドブックの方で詳しく説明されてたりもしますので、その辺を参考にやっていただけたらいいんじゃないかなという風に思います。

はい、次フレデリックさんです。吹き出しのありとなしの通信を使い分けるのは面白そうですね。穴埋めってやつですよね。自分でコメントを書いてみるというのは結構練習になっていいなと思いますので、ぜひぜひおすすめです。

各班でのけテぶれ交流会を経て提出してもらうのもいいな。計画を書いているので朝の時間の宿題交流会もどこかに仕込みたいなと思いました。いや、そうですよね。生活けテぶれと宿題でのけテぶれというものが微妙に時間が取れない、どっちにフォーカス・軸足を置くかによってマネジメントが難しかったりするなってなんとなくやりながら思っておりましたので、ぜひ上手なバランスの取り方を見つけられたらどこかで発信していただけたらと思います。

続きましてザッキーさんです。ちょっと珍しいかな、ザッキーさんでありがとうございます。「子供たちのけテぶれを加速するために宿題交流会やりたかったのですが、どこで開催すると良いか模索中でした。朝の時間に行うと聞いてそれだと思いました。早速三学期の目玉の一つとして導入していこうと思います」。いや、そうですね。もう本当にホームルームみたいな感じで普通に仲良くもなっていきますので、学級経営上もいいかなという風に思います。

主体性の評価について

で話は変わりますが、「主体的を評価しようとした時に、できる段階はクリアしていて一生懸命取り組んでいるが、説明する、作るに行っていない、自己調整ができていない子に対して、教師が働きかけて調整をかけたところ学びを深めていけたというのはBなのかAなのか、考えを知りたいです」という話です。

ちょっとうまく、話できる段階をクリアしていって一生懸命取り組んでいるが、説明する、作るに行っていない、自己調整ができていない子に対してというここですよね。ここがちょっと微妙に違和感があるというか。一生懸命取り組んでいるんだけれども説明する、作るに行っていないというのを自己調整ができていないということは、つまりその子は一生懸命やっていてできる段階もクリアしている、そこで満足しちゃってるってことかな。でその後その先に進めていないような状況ってことかな。本当は進めればいいのにもうできるところであぐらをかいてしまってという話ですかね。はい、だとした場合にという風に考えて答えていきます。

まずその学びに向かう力というものをどう定義していくかという話なんですけれども、粘り強さと学習の調整というふうに言われているんですが、もうちょっと子どもたち目線というか、授業のあり方・学びのあり方を見た時に、私なりには何て言おうかなと思うと、現在位置から一歩ですよね。今の状態から一歩踏み出そうとする力を「あなたは持っていますか?持っていませんか?」というここで、その学びに向かう力というものを見たいなというふうに思うわけです。

だからそれが、つまりは現在地から一歩踏み出すためには粘り強くならなきゃいけないし、学習の調整、その学習の調整もその何を調整するかですよね。私としてはその学び方のところですよね。やすみか、再起するかとか、一人でやるか、みんなでやるかとか、窓際でやるかみたいな、そういう学び方の面での調整というのが結構大きいんじゃないかなというふうに思っております。

でそれも何もかも、あなたの現在位置からの一歩ですねということを踏み出そうとするエネルギー・姿勢・態度というものが出てたらA、それが出てないんだったらB。もうこのラインですね。

見ていくとですよ、この子、ありがちな次の放送でやるそのタイプ別指導にかなり関わる内容ですけれども、できるで満足している。つまりそこで、できるに対して非常に頑張ってできないからできるに至った、というここが学習力が。昨日大分析のその矢印の話ですよ。その現在地、単元の最初の位置から結果的な位置まで自分の力で進むことができたというその矢印が長いのであれば、まあまだ向かう力はいいよ、あるよということでいいと思います。けれども、もう最初からできる子ができるというところをただただ証明し続けて、説明・できるに行こうとしないということです。そういった時に、それは学びに向かう力としてはちょっと微妙だよねという判断基準かなと思います。

で、感覚的にというか概念的な説明としてはそれなんですけれども、じゃあそれを評価する、丸の一を右か左かにするということで言えば、根拠としては持っておきたいわけですよ。なんで二重丸なの?なんで丸なの?なんでよくできるの?なんでできるなの?なんでもう少しなの?という、この三段階に対する評価の根拠ですよね。

やっぱり確実に持っておきたいところでありまして、でそれを「いやこの子はね」って言って口頭で説明するということは最低限ありなんだけれども、それじゃあちょっと薄いなというふうに思ってるんですね。でそのためにけテぶれシートがあり、星の評価があり、子供たちのポイントシートがあるという、こういう位置づけなんですよ。

指導と評価は一体に

だからその意味で毎日形成的評価として評価するのに、指導しなきゃいけない。評価するなら総括的評価だけじゃなくて形成的評価が子どもたちに帰っていかないと、その指導としての評価ということは駆動しないわけでしょ。指導していない、指導としての評価もないのに、先生がなんとなくそういう子どもたちの姿を見ていて勝手にAとかBとかつけているという状況は避けたいわけですよね。

まあだから定義としてはそういうことですね。現在地から一歩出そうとする力であり、そうしようとする態度のことを指している。学びに向かうですからね。学ぶということはつまりはストレッチゾーンですよね。コンフォートゾーンではなく、ストレッチゾーンですね。

学ぶと壊す、自己破壊ということも言うわけですし、つまりはそのしんどいところへの、今までの自分と違う自分になろうとする、壊そうとする今の自分というような向きなんですよね。学びというのは結構恐ろしいことなんですよ、しんどいことなんですよねということころに対して、ちゃんと自分の心と体を向かわせようとするような態度や力というものがあなたの中にありますか?ということを先生は見てるよってことです。

そしてそういうことをけテぶれシートにはそのプラス・マイナス・矢印・ビックリ・星という枠組みで捕まえているはずです。そういうことで学び・学習力のマトリクスだとか、まあいろんな手立てを使って、それでどうやるの?というところをもうちょっと具体的に子どもたちに指導しながら、結局もそういうことを発動させるための手段として提示するわけです。

でその中でその記述に対して私は補修を出して、その星がシートに蓄積されておりという、その辺ぐらいまではその指導の根拠としては持っておきたいところですね。それらを根拠にやっていくということにはなるんじゃないかなあと。

はい、ということでいかがだったでしょうか?ちょっとコメント返しもね、なかなか皆さん忙しいですからね。週末全部待とうと思うと月曜日ずれ込んでしまいますね。はい、またけテぶれ出しで今から出そうと思います。

で明日は大衆集ということでけテぶれ宿題革命のも総解説も最終ですね。三章の残りと四章についてお話をさせていただきたいと思いますので、お楽しみにしてください。それではまた次の放送でお会いしましょう。バイバイ。

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