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秋の夜長の一冊(イアン・マキューアン「イノセント」 宮脇孝雄 訳 早川書房)

(面白い小説なので、読んでみて下さい。)

一九九〇年発表の、イギリス人作家 イアン・マキューアンの作品。

舞台は第二次世界大戦後、東西の冷戦が始まろうとしていた頃のベルリン。そこにイギリス逓信省の職員として派遣されてきた主人公レナード。本国では両親と暮らし、まだ女性も知らない。用意されたアパート到着後、荷物を片付けるとまず親宛に手紙を書くような青年。

ヨーロッパ終戦のとき、レナードは十四歳だった。それぐらいの歳になると、戦闘機や軍艦、戦車、銃器などの名前を憶えたり、その性能を暗記したりで、頭の中が一杯になっていても不思議はない。(略)若いイギリス人が初めてドイツに来たのだから、そこが敗戦国であることを意識しないでいるのは無理だった。それに、勝ったことを自慢したい気持ちもあった。(略)
  目に入る範囲でいえば、復旧作業は執拗に進んでいるらしい。舗道は新しく敷き直され、発育不全のプラタナスの若木は根こそぎにされている。瓦礫はほとんど片づいていた。地面は平らにらされ、古いレンガはモルタルをきれいに削ぎ取り、きちんと積み上げてあった。(略)
 やがて、人影もなく広々としたライヒスカンツラー広場に出た。真新しいコンクリート製の街灯の、黄土色の明かりの中に、一階の窓の壁だけを残して破壊された大きな公会堂の残骸が見えた。中央には短い階段があり、手の込んだ石細工とペディメントがついた正面玄関に続いている。分厚かったはずの扉は見事に壊され、隣の通りをたまに走り去る自動車のヘッドライトが向こう側に見えていた。ビルの屋根を吹き飛ばし、内部を破壊して、窓枠だけが口を開ける前面部ファサードしか残さなかった千ポンド爆弾の威力に、子供っぽい喜びを感じないでいるのは難しかった。十二年前の彼なら、両手を広げ、口でエンジンの爆音を出しながら、しばらく爆撃機の真似をして得意になったことだろう。

任務の内容は秘密裏に途切れ途切れ伝えられる。

待ちに待った封筒を開いた。そして、落胆した。入っていたのは、ごく普通のメモ・パッドから破り取った紙だったのだ。住所はなく、ボブ・グラスという名前と、ベルリン市内の電話番号だけが書かれている。(略)電話は苦手だった。両親も家には引いていないし、電話を持っている友だちもいない。仕事場でもめったにかけたことがなかった。四角い紙切れをあぶなかしく膝に乗せ、緊張してダイヤルを回す。自分がどういう口調で話せばいいかはわかっていた。肩の力を抜いて、自信たっぷりにこう切り出すのだ。レナード・マーナムです。用件はおわかりですね。
  出し抜けに大きな声が聞こえた。「はい、こちらグラス!」
  レナードの気勢は崩れ、アメリカ人と会話を会話を交わすことがあれば避けたいと思っていた、あのイギリス人気質丸出しの狼狽に陥った。「ああ、実は、その……」
「マーナムか?」
「あの、そうです。レナード・マーナムです。用件は……」
「これからいう住所を書き留めてくれ。(略)」
  レナードが精一杯愛想のいい声で住所を繰り返している最中に、電話は切れた。馬鹿みたいな気分だった。

違う国の人間が一緒に任務に関わる。


(本書の書き出し部分より)

  率先して話したのはロフティング中尉のほうだった。
「さて、マーナムくん。着いたばかりだから、きみにはまだ状況がよくわかっていないと思う。ここで手を焼いているのはドイツ人やロシア人ではない。あの厄介なフランス人でもない。問題はアメリカ人だ。あいつらは何も知らん。もっと悪いことに、知ろうともせんし、人の話しを聞こうともしない。要するにそういう連中だ」

グラス(主人公に指示を出す立場の軍人、上記抜粋シーンの人)の酒場でのセリフ、より。

おれたちは、ロシア人はいいやつだと思っていた。何百万もの犠牲者を出したんだ。勇敢で、体が大きくて、ウォッカ好きの陽気な連中だった。(略)だから盟友のはずだったんだ。ところが、実際に会ってみたら違う。(略)おれたちは両手を広げて歓迎するつもりでトラックを降りたよ。プレゼントも用意してあった。連中に会えると思うと、嬉しくて仕方なかったんだ」
(略)
「おれたちのことを信用しなかったんだ。おれたちが嫌いだったんだ。最初の日から敵の扱いをしたんだ。(略)
   それからもずっとそんな調子だった。あいつらはにこりともしない。仕事を進めるつもりもない。嘘をつく。邪魔をする。冷酷だ。言葉はいつも強すぎる。(略)いつもおれたちはいってたよ、あいつらは悲惨な戦争をしてきたんだ、だからやり方が違うんだってな。おれたちは譲歩した。おれたちは世間知らずだった。こっちが国際連合だとか、新しい世界秩序だとかいってるあいだに、あいつらは、共産党に入っていない街じゅうの政治家を誘拐して、ぶちのめしていた。

主人公が初めて秘密の職場に案内されたときに見た二人の休憩中の男の描写。

レナードはアメリカン・フットボールの試合を見たことがなかったし、話しにも聞いたことがなかった。鎖骨の高いところで颯爽とボールを受け止める様子は、これみよがしなところが目立って、自分だけの世界にひたっているようだった。実戦を本気で考えている練習とは思えなかった。肉体の力を、恥ずかしげもなく誇示している。いい歳をした大人が自慢をしているのだ。

 相手に伝えづらいことを言うときにユーモアを交えるというのはどこかで聞いたことがあります。


物語は後半に行くにつれ、ロシアへのスパイ活動を補助する技師として派遣された主人公の仕事と、街の酒場で知り合ったドイツ人女性マリアとの恋愛を中心に、緊張感を増しつつ進んでいきます。

エンターテイメントとしても読めるぐらい構成や伏線もハッキリしているように感じました。


では、なぜ文学作品なのか?

個人的な意見ですが、、

まず思ったのは、読者を一喜一憂させることをメインとして書かれていないこと。

作者の父親は軍人で、父親の転属のため少年期を外地で過ごした、と訳者の方のあとがきにありました。リアルで抑制の効いた描写(これはエンターテイメント作品にもあります)のなかに、戦地や戦場ではないものの、戦争というものを感じさせる作者の目線があるように思えました。

もうひとつは、作者の顔(心)が見えてくる点です。

マリアとの恋愛(この小説の大部分を占めています)において、主人公は女性への強い支配欲を見せています。作者自身も女性から干渉されるのを好まず、結婚も四十後半になってからだったと、どこかで読んだ記憶があります。

マリアからの手紙のなかの一文

怒ったときに黙りこんでしまうのは、あなたの性格のよくないところです。イギリス人気質もあるでしょうし、男の癖だともいえるでしょう。裏切られたように感じたら、陣地に踏み留まって、自分のものを守らなくてはいけないなかったのです。あなたはわたしを責めるべきでした。ボブを責めるべきでした。そうすれば口論になったでしょうが、争わないかぎり物事を突き詰めて考えることはできないのです。でも、わたしにはわかっています。あなたがこそこそ逃げたしたのは、本当はプライドを守るためだったんでしょう?

この、《人間と人間との関係を描く》小説の中に、作者の欲と現実を見た気がしました。

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