ヘテロセクシズムに傾倒するフェミ騎士たち
少し前、牛角の「女性限定食べ放題半額セール」が炎上する騒ぎがありました。
毎度のことですが、こうした飲食店の女性優遇施策にはフェミニズム側、特にいわゆる「フェミ騎士」の、アンチフェミニズムやマスキュリズムに対する「『デートでは男が女に奢るべき』が前提ならこれはむしろ男にとって得」、「男性差別とかいうのも結局モテない奴の僻み」などといった冷笑的言説が数多く出てきました。特に前者についてはさらにその少し前に起こった「奢り奢られ論争」にも関連があり、当然フェミ側は「デートでは男が女に奢るべき」を擁護していました。
今回はこうした「フェミ騎士ムーブ」の現象について、述べていきたいと思います。
この現象は、「リベラル・ポリコレ」の視点から批判できる理論がある
さてこの、「飲食店では男が女に奢るべき」・「こんなのモテない奴の僻み」といった、「フェミ騎士」ぶった言説。あまり語られていませんが、実はリベラルやポリコレの理屈で批判することが可能です。つまり、これらの言説は
「異性愛主義」に満ちている、と。
この異性愛主義というのは、単に「異性愛を擁護する思想」のことではなく、むしろ「異性愛(実際には、その中で望ましいとされる振る舞いを含む)を当然、当たり前のものとしてそれを他者に押し付ける思想」のことを指します。どちらの言説も、前者は異性愛の中の振る舞いを、後者は異性愛そのものを結果的に奨励しているわけですから、この条件を満たしています。
ではなぜ、彼らの言説はしばしばこのような「異性愛主義」に傾倒してしまうのでしょうか?
「ヘテロセクシャル男性の特権を自覚せよ」という人たちこそ、「ヘテロセクシャル男性の特権」に無自覚である
詳しいことは後述しますが、いわゆる「フェミ騎士」というのは、「性欲が高じる」ことよりも「(特にミサンドリー的な背景を持った)女が配偶者としてあてがわれる」ことによってなるケースのほうが多いです。言い換えると、そもそも彼らの多くは「一夫一婦制異性愛主義による恋愛観・結婚観」に順応することを達成した側なんですね。
そして彼らの決まり文句となっているフレーズが「ヘテロセクシャル男性として、その特権を自覚して、女性やマイノリティのために社会を変えていこうと決意した」というものです。
しかし私は、そのようなフレーズを彼らから聞くたびに「ああ、こいつらこそそのフレーズの意味を理解していないな」と思わされます。そもそも「特権を自覚せよ」というのは、ポストモダン思想の考え方に端を発しており、「“抑圧されてきた”マイノリティの声をもっと社会に反映させろ」という意趣のものです。決して男女二元論をそのまま持ち込めるようなものではありませんし、「マジョリティ中心の社会を彼ら自身でマイノリティに順応するように変えていくべきだ」というものでもありません。
更に言えばポストモダン思想自体、「フェミニズムの在り方」には常にかなり懐疑的なところがありました。例えばウーマンリブにしても白人女性中心ないし異性愛女性中心であったことには現代において批判する向きが強くあります。さらに現在進行形の事案としてはTERFやSWERFの問題があります。
LGBTQ+なんか更に輪をかけてポストモダン的批判のオンパレードです。まずゲイやレズビアンあるいは「同性を愛することを選択した」バイセクシャルが異性愛と同じように同性を愛する権利運動から始まり、それが「先述以外の」バイセクシャル、Aセクシャル、ポリアモリーなどから批判され、さらに彼ら彼女らを包含した権利運動もペドフィリアなりフィクトセクシャルなりから批判され…と、そういう繰り返しが起きています。
「弱者男性論」も、ある意味では決してその例外ではありません。小山晃弘狂人は、弱者男性を「不可視化された男性困窮者」と定義し、その典型例としてジャニーズJr.を挙げました。私もこの定義の仕方には大いに賛同します。現にいくつかの記事で述べたように、弱者男性的なフェミニズム批判はフェミニズム側からは家父長制復古主義と同じように見做され、逆に家父長制復古主義側からはフェミニズムと同じように見做されてきた、そういう「双方からの抑圧」を受けてきたものです。
