対テロ戦争が「フェミニズム及び性役割の在り方」を変えた?!
国連の件がとうとうプレジデントに載ってしまいました。フェミ側論客からは「強者男性に求めているだけ」、「白饅頭の被害妄想」などという反応も多いですが、残念ながら、フェミニズムの世界的潮流として「新たな男らしさ(性役割規範)を求める」という方向に舵を切りつつあるのは、以下の記事で述べたように、紛れもない事実です。
それでも理解できなかった方は、この記事より前の記事も併せて。
こうした(表向きの)フェミニズム思想の転向には、第2波〜第3波で主流になれなかった勢力の復興、SNSによる草の根女性の発言力の向上など、様々な原因を挙げることができますが、やはり忘れてはならないのが「国際社会における穏健派イスラム主義の台頭」だと思います。すなわち対テロ戦争を通じて、イスラム過激派に比べて相対的に「穏健派」の発言力が高まり、それに連動したフェミニズム思想も広まってきたのです。
なぜ「イスラムは女性を大切にする宗教」と呼ばれるか
特に近年言われるようになってきたこととして、「イスラムは女性を蔑視する宗教ではなく、むしろ女性を大切に扱うための宗教だ」があります。「確かにコーランの『婦人の章』は女性の扱い方を厳格に規定したものだが、これがあるからこそイスラム社会における女性の安全は保たれているのであり、当人達も殆どは『抑圧されている』とは考えていない」と、そういう理屈です。
もちろんこれは我々から見るなら「慈悲的性差別主義」以外の何物でもありません。しかしこの言説も次世代再生産と非常に親和性が高いのは事実です。
ムスリム(イスラム教徒)になるためには、既にムスリムになっている2人の立ち会いのもと、信仰告白、すなわち「アッラーの他に神なし、ムハンマドはアッラーの最後の預言者なり(シーア派の場合はさらに、アリーはアッラーに続く者なり)」と唱えれば良く、唱えた者はその瞬間から、イスラムの共同体「ウンマ」に迎えられると言われています。
つまり、イスラム教は元来「共同体を重視する」宗教であると言えます。そうなると「共同体の子産み要員だから」女性が大切にされているにすぎない、と言えるわけです。「ウンマ」の語源が「母」であることは象徴的です。
対テロ戦争を動かした「4つの思惑」
対テロ戦争、それは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロに始まった、イスラム過激派のテロ組織と各国政府・自治政府との一連の戦闘のことですが、実体的には次の4つの「思惑」が一致して進められていったように思えます。
イスラム(特にスンニ派)の厳格な戒律を快く思わない、欧米的自由主義の下にいる人々。
イスラム主義の敵対的影響を憂いる、強権政治の指導者。広義には「アラブの春」で倒れた政権も含むが、ここで想定しているのは「(主に北西部にそうした脅威のある)五つ星の国」
ムスリムが多数派を握る社会で、「異教徒」・「不信心者」として排除されている人々。具体的には一部のシーア派、ユダヤ人、クルド人、コプト教徒など。
ムスリム社会の中の、「過激派」・「原理主義」に反発する人々。
前3者は根源的に「反イスラム感情」の影響があり、欧米的社会においてそれは「政治的にただしくない」ものです。結果、4つ目からの主張がメディアでも支配的になるのは容易なことでした。
とりわけ欧州では、元の社会とイスラム移民の軋轢が強まり、「我々こそが最も“西洋的価値観”に抑圧されてきた」と考える人たちが、テロ組織側の戦列に加わり、欧州内でも様々な都市で自爆攻撃を加えた経緯があります。こうしたムスリムの「包摂」は、社会的課題となっているわけです。
近年ではこのような、英語圏の子供向けに穏健なイスラムの教義を教える動画も増えてきました。英語が公用語の国はイスラム圏にもマレーシアやパキスタンなどがありますが、これらの国でも日常会話で英語を用いる国は皆無です。つまりこれらは「英語圏に移民したムスリム」向けであることは確かです。
信仰を捨てなかったフェミニスト活動家
