「異邦人たちの慰め」(The Confort of Strangers)イアン・マキューアン 著 宮脇孝雄 訳 早川書房
作者初期の作品。ベネチアと見られる都市に訪れているカップルの物語。猟奇殺人。
もし、脚本のあらすじとして説明してしまうと「巻き込まれ型」のシンプルなストーリーですが、そんな事を言ったら元も子もないです、、
この都市に旅行に来たカップル、コリン(美しい、らしい男性)とメアリ(バツイチ。旦那の元に子供もいる)、二人は結婚していないし、作品に描かれている限りでは、あまり現実的な事を考えたりもしない。よく道に迷うが、本気でその事を解決しようとはしていない。
(この辺は、個人的に共感。)
もう片方の主要人物。ロベルト(生い立ちに父親のトラウマがある。親の遺産を相続しbarを経営している)と、その妻、キャサリン。
旅をしているコリンとメアリ、二人それぞれの目線を通した描写の街は目に浮かんで来るようでしたが、それは、主人公たちの心情には影響せず、現実としてそこにあるように書かれているように感じました。
ストーリーは想像の通りですが、気になったのは、タイトルにある「stranger」です。旅行に来たコリンとメアリだけでなく、ロベルトとキャサリンもstrangerです。
どちらにとってconfortなのか?
ふと、頭をよぎったのはカミュの「異邦人(L'Étranger)」
殺した理由を聞かれ、太陽がまぶしかった、とかで、紹介されているやつです。
(母の死に感情を示さなかったのが元で、巻き込まれたトラプルで相手を射殺した件で、糾弾され、死刑を宣告される話。)
周りに説明するのはもう面倒くさいから勝手に解釈してくれていい、というスタンスで、作者が、自分のconfortに落ち着く様をデフォルメし、人物に投影して描いているのでは、と、勝手に想像しました。
作品の男性目線は、デフォルメされた部分を抜きにすれば分からなくもなかったのですが、メアリやキャサリンの感情が、どこまでリアリティに迫っていたのかは分かりません。
《小説はあくまでも人間関係の物語》ならば、作者の洞察力が読者のレベルに緊迫していなければならないのかと考えさせられました。
私個人は、すぐに信じてしまうタイプなので、作家からするといいお客さんかも知れません。読み手として値しないのかも知れません。