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リルケにふれて
今朝は少し曇っている。
久しぶりだと思う。
曇っていると部屋の明るさも少し暗い。というのは当たり前。
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新潮文庫
内面を探る。自分の内側に入っていく。この入っていく、という感覚はどういうものなのだろうか。リルケは説明してくれない。言葉で説明できる感覚ではないのだ。外に目を向け外から答えを期待することは、詩人としての成長を妨げるらしい。私の問いには、私の最も内部の感情が、最もひそやかな瞬間に、おそらく答えてくれるらしい。それからこうも言っていた。人類最初の人間であるかのように、見て、体験して、愛して、また失うものを言うように努めてごらんなさいと。すーちゃんを見ていると思う。かれは人類最初に車を発見したようにはしゃぐ。人類が最初に麺類を食べたように喜んでいる。人類が最初にしたようにチューしてくれるし、人類が最初にしたように外へ行くのを喜んでいる。人類最初の人間であるかのようにとは、赤ちゃんのような初々しい感覚をもって世界を見つめなさいということなのかもしれない。
偉大な写真家の作品は、見たことがあるけど初めて見たような奇妙な懐かしさを覚える。作品には人類最初の人間が撮影したような、初々しい、私たちが平凡なものに見えてしまう前の、私たちが見飽きてしまう前の、私たちが忘れていた、原初的な姿がそのまま写っているからなのだろう。その撮り方は普通ではない。普通を撮ろうとすると普通にはならない。
私の場合、なにかに初めて接した喜びを撮影しようとすると、何十枚と撮影することになる。だがそれでいいのかもしれない。たくさん撮影することが、そのものに対する純粋な愛なのだから、それこそ私の独自の見方なのである。
撮りすぎだという人もいるだろう。しかし、外に目を向けて、外に答えを求めてはいけないのだ。リルケが教えてくれている。
人類は、偉大な人類は、その後輩にも余すことなく自分の偉大さを分け与えてくれているものだ。私たちは平凡なため、その教えを高尚すぎるものか、あるいは一握りの人間にしか理解できないものだと思っているが、とんでもない。
偉大な芸術家ほど、リルケのように、平凡な言葉で、私たちがわかるように語りかけてくれているものだ。それがわからないのは、私たちの方に問題があり、世界を斜に構えてみているのかも知れない。
要は周りの目を気にせず、素直になればいいのだ。