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二本松探訪記2024.10.5(中編)

前編はこちら。


散策

カフェで遅めのランチを頂いた後は、日夏さんへ。

もはや「スタンプカード」を作るくらいよくお世話になっている名店なのですが(笑)、この日購入したのは、季節限定の「栗おこわ」です。

二本松関係者の間ではその美味しさはよく知られているようで、私も気になっていたのでした。

帰宅後、レンジで温めて頂きました。写真ではちょっと片寄っていますが^^;
お店のお姉さん(多分娘さん)によると、栗は新栗を使っているとのこと。
100%もち米を使用したおこわで、栗も甘露煮ではなく生栗の皮を剥いて、もち米と一緒に炊き上げているようにお見受けしました。
硬すぎず柔らかすぎず、かつ小豆の風味もしっかり感じられる絶品のおこわです!

途中、ふらりと寄ってみた称念寺。
二本松藩とはあまり縁がありませんが、南北朝~戦国時代にかけて二本松を治めていた畠山氏の菩提寺として知られています。


詳細はわかりませんが、何となくスリムなフォルムに魅了されて撮影した狛犬さん。

池ノ入

そして、個人的に感動したのがこの門標です。
池ノ入は、かつて「白露」の主人公である笠間市之進様が住まいを構えていた場所でした。


ここで、石碑の裏を見てみると、まさかの「丹羽氏による治世時には池がなかった」^^;
実はどの二本松城下絵図を見ても、「地名の割に池がないなあ」とは思っていたのですが、あくまでも「池があった」というのは、伝承だったようです。

余談ですが奥に見える赤い寺院が、蓮華寺です。
蓮華寺はまだ詣でたことがありませんが、後に登場する「日野様」によると、丹羽氏2代目長重公が上洛した際に、家臣かつ丹羽家の縁戚(丹羽氏の娘らなどが嫁いでいた)浅尾氏、樽井氏、そして日野氏が法華宗に帰依。長重公が白河に帰国後に(このときは丹羽氏はまだ白河藩主)、家老3人に命じて白河に蓮華寺を建立させたそうです。その後、光重公の代で白河から二本松に移封になった際に、蓮華寺も白河から二本松に移転したとのこと。

そのためか、二本松藩では(恐らく)大隣寺に次ぐ二本松藩関係者が眠るのが、この蓮華寺です。
日野家はもちろん、丹羽一学、丹羽貴明~富徳(丹波一族)など多くの丹羽一族(分家筋)もこのお寺に眠っています。
二本松少年隊関係では、出陣の際に母に「着物に自分の名前を書いてくれるように」頼み、7/29当日、大隣寺入口の戦闘で銃弾に斃れ、そして当時野戦病院となっていた称念寺で非業の死を遂げた「岡山篤次郎」のお墓があります。


切り通し。この切通を下りきった辺りに池ノ入門があり、そこを抜けると藩士の屋敷があったのでしょう。

文久期のものとされる城下絵図にはありませんが、恐らく笠間一家が屋敷を与えられたのも、この切り通しを抜けた辺りと思われます。
(二本松市史4巻P150、嘉永4年の屋敷割記録より)

さらに、現在の「郭内交差点」の辺りが蔵場丁。郊外にある「小浜組」や「渋川組」の郷倉があったことから、この名がつけられたのではないでしょうか。

上記の旧三之町の辺りは、現在の地名で言うと概ね「根崎地区」。
いわゆる「切り通し」と「竹田・亀谷坂」の入口に挟まれたところに、三浦家(権太夫や十右衛門)の屋敷、樽井弥五左衛門(鳴海の同僚。後に3番組番頭)の屋敷などがありました。
そして、揚り屋(牢屋)があったのも、この地域です。


今までこの地区は訪れたことがなかったので気づきませんでしたが、こうして見ると、池ノ入から郭内に抜ける地域は鳴海や与兵衛らが住む「一之町」(現在のにほんまつ城報館のある辺り)とは違った階級の武家屋敷が立ち並び、賑わっていたであろう様子が伺えます。
実際、二本松市史2巻の巻頭には、池ノ入にあったとされる明治時代の洋風建築の役所の写真も掲載されていますから、二本松城下の重要拠点の一つだったのでしょうね。

地元企業に見る郷土愛

さて、この「切り通し」を抜けると、郭内に出ます。二本松藩時代でいうと、「二之町」の辺り。
ここで「二本松提灯まつり」でレポした「竹田」「根崎」の出発式につながっていくのですが、一通り見物した後で、「大七酒造」の前のブースに立ち寄ってみました。
大七酒造は、「酒は大七、うまさは第一」のフレーズで福島県民には御馴染みの酒蔵です。

ここで私の目を引いたのが、「二本松藩グッズ」及び「提灯まつりグッズ」(各町内=各字の字紋入りの鉛筆なども扱っていました)。何でも販売の収益は、二本松の小学校の「金木犀」(秋の二本松のシンボルの一つだそう)の植樹の費用に回されるということで、私も一つ購入させて頂きました。

「敬学手帳」の名前がつけられていて、お名前の「藩士子弟」の表記に、思わずニンマリ(笑)。

さらに、裏には歴代藩主の名前がフリガナ付きで紹介されていました。
(天狗党騒乱~戊辰戦争のときは、長国公)。
今更ですが、私も読めないお名前もあったので(6~8代)、結構ありがたかったです。

ちなみに、中身はA6サイズのノートでした。

明日は、いよいよ「亀谷坂での出会い」についてです(^^)

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