城下戦の足跡を辿って~後編
ここまで、二本松藩の情報を立て続けにアップしてきたので、改めてリンクをまとめます。
大谷家と丹羽家
丹羽家ファミリーヒストリー~前編
丹羽家ファミリーヒストリー~中編
丹羽家ファミリーヒストリー~後編
二本松藩の教育事情
城下戦の足跡を辿って~前編
いっそ、「二本松藩」の専用マガジンを作りますかね(笑)。
さて、城下戦についての後編は、「大壇口」の話です。
大壇口での奮戦
二本松城下へ奥州街道を通って入るには、必ず「大壇口」と呼ばれる場所を通らなければなりません。現代で言えば、「岳下小学校」のある辺りになります。
ここの防衛を任されていたのが、8番組の「丹羽右近隊」、そして木村砲術隊でした。
こちらが、剛介らが慕ってやまなかった「木村銃太郎」の肖像画です。
大壇口での戦いは、後日、「戊辰一の激戦」と野津道貫(後に陸軍大将を務め、西南戦争でも第二師団の指揮官として活躍)と言わしめたほど、激烈な戦いを繰り広げたのでした。
ですが数で劣る二本松勢は、次第に劣勢に陥ります。
銃太郎は敗色が濃くなってきたのを悟り、子供たちを連れて退却しようとしました。ですが、その時に腰を撃たれてもはや歩行不可能と悟ったのでしょう。副隊長の二階堂衛守に後事、そして介錯を託して戦死します。
衛守も衝撃で手元が狂ったのか三太刀振るってようやく首を切り落とし、恩師の死に泣く子供たちを連れて、銃太郎の首と共に大隣寺の方へ退却していきました。
大壇口の二勇士
ですが、少年達が退却した後、さらにここで戦った人たちがいました。それが、「大壇口の二勇士」と言われる「山岡栄治」及び「青山助之丞」です。
野津も一ヶ月も身動きが取れないほどの重傷を負わされたにも関わらず(このために、彼は会津戦には参戦していません)、このときの戦いがよほど印象深かったのでしょう。
後に再びこの地を訪れた時に、顕彰碑の揮毫を引き受けています。
私も二本松藩の戊辰戦争の悲惨な戦いを調べるたびにやりきれない思いをすることが多いのですが、その中において野津が残したこの歌は、掛け値なしに「二本松藩への讃歌」として評価しています。
そしてふと思いついて、大壇口古戦場から「霞ヶ城」のあった方角を撮影してみました。
剛介らや二勇士もこのように城を背後にして、「決死」の覚悟で戦っていたのではないでしょうか。
こちらは、同じ地点から「安達太良山」を撮ってみたものです。
小柄な体で戦った剛介
ここで、再び「武谷剛介」を取り上げてみます。
城報館に二本松の「歴史資料館」が移されてから、撮影がOKになりました。そこで、剛介が身につけていたかの「脇差し」も、撮影してみた次第です。
この脇差しは、私も剛介の象徴として彼の「出陣」の場面(直違の紋~「出陣命令」)、そしてスピンオフ(父の背中)でも登場させたのですが、改めて紹介を。
よく見ると、脇差しの柄のところに武谷家の裏紋(女紋)の「かたばみ」紋が入っているのが、確認できます。
その時の心境は作中で剛介に語らせたのですが、「修学旅行前のようなはしゃぎだった」という感覚は、今の子供らには理解できないかもしれません。
ですが、武士の子としての教育を受けて育ってきた彼にとっては、「いよいよ一人前の武士として藩のために役立てる」という、ごく自然な心情だったのでしょう。
さらに、写真の右側にある「小銭」は、別の少年が身につけていた「激戦」を伝える遺品です。
これは、「下河辺武司」(後に行孝と改名)という別の少年が身につけていたもの。
所属していた隊は不明ですが、先に紹介した城の裏手、塩沢口を守っていた「下河辺梓」の次男です。このときは16歳で、戦場から二本松城に引き返し城中に入ろうとしたが、寸前で敵兵に気づき、退却。その際に50~60人から一斉射撃を浴びて、銃弾の一発が背後から武司の腹上部に命中しました。
ですが、このときに出陣の際に母から授けられた三徳(袋の布で、通常は鼻紙・書付・楊枝を入れるとのこと)と三枚の天保銭に守られて、無事だったというエピソードが残されています。
この三徳に三枚の天保銭を入れていたわけで、1枚は銃弾が貫通、2枚めは真っ二つに割れ、3枚目も折れ曲がった状態でした。武司は大正11年(1922年)70歳で亡くなるまで、この天保銭をお守りにして、肌身離さず身につけていたそうです。いかに激戦であり、子供らも年齢に関係なく戦わざるを得なかったのか、よく分かるエピソードではないでしょうか。
また、剛介が孫(私がお世話になっている今村様のお父様です)に装わせたという、「出陣時」の服装も印象深いです。
この資料集をまとめたのは文章から察するに剛介様の末息子のようですが(名前は個人情報になるので内緒)、昭和の始めに「二本松少年隊」の映画が作られることになり、その宣伝も兼ねて孫に「再現」させたとのこと。
