『ウォークス 歩くことの精神史』 | 「歩く意味」の上書きについて
ソルニットは、歩くことは特定の範囲に限定されないとし、様々な人に、どういう意味をもたらしたかを記した。
また、「歩行の自由がなかった女性」の存在に触れ、未だに残存するジェンダー的な意識の低さを批判しつつ、フェニズム的な議論申し立てをしている。
1896年に始まったドイツの初期ワンダーフォーゲル活動は排他的であったし、多くの団体から権威主義的思想が芽生えた。
東大教授の四本裕子、清水晶子が(教養学部法613、608号)「女子が入ることのできないサークル」に触れている。問題化する理由は、東大という知的権威を利用した性的暴力や、同質性ゆえに差別に気づくことが出来ない問題が横たわっているからだ。
そうした構造を視野に入れながら、19世紀末から20世紀初頭のウォーキングコミュニティ時代から芽生た権威主義について、読み進めた。
知は探求の道具にもなるけれど、権威と結びつくことで人を墜落させる道具にもなってしまうのだ。
歩くことが存在の様式だった詩人、ワーズワースに影響を受けた小説家を、2人挙げたい。ひとりは『フランケンシュタイン』のメアリー・シェリー。もうひとりは20世紀の小説家ヴァージニア・ウルフ。シェリーが活躍したのは、女性が一人で出歩くことが危険とされていた19世紀。物語の大筋からはシェリー自信の生涯を重ねた、出産や不自由な女性の視点が読み取れる。しかし、題材の大部分は読書から取られている。シェリーは、父の熱心な教育や、夫と続けた読書経験のために、数多くの影響が見られ、豊かな間テクスト性が秘められている(参照1)。初版は女性であるためか匿名で出版せざるを得なかったが、第三版では本名で出版している(参照2)。
ウルフについては、本書でも、彼女たちの小説は狭い範囲のものだったと語られているが、女性としての自信の経験を記すことで、権威的な社会に穴を押し広げた。
わたしは、歴史を通してこうした事実を知れたことに、とても励まされた。(インフルエンサー的なことではなく)自身の不遇も含めて世界を作品化することに感動した。そろそろ他者が意味づけしたものに乗っかることをやめて、作る力を真剣に身につける必要があると思う。
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19世紀には景色を目当てとする観光客に料金をとって案内するロマン主義的グランドツアーが発展し、ガイド本が作られ、風景を眺めることが教養あるものの趣味となった。
今日でも、国内外のスタートアップからウォーカーのためのガイドサービスが出ている。どの風景ガイドにしても、そこにあるのに私達はそれを見ることができないような感覚に襲われるが、慣れてくると一つの見立てとして楽しむことができる(参照3)。
わたしは、目の前にあふれる出来事を観察することで精一杯になるため、ガイドはあまり利用しないのだけど、過去の人々が作り上げた地図やよく分からない謎イラストの地図を下敷きにして歩くサービスは、作り手の見方を読み取るという点でとても面白く感じている(参照4)。
杉本博司の原点とも言えるジオラマ作品は、アメリカ自然史博物館に展示されている生物や、古代人の生活を再現したジオラマを撮影し、あたかも現実の風景のように見せている。一見本物と間違えそうになるが、よく見ると、その世界には風が吹いていないことから、本物ではないことに気づき、芸術作品として楽しむのだ。博物館で観れば本物ではないことに気づくけれど、風や影、光、ゆらぎなどの違和感に気づかず、写真に写っているという理由だけで、本物と読み取る人もいると思う。
ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』にもあるように、ターナが自然のスペクタルをなんとか絵に再現しようとしていた時代から、いつのまにか再現性可能なスペクタクルにとって代わり、本物との区別がつかなくなって来ているのではと恐怖を感じた。今この時代に、取り戻すべきは「見る目」なのではないか。「スペクタクル」を中心に何が残り、失われてきたのか、「スペクタクル」とは何かを真剣に考える必要を感じた。
皮肉なことに、新型コロナウィルスの蔓延による感染可能性よって、家に閉じ込もった人々は、憩いや休息のために地元の公園を歩く人が増えている。これに伴い、多くの自治体が新型コロナウイルス感染症拡大防止に伴う公園利用についてのお願いをリリースしている。
歩くことによって、街や植物のディテールや肌触りに気付いたり、会話を楽しむことが、歩く楽しみであることに気付きはじめたのだ。
イギリスでは産業革命時代にトレッドミルを刑務所に設置。その後、筋肉がステータス・シンボルとなり、どこにも行かずに身体を造形できるウェイトマシンが出回った。今では、テレビを見るなど、ジムでの退屈な時間を回避するための工夫が凝らされている。仮想の世界を持ち歩きながら移動できる『ポケモンGO』や、『リングフィット アドベンチャー』につながった流れは理解しやすい。
2016年に社会現象となった『ポケモンGO』は仮想世界のキャラクターと共に旅をするゲームだ。プレイヤーの肉体は現実空間に存在するが、思考は仮想の平行世界にいて、行動を制しているのは仮想側のルールである。
2016年7月22日から8月21日までの1か月に、車や自転車を運転中に『ポケモンGO』で遊んでいたことが原因とみられる交通事故が79件、交通違反の摘発が1,140件に上った。
ポケモンGOは、ディズニーランドや、ラスベガス・ストリップと同じく、観光客の求める「ここではないどこか」のためにつくられた街である。
ポケモンGOは、ディズニーランドや、ラスベガス・ストリップと同じく、観光客の求める「ここではないどこか」のためにつくられた街である。
現実世界で体験する都市や街のコミュニティは、閉じつつも開かれていることに気づきにくい。あらゆる共同体には、閉ざされた社会の中に開かれた社会、開かれた社会の中に閉ざされた社会がある。
俯瞰した外部情報からは、中の開かれた社会を見ることができない。ソルニットは歩くことで、地図と実人生が結びつき、会話などの経験によって自我が変容していくのではないかと言っている。
ソルニットは、本書の中で横断や接続を試みていない。そのため、こう考えればこうも考えれると選択肢を分節化した。読者のように一方的に受け取るでもなく、可能性同士を連絡させ創造を飛ばすことで自分なりの歩く楽しみを見つけて欲しいのだと思う。
参照
1= パーシー・シェリー『アラスター』『無情』『モン・ブラン』、『ピグマリオン伝説』、『ファウスト伝説』、セルバンテス『ドン・キホーテ』、『不実な恋人の物語』、ルソー『エミール』『新エロイーズ』、ジョン・ロック『人間知性論』、リチャードソン『クラリッサ』『パミラ』、バイロン『マンフレッド』、ワーズワース『ティンターン寺院』、ヴォルネー『諸帝国の廃墟』、プルタルコス『英雄伝』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』、ミルトン『失楽園』(『批判理論入門』廣野由美子 )
2= 『メアリーの総て』監督:ハイファ・アル=マンスール
3= オーディオガイドApp『on the trip』
4= 地図サービスApp『Story』、ジモトぶらぶら散歩マガジン『サンポー』
参考
●『教養学部法613号』サークルのあり方について、元学生/現教員の立場で思うこと 四本裕子
●『教養学部法608号』性的暴力と同質性の無自覚な前提 清水晶子
●「まちなかウォーカブル推進プログラム」
●『スペクタクルの社会』ギー・ドゥボール
●『批判理論入門』廣野由美子
●『ジオラマ』杉本博司
●デザインの次元、都市の空間の素描