松明あかし~史跡・古戦場ウォーク編
今年も、松明あかしに参加してきました。今回は、当日予定よりも早く案件の受注が入り若干パニックになりながらも(苦笑)、パンフレットに「松明あかし史跡&古戦場ウォーク」の項目を発見。
(一応)史談会会員としては、これを見逃すわけにはいきません。
幸い、案件は若干〆切まで余裕があったもので、思い切って参加してきたのでした。
約4キロ半のウォーク
幸い、ノマドワークのためによく利用しているtetteから、集合場所である「須賀川信金駐車場」は、目と鼻の先です。
15:15分が集合時間だったため、少し早めに足を運んだところ、やはり史談会の会長である宗像正夫先生がいらっしゃいました。
(→5月の史談会総会で、お目にかかっていたのです)
その前に、二階堂神社に参拝。二階堂神社は須賀川二階堂氏の始祖である二階堂為氏公を祀る神社ですが、この日だけ開帳されるのです。今年は松明あかしに合わせて特別な「御朱印」が配布されるということで、二階堂神社に足を運んできたのでした。
この愛らしい御朱印は、私のクリエイターの先輩が描かれたものです。巫女のモデルは、先輩の作品に出てくる双子ちゃん。
先輩の作品も須賀川二階堂氏を扱った作品で、こちらは戦国時代の二階堂家の話です。
御朱印には、しっかり二階堂家の家紋の一つである「庵木瓜紋」が押印されていました。
須賀川の由来
当日の参加者は、20名ほどだったでしょうか。概ね、半分近くが市外からいらっしゃった方々でした。
そんなわけで、まずは「須賀川」の名前の由来となった泉を訪ねます。
ここは私も知らなかったのですが、須賀川信金の裏手には、泉が湧いています。宗像会長によると、須賀川の街の中心部は、高台にありながらも割と水が湧き出る土地なのだそう。実は、須賀川市史の資料を元にこんな地図を作成していながらも、「濠の水はどうしていたのだろう」と、疑問に思っていました。ですが、会長のお言葉で納得した次第です。
ちなみに、上の図でいうと「二の丸」が現在のtetteに相当します。tetteは利用者が多いにも関わらず、地下駐車場がないのですが、その理由としては地盤を掘ると水が湧き出るため、地下駐車場を作れないのだそうですよ。
そして、円谷英二監督の生家の脇を通りつつ(先日紹介した大束屋さんです)、須賀川城の堀跡が見られる「長松院」の堀跡を偲びます。
そして、今回のウォークで初めて知ったのが、上の地図でいう「蓮ノ池」。現在は公園となっていますが(加治町公園)、かつてここには大きな池があったのだそうです。
私も子どもの頃この公園で遊んだことがありますが、少し窪地めいた公園で、「池の跡」と言われれば、確かに納得できます。
他に、諏訪神社(神炊館神社)の池も当時の濠の一部と言われていて、四季折々の移ろいを映し出しています。
二階堂家荼毘場
さて、ここから西側の方に下っていきます。
基本的に須賀川は坂だらけなのですが、自分の足で歩いてみると、なかなかの天然の要害だというのが、実感できます(^_^;)
きっと、ここを攻めようとした伊達政宗軍も、大変だったことでしょう……。
二階堂家荼毘場。
ここも、今回私が初めて知った史跡の一つです。
天正17年(1589年)10月26日辰の刻(午前8時)、佐竹・岩城氏の援軍を含めた1200人余りの二階堂勢に対し、攻める伊達軍は7,000~10,000もの兵力を擁していました。これだけ兵力に差があればあっさり攻め滅ぼされそうなものですが、須賀川勢は奮戦。この荼毘場のある場所には、須田美濃守が総大将として布陣し、背後の須賀川城を守っていたそうです。
ですが、守屋筑後守が伊達軍に内通し、城に火を掛けて須賀川城は落城しました。
余談ですが、拙作「泪橋」をお読みになった方であれば、「須田美濃守」や「守屋筑後守」の名前に、覚えがあるかもしれません。その末裔が、戦国時代末期に袂を違えた……ということでもあります。
ちなみに、二階堂氏・蘆名氏・佐竹氏・伊達家の血縁関係を図にすると、このようになるのだそう。
もっとも、伊達政宗はその直後に豊臣秀吉による「奥州仕置」のため、手に入れた須賀川なども没収されました。その後、この辺りは「須賀川宿」として概ね白河藩の領地の一部に編入。そして、100年以上経ってようやく「戦国のほとぼり」が醒めたからでしょうか。江戸時代享保20年(1735年)、二階堂家の遺臣が長松院の僧侶と相談してここに荼毘場を作り、須賀川二階堂家の慰霊の場としたのです。
宗像会長によれば、かつてはここにも「松明」が建てられていたそうですよ
