城下戦の足跡を辿って~前編
さて、二本松藩を語る時には、やはり「7月29日の落城の日」を避けては通れません。
この部分に関しては、「直違の紋~」の中である程度書ききった部分もあるのですが(藩史に書かれた数々のエピソードを、第二章の前半でかなり使っています)、城報館のパネル、そして図らずも「自分の足で体感してきた彼らの足跡」を交えて、改めて解説してみたいと思います。
29日当日の布陣
城報館の朝河博士に関する特別展で、折よく「城下守備隊」の配置図が紹介されていました。
私も「直違の紋~」で書いたのですが、今一度振り返ってみたいと思います。
1.城背後(塩沢口) 1小隊
下河辺梓
千賀孫右衛門
2.龍泉寺 1小隊
大谷鳴海
青山伊右衛門
3.西谷 馬場の末門 1小隊
丹羽九郎(パネルでは九助)
佐野善兵衛
4.松坂門 1小隊
丹羽内蔵助
和田弓人
丹羽直記
5.箕輪門 1小隊
丹羽族之助
高橋九郎
6.久保丁門 1小隊
本山主税
内藤甚蔵
7.両社山 2小隊
日野大内蔵
斎藤喜兵衛
8.光覚山寺 1小隊
成田助九郎
丹羽主膳
9.池之入門 1小隊
丹羽門十郎
江口伝治
10.竹田門 1小隊
本山大助
11.三森町 1小隊
上田清左衛門
ちなみに、太字にしたところは作中で私が取り上げたところです。
2の龍泉寺は、剛介が鳴海を頼っていった場面(霞ヶ城炎上)で使いましたし、6の久保丁門のところでは、小沢幾弥が敵兵に介錯を頼んで絶命。5の箕輪門では、内藤四郎兵衛が壮絶な戦死を遂げました。
実は、「直違の紋~」を書いた当初はまだ二本松藩の人事に関する知識が浅くて、未知の人物も多かったのですが、2の龍泉寺、7の両社山、10の竹田門はそれぞれ「番頭」クラスが、それ以外の要所については「物頭」(足軽ら歩兵の指揮官)か、「詰番(番頭の控え)」クラスの人間を配置しています。
さらに、「直違の紋~」での子供らの足跡(推定)を記すと、こんな感じです。
実際には、亡くなった子供らがもっといるわけですが……。
そして、剛介らが手にしていた銃がこちら。
上が、恐らく「ミニエー銃」です。パネルには詳細な説明がありませんが、銃の形状からして間違いないでしょう。
剛介らは「士分」の扱いですので、少し良い銃を支給されていたはずです。
士分と足軽では、微妙に支給された銃が違いました。
ちなみに、これよりもう少し性能が落ちるのが「火縄銃」。
城報館では、この「火縄銃」を手にして撮影することができますが、ぜひ持ってみて頂きたいです。
本当に重いんですよ。恐らく5キロ前後はあるはずです。
さらに、大壇口で剛介らが利用したという胸壁を再現したものが、下図の畳を重ねたものです。
香泉寺・大隣寺
実は、8日に二本松に到着した際に、朝一で「図書館」を訪問するつもりでした。ですが、開館15分前に到着してしまったため(平日は開館時間が少し遅い)、予定を変更して、先に元々参拝予定だった大隣寺を訪問してきた次第です。
もっとも、曲がるべき道を一本間違えて先に「香泉寺」に到着したために、また一つ、「直違の紋~」縁の寺を訪ねたことになりました。ここも、子供らが大隣寺で木村隊が四散した後、「集合場所」としたところです。
境内には、子供たちが集合の目印にしたという「野仏」が今でもありました。
恐らく、一之丁で戦死した才次郎は、ここから新丁坂を駆け上がり松坂門をくぐり抜けて、W大谷家の屋敷があった辺りで戦死したのでしょう。
余談ですが、木村隊の子どもたちが大壇口に向かう際に勢い余って「大砲ごと桑畑に突っ込んだ」のも新丁坂だった(切通なので、非常に急な坂です)と推測されますし、また、剛介の自宅があったのも新丁坂です。
(→文久期の城下絵図でも裏付けが取れています)
大隣寺
香泉寺の次に訪れたのは大隣寺。ここは、大壇口から退却してきた木村隊が再び襲撃された場所です。
丹羽家の菩提寺でもあり、数々の忠臣らが眠る墓所でもあります。
そのためでしょうか。結構墓地の敷地が広く、また、私が訪れたときは「銀杏」の匂いが印象的でした。
そして、二本松少年隊関係者の墓所は、ここにまとめられています。
(才次郎のように、別途自家の墓地に埋葬されている子もいるかもしれませんが)
少年らの墓は、正面の右手が「木村隊」の戦死者のお墓、左が他の隊の少年達と関係者のお墓となっています。
大きな墓碑の左側には、ここで戦死した衛守様のお墓もありました。
また、写真に映っている「田中三次」は糠沢城之内の戦い(「白露」の笠間市之進が亡くなった場所の近くです)、根来梶之助は、城下戦で大谷志摩(与兵衛の長男)が指揮する「遊撃隊」に加わっており、やはり華々しく戦死しました。大城代「内藤四郎兵衛」の三男でもあります。
上崎鐵造は、恐らく衛守の奥さんであるアサさんの弟。
岩本清次郎は、木村銃太郎の義弟の1人になります。(銃太郎の妹「たに」と清次郎の兄が夫婦)
彼も糠沢城之内の戦いの戦死者の1人です。
そして、丁度剛介らが担いでいたミニエー銃と同じ位の重さの荷物(ノートPC+その他諸々)を背負って、大隣寺の墓地を散策してきたわけです。
昔からある寺院はちょっとした小山になっていることが多いのですが、大隣寺は墓地も広く、なかなかのハイキングでした^^;
ですが、私より遥かに小さい体であの重たい銃を担ぎ、彼らが逃避行ルートを探りつつ城を目指していたのかと思うと、涙を流さずにはいられませんでした。
先年、大隣寺で山火事があったそうなので、大隣寺の写真は本堂近くのみのものに留めますが、墓地には大谷家、成田家(才次郎のお墓はこちらにもあった)、内藤家など重臣らの家のお墓もあります。
多分、大谷本家だろうなあ……というお墓で手を合わせてきましたが、丹羽家の墓標を守るように、重臣らのお墓も広がっているのが印象的でした。
また、大隣寺には城下戦で二本松藩兵と共に戦って戦死した他藩(会津藩や仙台藩)の藩士も合葬されています。
一方、こちらは城報館で展示されていた「一般兵士」の甲冑。胸と陣笠に、しっかり「直違紋」が塗られています。大隣寺とは関係ないのですが、もしかしたら、この甲冑の持ち主も大隣寺に眠っているかもしれません。
少しだけ「直違の紋~」より
さらに、こちらは「本丸」で自刃した「丹羽和左衛門」が身につけていたという甲冑。
発見されたときは血塗れだったそうですが、年月が経ったためか、今ではその痕跡が見当たりません。
ちなみに、こちらが2年前の冬に撮影してきた「和左衛門及び安部井又之丞」の割腹した場所。
三の丸(公らが生活していた場所)側から回ろうとすると、かなり急な山道を登ることになります。
霞ヶ城の全容は、このような感じです。
三の丸から本丸までの途中には、責任を取って影山氏の役宅で割腹した丹羽一学、丹羽新十郎、服部久左衛門の墓碑があります。彼らの介錯は、「鬼と天狗」の「小原田騒動」で出てきた「大島成渡」が務めました。
>後編に続きます。
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