そして左の写真は、私も「紺野庫治」氏の著書で見覚えがありました。
撮影されたのは戊辰戦後70周年記念式典と言いますから、既にかの戦を語れる人物も少なくなっていた頃なのでしょうね。佐倉強哉、小川又一、剛介、そして成田達寿と、当時所属した隊もバラバラな4人が集まって(ただし佐倉強哉と剛介は遠い親族)、どのような話をしたのでしょうか。
「直違の紋~」でも書きましたが、この頃になると、二本松少年隊の話も、大正から昭和にかけての「戦意高揚」の宣材の一つとして使われるようになっていました。
剛介ら最後の生き残りの人々は、それをどのような思いで眺めていたのか。
今となっては知る由もありませんが、決して「好き好んで戦いを語ったわけではない」と、私は感じています。それでも今なお、彼の辿った道を追わずにはいられません。
龍泉寺
長々と、かつあちこちに飛びながら紹介してきましたが、最後に取り上げるのは「龍泉寺」。別記事でこの古刹の俳句も詠んでみましたが、上記にあるように、城下戦においては、5番組隊長の大谷鳴海がここの守備を任されていました。
鳴海が率いる5番組は城下戦の前々日の27日に本宮で西軍に襲撃され、安達太良山麓の村々を迂回して、命からがら城下に辿り着いたわけです。ですが、休む間も与えられず再び城下の守備に回ったのでした。
「直違の紋~」でも鳴海は割とちょくちょく登場していますが、彼をキーパーソンの1人に設定したのは、この城下戦で「剛介が会津に落ち延びる前に頼った大人がいたとしたら誰か?」という疑問からでした。
大壇口から退却してきた剛介が会津に入るまでの足跡は、実は不明です。ですが、「会津の山中で美丈夫と出会った」という今村家の口伝があるので、恐らく剛介は母成峠の戦いに参戦していると推理。そこから、
• 母成峠の戦いに参戦している
• かつ、大壇口→大隣寺というルートの延長上にいる
という条件を満たす大人が、鳴海だった次第です。
「直違の紋~」を書いた頃は、「何でここの場所を鳴海が守っていたのだろう」と疑問だったのですが、今回初めて龍泉寺を訪問して、その疑問が氷解しました。
本当に、龍泉寺は本丸のすぐ裏手にあるのですよ。
こちらの写真は、龍泉寺の入口のところから城の方角を撮影したもの。見えている石垣は本丸の石垣で、直線距離にして100~200メートルくらいしか離れていないのではないでしょうか。
こちらは逆に、一昨年に本丸側から撮影した写真。眼下に二合田用水を利用した棚田が見えます。当時は気づきませんでしたが、右手奥に龍泉寺があるはず。
私が一学ら責任者ならば、やはり「鳴海殿にここを任せるかな」という印象でした。西軍が本丸側から回ってきてもおかしくない位置ですし。
(ちなみにこのとき総責任者の丹羽丹波は、会津との援兵交渉の真っ最中で、城下戦に間に合わず……)
それはともかく、他の寺院よりも城の奥にあるからか、少し独特な雰囲気のあるお寺です。
これは、花手水の一種です。
先のコロナ禍の中で参拝における「手水」が利用できない状況となり、せめて参拝者に「心を清めてもらおう」との思いから、全国の寺院や神社で広がったのが「花手水」。
二本松ではシンボルである「菊」を利用した「菊手水」を用意して、新しい秋の風物詩として人々の目を楽しませていました。
現在は、ペットのためのお墓もあるのでしょうか。なぜかあった「猫&犬」の墓標に、思わず癒やされました。
正面入口にある、堂々とした山門。丹羽氏が入る前にこの地を治めていた「畠山氏」は、出城の一つとして龍泉寺を保護していたことがあるそうですが、それも頷ける山容です。
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ここまで回った頃には、既に足はパンパン^^;
電動アシスト自転車で市内を回ったのですが、どのルートを取っても、坂、坂、坂。先の「丹羽家ファミリーヒストリー」で紹介したように、丘陵に作られた城下町なので(しかも郭内と郭外を分離)、仕方がないのですけれどね。
ですが、これは攻め手の西軍もさぞかし大変だっただろうなあ……なんて、ふと感じた次第です。
さて、ここまでひたすら「歴史」の話が続いたので、締め括りはもう少し「柔らかめ」の話として、「文学ネタ」&「グルメ」の紹介と参りましょう。
<参考>
11/8 二本松駅前~大隣寺近辺~大壇口~霞ヶ城~龍泉寺
走行ルートは、こちらです。
©k.maru027.2023
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