そのように考えると、私もつくづく思うわけですよ。“一夫一婦制異性愛主義を再生産するような”フェミニズムの、どこがリベラルなのかと。どこがポリコレなのかと。ここからも、「フェミニズムの正義性」はリベラルやポリコレなどに保証されているわけでは決してない、と言えます。
「性欲にかまけたおっさん」ではなく、「女があてがわれたおっさん」こそがフェミ騎士と化す
しかし今回はさらに、「アンチフェミニズム・マスキュリズム側」で起きているもうひとつの現象についても、述べていきたいと思います。
というのは、今回の牛角の一件、あるいはその前提となった奢り奢られ論争をめぐり、アンチフェミニズム・マスキュリズム側でもその問題設定に疑念を呈する向きが出てきているのです。
このsaiku氏という方は、いわゆる「平等主義アンチフェミニズム」の流れをくんでいますが、少子化問題に関する論考記事を多数出している方でもあり、また自身もそこへの問題意識から婚活を進め=異性愛主義に基づいた結婚観に順応しようとしています。
そしてこの動きもまた、今に始まったことではありません。「非婚少子化」を問題視するにつれて「異性愛主義」に結果的に傾倒し「女性優遇の問題」について語らなくなってしまった例は、私も何度も見てきました。
更には二次元オタク界隈でも、「仲間のオタクだった奴がここ何年か(ただし、客観的に言うと「婚姻適齢期」の真っ只中にいる)で急速にフェミ化してオタクを叩くようになった」ということはもはや多くの人たちの「身に覚えがあること」となっているようです。
かねてから私は、「性欲にかまけたおっさん」ではなく「女があてがわれたおっさん」こそがフェミ騎士と化す、とも言ってきました。つまり、結婚するまで異性経験がほぼないか、少ないような男性ほど、「フェミ騎士と化す」可能性は高いということです。元々「女をあてがえ論」に同調していたようなアンチフェミ男こそ、本当は最も警戒しなければならない存在だとも思います。
逆に「性欲にかまけてフェミ騎士となった」ような男は、基本的に「性の奔放さ」を肯定する立場につくため、一夫一婦制に基づいた関係性には概して否定的であり、そこに乗っかろうとする非モテ男性の「邪道性」を叩くわけです(ある意味では私もその一端を担いでいると言えなくもない)。こうした観点も近年では、同じ「フェミ騎士」に批判されるという例は増えていると聞きます。それも結局後者のような形態が増えていることと大いに関係があるのは間違いありません。
皆さんは、韓国発祥の「皿洗い論」・「洗剤男」というミームをご存知でしょうか。性経験の少ない男性が30〜40代になって性経験の多い女性と結婚すること、あるいはそのような結婚によって負うことになる男性側の困難を指します。これは日韓両国でかつての「処女厨論」の変形であるとよく誤解されていますが、実際はそうではなく、日韓両国の結婚観がいかに破綻しているかを示すものです。この議論で「処女厨」はむしろ(そういう結婚観を求めているという意味では)侮蔑の対象側にいる存在ですし、「じゃあ女に性経験がないならATM婚を許してもいいのか」という議論さえあるそうです。
そしてそこにいわゆる「マ○コ二毛作」・「私達は買われた論」が加わってくるわけです。元々これらのレトリックはそうした「皿洗い男」・「洗剤男」・「処女厨」を感化させるためのものであり、彼らはまんまとその策略にはまってしまっているのです。つまり、そのような形での「結婚観への順応を達成」した男ほど、「自由恋愛社会の構造」を敵視し、「旧来のセクシャリティの中で改革していくフェミニズム」という路線に傾倒する傾向はどんどん高まるわけです。
「本当にこじらせた」・「真の」ミソジニーを可視化するためには
繰り返すように、今回の一件では、特に非婚少子化を大きなイシューとしている側で、疑念を呈する向きも大きくなっています。