大黒石古戦場跡・八幡山城跡
ここから国道4号線を渡り、大黒石と呼ばれていた地域を目指します。概ね、現在の須賀川第一小学校の裏手になるでしょうか。
現在のGoogleマップからはわかりませんが、須賀川一小の前には、「大黒池」という大きな池がありました。私が小学生の時分には「河童がいる」「女の幽霊が出る」などの七不思議?も口伝として伝えられていたのですが(笑)、恐らく東日本大震災で池の堤が崩れるまでは、戦国時代からの名残があったはずです。私が小学生の頃は、まだ水が湛えられて養鯉場もありましたしね。
ですが、今では池の水はなくなり、「防災公園」として整備されています。
この防災公園の脇を通って里山を目指すと、「大黒石口古戦場跡」「八幡山城跡」に辿り着きます。
私も、訪問するのは、小学生のとき以来でしょうか……。
→我ながら、渋い小学生です(^_^;)
ちなみに、毎年11月の第2土曜日が松明あかしの日となっていますが、その前日、ここでも「八幡山衍義」として、小松明が灯され神事が執り行われます。
八幡宮。小さいながらも、ちゃんと祠があります。
ちなみにここに八幡様が祀られているのは、始祖である「二階堂為氏」が岩瀬村にあったものを勧進したため。このくだりは、私も「泪橋」(神仏の功徳)で取り上げていて、陰陽道では須賀川城の裏鬼門に当たる方角(南西)ということから、為氏が「三千代姫の受難を避ける願掛けも兼ねた」という、オリジナル解釈も加えてみました。
また、ここには八幡崎城が築かれていました。
宗像会長も仰られていましたが、現在の一般的な「日本の城」のイメージとしては、天守閣を備えた立派な建物を想像するのではないかと思います。
ですが、戦国時代くらいまでは、中心となる城郭(須賀川の場合は、現在のtette付近にあった須賀川城)の他に、領主の家臣らもそれぞれ「館」を持っていて、出城的な役割を果たしていたのです。
碑文の後ろには、土塁の跡が見えます。さらに、この下は結構な崖になっています。小学生の頃から、ここが山だというのはよく知っていたのですが(学校帰りの回り道ルートでした)、その背後にある歴史を知って訪れると、又違った光景が見えてきます。
この八幡山からは、遠くに釈迦堂川が見え、その向こうに須賀川桐陽高校が見えます。須賀川桐陽高校の置かれている丘は、通称「陣場山」。伊達政宗の本陣がここに置かれたために、「陣場山」の名前が付けられたと伝えられています。
石垣
さらに、この八幡山(というか丘)を下ると、元JTの工場が見えてきます。(現在は大和ハウスの物流拠点)
その反対側に料亭があるのですが、私が子供の頃は、「◯◯はこんな石垣を作れるくらい、儲かっているんだなあ」なんて思っていたものです(^_^;)
ですがこれは私の勘違いで、れっきとした八幡崎城の遺構でした。
そう教えていただくと、子供の頃は遊び場の一つでしかなかった八幡山が、城趾だったというのが急に現実味を帯びてきます。
ここから、丸田町・館取町を通って、釈迦堂川を目指します。
写真は、西川中央公園より。奥に見える学校が須賀川桐陽高校で、ここに伊達政宗が布陣していました。
令和元年の大洪水で釈迦堂川も氾濫したため、堤防工事が行われて様子がわかりにくいですが、この堤防の向こうを釈迦堂川が流れています。
そして、大黒石口と並んで決戦の地となったのが、雨呼口。現在は神田産業(実は全国的に知る人ぞ知るダンボールメーカーです)の工場がありますが、崖の上に工場が建てられているのがおわかりでしょうか。
概ね崩落防止の法面工事が施されているものの、一部当時そのままの岩崖が残されています。この上から、二階堂家の兵らは矢などを射掛けたのでしょうね。
ウォークのときとは若干異なるルートですが……。
丸田町から、弘法坦に抜けるルートです。奥に見えるこんもりとした森は、諏訪神社の鎮守の森。それが分かるとなぜあの布陣だったかが、よく理解できます。
そして、ギリギリで「御神火奉受式」に間に合い、解散となったのでした。
以上、今回の「古跡・古戦場ウォーク」でした。
戦国期の二階堂氏の顛末については、現在先輩が描いていらっしゃって、私もその作品を楽しみにしています。
そして、松明あかしの由来となった「戦国期の須賀川二階堂家と伊達政宗の攻防」の様子が、何となくおわかりになったのではないでしょうか。
以上、今年の「松明あかし」にまつわるレポでした。
<参考資料>
松明あかし史跡・古戦場ウォーク参加資料
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