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UXの最終形態は“何もしない”こと?過剰なデザインがかえって体験を損なう理由
「データ分析×人×ビジネス」の軸で記事を書いています。
少し懐疑的な見方かもしれませんが、ここのところ、よくいわれる「UX」というのはどうでしょうか。UXとは「ユーザーエクスペリエンス」、日本語でいえば「顧客体験」のことなのですが、端的にいえば「最高に気持ちよくなって買ってもらう」みたいな話です。
一瞬、話が逸れるのですが似たような話として、同じことを言っているのに表現だけ少し変えて、それを新しいビジネス(お金儲け)のネタにすることをあまり推奨したくありません。私の専門領域であるデータ分析についても、データマイニング→ビッグデータ→機械学習→生成系AIといった感じで「根っこの部分は変わらないのに、あたかも新しい概念と認識させ、それをサービス化する」例が後を絶ちません。これ自体はそこまで批判できることではないのですが、どうにも余計なことばかりお金をかけてやってしまうというのが心配になっているところです。
それで話をUX(ユーザーエクスペリエンス、顧客体験)のことに戻すと、UX向上のための様々なフレームワークが出てきています。フレームワークというのは「大まか平均的にいうと、ユーザーはこういう行動をして購入に至りますよ」というのを概念化(≒モデル化)したもののことです。基本的にはこういったフレームワークに当てはめて考えると、平均的に大外れせずマーケティングやセールスの活動がうまくいくと信じられているものです。
今日はこのモデル化という話についてではなく、結局のところ「あれやこれやと説明を継ぎ足した結果、本当に大切なシンプルなことを忘れてないか」ということを書きたいと思っています。
シンプルだけど難しいこと、でも大切なこと
これというのは「挨拶」ではないでしょうか(もちろん一例としてです)。お客様が来たときに、自然に「いらっしゃいませ」といえるかどうか。それも形式的という感じではなく、本当に”さわやか" で "ほがらかな"印象を与えるような挨拶です。ここでいう自然体というのは型を一通りこなして、そこから自分らしさという領域にまで至ったという意味です(守破離でいう離の状態に似ているかもしれません)。
サービス業界の中でも、これができている人というのはそれほど多くないという気がします。しかも、こういう人は(もちろん毎回ではないが)単なる挨拶にプラスアルファした、簡単な会話を展開してくれます。例えばホテルなんかで「いらっしゃいませ。お荷物大変でしたね、重くなかったですか?」と言える人も立派ですが、すごい人は「駅から歩いてこられたのですか、そうまでして来てくれてありがとうございます。どうぞこちらでゆっくり休んでください。」といって、チェックインの段取りをして、準備ができたら呼んでくれます。実際にやっている人もいますし、何がそんなに?と思うかもしれません。ただ、こういう「ちょっとした気遣い・配慮」っていうのが顧客体験なのではないでしょうか。
昔、近所のちょっとした雑貨屋みたいなところがありました。現代の食品スーパーの超個人店バージョンみたいなお店です。そこで「たくわん」を買いに行ったところ品切れで、自分のとこで漬けていた「たくわん」をゆずってくれたことがあります。これが当たり前になってはいけないと思うのですが、大げさに言えば「困っている人がいて、そこに対して自分ができることはやってあげたい」というシンプルな気持ちでしょう。こう思うことができても、サラッと当たり前にできる人間力がすごい。
大概、私たち消費者が「いいね!」となる顧客体験って、こういう人間力からくるシンプルな振る舞いだと思うのです。モデル化されたユーザーの感情や行動のフローから、ここぞというポイントを仮説立て、そこに対して施策を打つなんてことではないと思うのですね。
※そういうやり方を否定するものではありません。そういうやり方はむしろ推奨しており、そこだけに「偏るのがダメ」という話です。
余計な気づかいが、さらなる不満を呼ぶ
前述したように顧客体験の基本というのは、対峙する相手に対しての気遣いみたいなものから「にじみ出る」ものです。だから、あまりにも当たり前すぎて難しいのですが「自分が使う側になって考える」というのをやるしかないのです。