対テロ戦争とフェミニズムの関係を語るとき、真っ先に出てくる人物といえば、この人でしょう。タリバン政権の女子教育制限に反対した、マララ・ユスフザイ氏です。彼女こそ、フェミニズムと穏健派イスラム主義を関連付ける重要な鍵を持つ一人です。
彼女の国連での演説は、このフレーズから始まりました。
すなわち、日本語に訳すと
これはコーランの各章を詠み始める際にも出てくる、イスラムの信仰を示す重要な一節です。つまり彼女はその信仰を捨てるつもりはないことが分かります。もっと言い換えれば、彼女は「女性への抑圧」の原因を「宗教の教義そのもの」に求めなかったのです。たとえそれが、共同体維持を重視し、ジェンダーを規定してきたとしても。
もちろん彼女だけがきっかけではありませんが、性役割規範は「ただしく」運用すれば「女性の権利」のためにもなる、という信念は、宗教を越えて共有されつつあるのではないかと思います。たとえイスラムの人口的増長を脅威に感じる側であっても、彼らに対抗して人口を増やすには、やはりハンガリーが「フェミ政策をやめた」ように、性役割規範の復活を念頭に置かなければなりません。結局は同じ穴の貉です。
例えば大きな批判のあった、「国際男性デー」に合わせて一部フェミ側論客が定めた「行動指針」に、真っ先に賛同を表明した一人は、キリスト新聞の編集長だったそうですが、これも決して偶然ではありません。
「いいとこ取り」をするための「宗教」精神?
さて、ここで御田寺氏の記事に戻りましょう。
有史以来、性別役割分業と皆婚規範の徹底は、次世代再生産を最も効率良く行うためのシステムでした。「宗教(特にアブラハムの流れを汲む一神教)の教義」は、その形成を大きく主導したと言えます。第2波〜第3波の、「地位向上・社会進出」を望んだフェミニストたちは概ねこのことを軽視してきたわけですが(これは肯定的な意味でも否定的な意味でもない)、近年ではフェミニストの中にも再評価する動きが明らかにあるように、そしていよいよ社会的にも顕在化してきているように感じられます。
こうした「性役割規範」はあくまでも「共同体持続のためのシステム」であり、決して「男が威厳ないし地位的優位を保つため」にあったわけではないのです。だからこそ「女性にとって不快で有害な部分だけを除去できるのではないか」という考え方が生まれたとも言えます。まさに「宗教」の精神を利用することこそが、氏の記事で言うところの「良いとこ取り」を可能にしているのです。
なぜ「新たな男らしさ」が問題なのか
ただ、御田寺氏も、「それ以上いけない」からなのか、この件の「真の問題」については、記事中でも触れられませんでした。その問題とは、
「『男らしさが弱者男性を苦しめる』のなら、『何かをすること』を強者男性に呼びかけたとしても、結局その命題を『再生産』することにならないか?」
ということです。実際、「女の安全」を口実にして、ナチスなどのユダヤ人迫害も、セルビア人によるボスニア人の民族浄化も、フツによるツチの虐殺も、嫌韓ネトウヨの在日コリアンヘイトも行われてきたところがあります。もっとも、ジェノサイダー側こそが女に暴行を加えていた例が殆どなのですが…。
こんなこと私も支持しちゃいませんが、やはりこれは繰り返し訴えなければなりません。共同体主義の視点から言えば、「女性」は第一義的に「子産み要員」なのです。性的魅力とか性的満足とかは二の次の話です。
これは男性学などでも言われていることですが、この社会には「男は妻たる女を所有してこそ一人前である」という風潮が、確かにあります。しかし、なぜそうしなければ「一人前」になれないのでしょうか。その答えは、結局「共同体の再生産に参画することが可能になるから」ということになります。逆に「男性の生命が社会的に蔑ろにされる」のも、そのままでは共同体の再生産に寄与しないから、という部分が大きいと思われます。
フェミニズムがあえてこれを利用するなら、「自分の言いなりにならない(あるいは「道徳優位性」的になることが不可能な)男を社会的に排除するためにやっている」と結論づけなければなりません。フェミニズムの敵は「男」ではなく「家父長制」だとも言われていますが、それならば、我々の真の敵も、「共同体主義」そのものです。