#34 『ぬけがら』、を思い出して。

 こんにちは、鏑木澪です。

 私は、昔から物語が好きでした。
 小説はいくら読んでも飽きません。
 新しい物語と出会った時はもちろん、同じ本を何度読み返しても、その都度新しい学びがあります。

 しかし、ある時、
「毎日どれだけ本を読んでも、世の中にある殆どの物語を知らないまま、私は死んでいくのだ」と、気がつきました。

 それは、私が「自分も物語を書きたい」ともがきはじめた時期でもありました。

 物語の「型」を学んでいくうちに、私は知りました。
 私が「知らないまま死んでいくはずだった物語」も、「これまでに読んできたどの物語」も、描き方が異なっているだけで、その本質は同じなのだと。

 私をあんなにも楽しませてくれた「どんでん返し」までもが、分析すれば、いくつかある型のひとつに押しこめることのできる「お決まりの展開」だったのです。

 薄々気づきはじめていたことではありました。
 それが他人の言葉で冷静に分析された情報を見て、その方法に則って自分でも分析していくうちに、「本当にそうなのだ」と思いました。

 それがわかっているのに、いざ、自分の物語を書こうとすると筆は動きません。

 他人の物語を読んでも、「だいたい予想通りの展開」と感じるばかりで、なぜか、楽しめなくなっていました。

 いつの間にか、小説を読まなくなりました。


 そんな私に変化があったのは、ほんの数日前のことです。

 これもまた「YouTube”あるある”のルーティン動画だ」と思いながらも、推し(最近推しはじめたばかり)の動画となれば、「観て損はない」ということで再生しました。

 すっぴんもきれい!
 脚も綺麗!

 そんな、ちょっと危ない(変態じみた←)声を心の中で漏らしながらも、私が一番気になっていたのは、

 いったい、なにを読んでいるんだ?

 というところでした。

 オチをいってしまうと、
 この動画自体が「ルーティン動画」と見せかけた「宣伝動画」だったのです。

 なにの宣伝かといいますと、動画内で読まれている本です!

 まんまと釣られている自分が情けないですね。
 動画の企画、構成、編集、全てが本当によくできています。

 この気持ちよく「騙された!」と感じるのは、昔、楽しく小説を読んでいた頃の感覚と非常に似ていました。

 この人の書く物語だったら、面白いかもしれない。

 ここ数年は「小説を読まない習慣」が身についてしまっていたので、書籍を買うか迷いました。

 装丁が特徴的なので、買うなら電子書籍ではなく、ちゃんとものが欲しい。
 でも、正直、これだけのページ数にこの値段は、高い。

 そもそも、買ったところで
「小説を読まない習慣」が浸透している今の私に、本が読めるのか?

 数週間悩みましたが、結局、購入しました。
(悩んでいる時点で、読みたいという気持ちがかなり強かったのだと思われます。私が買うのは、手元に置いておきたいと思った本だけです。ケチです←)

 

 物語は、ある女の子と出会った人たちの刹那を切り取った連作短編集の形をとっていますが、全体を通して語られているのは「才能」についてです。

 非常に切ない物語でした。

 登場人物には具体的な名前がついておらず、一人称で語られていきます。
 そのため、登場人物と自分との境界線が曖昧になり、少し「読むのがつらい」と感じるところもありました。

「特別な誰かになりたい」と思う人は多いですが、
 それに必要な「才能」に明確な基準はありません。

「憧れを集める」には、「才能」が必須ですが、
 それだけでは続かないものです。

 私は中学時代、「お前は要らない人間だ」と部活動の顧問にいわれたのを未だに引き摺っています。
 部員たちとの仲も悪くありませんでしたし、大会の成績も良かったと思います。

 それでも、私には
 生きている価値もないのだろうか。

 その後も生きていれば「お前はいらない」といわれる場面はたくさんありました。
 おそらく、これからもたくさんあるのでしょう。

 この『ぬけがら』という物語を読んでいるとそんなことを思い出します。

 物語自体は、そのようなドロドロしたところを描いてはいません。
 作者の、ナンス(夏川椎菜さん)の、誰も傷つけまいとする
 優しさや怯えのようなものを感じました。

 それがかえって、痛切に感じたのかもしれません。

『新人ちゃんと先輩』は、
 書籍化にあたって、新たに収録された書き下ろしの作品だそうですが、一番強いメッセージを感じたセリフがありました。

 ”先輩”から”新人ちゃん”に向けていい放たれたセリフです。

「自分が頑張るのは、全部自分のためなんだからね。この場所だから頑張るとか、誰かと約束したから頑張るとか、そういう理由で頑張るのは、無駄なプレッシャーになるだけなんだから、やめときな」

『新人ちゃんと先輩』夏川椎菜

「頑張るためのいい訳」は、どこにでも転がっています。
「他人のために頑張っている自分」を誇らしく思いたくなることもあります。

 それが悪いことだとは思いません。

 ただ、
「それがなくなったら、あなたはもう頑張らないのですか? やめてしまうのですか?」
 そう訊かれた時に応えに困るようでは、ダメだと思いました。


 中学生の頃「お前は要らない人間だ」といわれた日から、
 ずっと私の中にある課題です。

「自分の価値や存在意義を、他人に求めるのか」

「自分を愛せない人が、他人を愛せるのか」

 このふたつの問いに答えがだせません。

『ぬけがら』の女の子は、一度は失った自尊心を取り戻し、
「自分の才能を、存在意義を、他人に求める必要はない」
 そう宣言しているように、私には見えました。

 これは私にとっては
「ひとりで生きられるから、私は平気」
 そういっているようにも聞こえるのです。

「平気」と「大丈夫」の違いも難しいところがありますが、
 この「平気」は、「(本当は)平気(じゃない)」なのです。

 こういう感情は紙一重だと思います。

 私は最近、ボカロPの活動を通して、
 応援してくれる人の温かさを感じています。

「私は、ひとりでできるから平気」
 そう思ってがむしゃらに仕事をしていた大学時代には感じなかったものです。

 だからといって、今の「ひとりで制作する」のをやめようとは思いません。
 自分ひとりで、0を1にするのが楽しいと感じているからです。

 今は自分の活動を「楽しい」と思っているので、
 つらいと感じることがあっても

「ひとりでも大丈夫」です。

『ぬけがら』の女の子も「大丈夫」なのだと思いますが、
 私が彼女に重ねてしまったのは、「平気」といい張っていた自分でした。

 私が増やしたつもりになっていた”ぬけがら”は、まだどこにもなかったのかもしれません。
 そもそも、私は”ぬけがら”を残して飛び立てるような人間ではないのかもしれません。

 それでも、爬虫類などのように少しずつ外皮を剥がして成長していきたいです。

 そう思わせてくれた『ぬけがら』は、
 間違いなく、私にとって面白い物語でした。

 私の心の本棚に、ずっと残り続ける作品です。

 定期的に読み返して、自分の感じ方がどのように変わるのか、楽しみです。


 私もいつか、そんな物語を書きたいです。

 P.S.
 鏑木は、新米ヒヨコ(群)です!
(この使い方であっているのだろうか)

 ネットで調べれば情報はたくさん載っているのだと思いますが、まだまだ知らないことだらけですので、これから情報を集めていきます!

 そんな人間が書いている内容ですので、
 私の文章なんか読んでいないで、

 ぜひ!ッ
 夏川さんの作品を観たり、聴いたりしてください!

 声優の枠に捉われない、素敵なアーティストです!

 ではでは〜


#わたしの本棚

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