ところが、例えばwebサイトの導線(ユーザーがどのようにページをみて購入するか)を色んな方法論を駆使して設計した結果、逆に使いづらくないか?というケースは比較的に頻繁に出くわします。
もっと掲載されている情報もデザインもシンプルでよいのに、、、やたらと情報盛りだくさん(おそらくユーザーがどういうモチベーションで流入して、どのような確認行動が多いかのフローに基づいて情報配置しているのでしょう)で、結果として情報が”ぼやける”みたいな体験は誰にでもあるのではないでしょうか。
一方で、本当に使い勝手がいいアプリやwebサイトというのは、ものすごく「余計なものがそぎ落とされている」と感じるのです。とにかくシンプルであるという一言に尽きます。
モデル化という操作の落とし穴として、考えれば考えた分だけ「自分のこだわり」が明確になり、それを誇示したくなるという傾向があります。実は考えるほど、周りは気にしていなかったりするわけです。だから多くのマーケッターなどが気にすべきは「じっくりと考える」→「そのうえでシンプルにする=情報を削ぐ」ということなのです。そしてこれをするには自分が消費者側の立場で一度やってみる、ということです。
なぜ「自分事」として捉えるのは難しいのか
非常に素朴な疑問です。実のところこれほど基本的かつシンプルなものはないでしょう。「自分事として考えたらどうか?」ということです。言い換えれば、これは「まず自分で体験してみる」ということなのですが、なぜかこれが難しい。
一側面的な考え方かもしれませんが、私が思うに実のところ自分には関係ないからだと思うのです。ある商品が企画され、それが販売されるまでに色々な検討が行われます。現在では企画や販売計画の定石的な「表現スタイル」というのは出来上がっていて、大体どういうロジックで攻めるかはある程度決まっています。それもあると思いますが、最後の最後で「じゃ、君は買うの?」といわれると・・・
もっといえば「企画に載っているターゲット像にマッチする人を一人でも実際に見たことがあるのか?」ということが抜け落ちていたりするのです。
ビジネスロジックは立派だが、基本的なところがない。こういう商品や機能改善ってあちらこちらで見ることができます。
そうなってしまうのは、企画をするのが仕事になっていたり、事業を軌道に乗せるのが仕事になっているからです。本来は逆で、自分が日常生活の中で自分が「あれ?」とか、他人のふとした行動から「ん?」と気づくことからはじまります。その疑問から「こうしたらもっといいんじゃないか?」という仮説がうまれ、それに基づいて調査した結果「どうも自分が考えていることは確からしそうだぞ」という決意にかわり、商品をつくって売っていくのです。
だから企画職なんてものが下手に存在するとややこしいな、なんて思ってしまいます。
本来はそういう仕事が決まって存在しているわけではなく、自分が気づき、やった方がいいと思うことがあるから「企画というのが自分の仕事になる」だけのはずです。
自分の「気づき」から「熱意」になって、「誰かのために」となるのが良質な顧客体験を生み出す
先にお伝えしておくと誰かのためにというのは、当然ながら自分自身も含まれます。だから「誰のためにそんな頑張ってるの?」と聞かれたときに、必ず(少なくともn=1以上の)誰か固有名詞的な人をあげられるはずなのです。逆にそれをいえない人はいかに立派なUXだとか言っても、形だけのものでしかありません。せいぜい、余計な情報てんこ盛りの状態をつくってしまうのが関の山でしょう。
こうして考えるとビジネスロジックは重要なのですが、最後の最後で人が人に投資をするというのは「信頼」です。この信頼というのはロジックも前提としてありながら「最悪、投資がリターンゼロでもこの人のためなら仕方ないか」という感情面で成り立つ部分があると思います。感情だけで判断するのはナンセンスです、当然。
いってみれば「熱意」が人を動かすということです。それが同僚であれ、上司であれ、投資家であれ、消費者であってもです。
だから様々な「うまくやるための定石」を知って、実績をつくってきた人こそ「自分だったらどうか」という原点に戻るようなことを忘れてはいけませんね。知識を蓄えていくことは欠かせないことですが、実利を伴わせるためには、やっぱりそこに人間力がついていないといけない。これを鍛えるためにも日頃から自分の感性を磨かなければなりませんし、それに従う練習もしなくてはなりません。