しかし今回私は、そういう向きにこそ、声を大にして言いたい。
「これこそがミソジニーだ!!!」と。
このような、アンチフェミニズムの中にある「非婚少子化を最も問題視する」、「異性愛主義を至上とする」流れの影響を断ち切らなければ、「本当にこじらせた」(と他称される)ミソジニーは、永遠に不可視化されたままなのです。
このことを強く意識させるのが、『漫画ルポ中年童貞』の、松野博史という人物が出てくる回です。この作品は当時の「キモくて金のないオッサン」を外見も内面も笑いものにする、という男性蔑視性が多分に含まれた作品として知られていますが、その中でもこの松野氏の回は非常に異色な内容となっています。
彼も「女」に対する過度な恐怖・畏怖からゲイとなっていった人物です。文中では「後天性の性同一性障害」・「偽物のセクシャルマイノリティ」などと言われていますけど、こうした背景からセクシャルマイノリティとなっていくケースは、性別を問わず多くあります。つまり、
「本当にこじらせた」ミソジニーというのは、(「本当にこじらせたミサンドリーフェミニスト」がそうであるように)「異性愛主義」というものを支持しません。
できるわけがないんです。ちなみに私は何人も、この松野氏よりエグい背景(学生時代や新社会人の頃の女子からのいじめで女性不信になったなど)を持っている人を知っています。ある人はBL作家として大成し、またある人はゲイAVの監督となり、そしてまたある人はフィクトセクシャルの活動家(近藤氏のことではない。彼も「かなりシリアスな背景を持った人」ではあるが)となっています。
前項でsaiku氏は「こんなの先鋭化したフェミの主張を反転させただけだ」と言っていますが、私はそれが何らおかしいとは思いません。こうした「異性に対する極端な憎悪」を茶化すのは簡単なことです。しかしこれらも、「或る人間が、その個人的な経験を通して抱いている、等身大の感情」であることは間違いありません。
本当にフェミニズム、とりわけ異性嫌悪的なフェミニズム言説に対して対抗言説を張るなら、こういう存在をちゃんとぶつけていかないと、結局我々も、彼女らの言う「男女の非対称性」を甘受しなければならないのです。
ぶっちゃけアンチフェミニストの間でも、異性愛主義を奨励する合理的理由なんて、「非婚少子化を回復・克服していくこと」しかないわけですよ。しかしこれも長期的に見れば一方的なフェミニズム主張を黙認していくだけです。もういい加減、我々はこのスパイラルを抜け出すべきです。
この壁を乗り越えなければ道は開けない
最後に、その「本当にこじらせた」・「真の」ミソジニストの皆さんへ。
マキャヴェリ曰く、「天国への最も短い近道は、地獄を知り尽くすことだ」。あなたがたはその「地獄」を知り尽くしている側のはずです。少なくとも非婚少子化をアンチフェミニズムの最大の問題と捉えている輩よりは。そして私も「ミソジニーガチ勢」とは名乗っていますが、あなたがたの持つミソジニーには及ばないとも思います。
だからこそ私は、あなたがたにもっと前に出てきて欲しいと願っています。
もっと具体的に言えば、ここnoteみたいに「ペケッターランドの外」でも活動して欲しい。ぶっちゃけXはレッドオーシャンそのものです。確かにnoteにもミサンドリーフェミニズム的な記事は増えていますが、それでももっと自由に、あなたがたの経験と感覚を「語れる」場であるはずです。
これは何度でも言いますけど、「非婚少子化」がアンチフェミニズムの最大のイシューである限り、あなたがたのような「性観念・家族観を支持しない側のアンチフェミニスト」は可視化されませんし、そしてそれこそが、今日の「第4波フェミニズム」=男女二元論や性役割分業を維持した上で女に都合いいように「改良」していくという路線を正当化する最大の論拠なのです。
その構造をぶっ壊せるかどうかは、あなたがたの「発する言葉」、そしてそれがどれだけ他者に届くかにかかっています。