輝きを失った遺産 : FINAL FANTASY XIV 黄金のレガシーについて
(8/24 追記 : 一部文章を修正しました。)
まえがき
FINAL FANTASY XIVの最新拡張パック「黄金のレガシー」は「暁月のフィナーレ」で華々しい結末を迎えたこのシリーズの新しい魅力を展開することに十二分に成功したのか?
……と問われたら、厳しい評価を述べざるを得ないでしょう。
多様な文化と独特の世界観を持つトラル大陸という新天地を舞台とした「黄金のレガシー」は既存のプレイヤーに新鮮な体験を提供する可能性を秘めていたのですが、本拡張で語られたストーリーは国内最大手のオンラインゲームサービスの「次の十年に向けて」を実現するための野心的な試みとしても、そして単体のロールプレイングゲームとして解釈しても課題を抱えているのは否定しがたいところがあります。
さて、本稿はその内容に言及していくものですが、基本的にメインクエストの物語を掘り下げるものであり、戦闘コンテンツやサイドクエストを処理するほどの体力が無いのでその辺りはご了承ください。
また、批評という文章の特性上、多方面のジャンルのネタバレを遠慮せずに含んでいます。FFの他のシリーズやFF14の「ハイデリン・ゾディアーク編」ならびに「SPEC OPS : THE LINE」や「ゼルダの伝説 夢をみる島」に関しては核心部の言及を本文で引用例として採用していたりします。
予防措置的に比較的新しいと思われる作品への言及は脚注に格納(隠れてないけど)するようにしてますので、そちらを読む際は注意してください。
恐縮だが、ラマチを王にしてくれないか?
本拡張のストーリー部の評価の"決め手"がウクラマトであるとの部分は、今回のストーリーに肯定的な方であれど、否定的な方であれど然して異論は無いのではないでしょうか。
もし仮に、彼女の唱える価値観や政治思想に無条件に心酔することができていたならば、本拡張の物語が白熱的であったことまでを否定するつもりはありません。
けれども、熱狂できなかった私の立場から語らせていただくと、一つの結末を迎えた先で「黄金」における「物語」の新たな主人公像を模索する試みとしては評価できますが、実態としては決して良いものでは無かったとの感想が率直なところです。
真っ先に挙げられる課題としては「物語」の主人公であるウクラマトを如何に描きたいかとの部分ばかりが独断先行してしまっていることで「ゲーム」の主人公の存在意義の空洞化と、それに伴って主体性の不在が発生し、誤魔化すように「プレイヤーキャラクター」と「ウクラマト」の視点が綯い交ぜにされてしまっている点でしょう。
それ故に主人公の選択肢が形骸化していたりとゲームならではの双方向性をも失っています。
特にFF14はプレイヤー自身のアバターを作成してゲームに主体的に参加するオンラインゲームであり、場面の操作対象を変更するのはさておき、中長期的な視点位置はプレイヤーキャラクターと不可分でしょう。操作キャラクターがシークエンスごとに変わるFF9の序盤や、一つの物語を多面的に追いかける「NieR:Automata」などと求められる物語の組み立て方が異なるのは言うまでもありません。
「黄金」の物語では物語の主役を割譲した先で「光の戦士」を脇役としてどう描きたかったのか、との意図がプロットの段階で躓いています。この部分の構造的問題をクリアにする為にも、今作の導入段階で必要だったのは、如何なる脇役であるのかという立場とその必然性の提示、物語に能動的に参加するだけの動機の提示だったように思われます。
この部分は 実際にパッチ6.55でウクラマトの依頼を受けるかどうか、というグ・ラハ・ティアとの会話で提示される選択肢の二つが前向きではなかった辺り、必ずしもこのイントロをプレイヤー側が肯定的に解釈するとは限らないと書き手も認識していたのではないか、と記憶しています。
しかしながら、この課題の達成も強い動機も不在なままに物語を進めていくことを本拡張は選択し、代替手段的にウクラマトの視点を私的なものであるかのようにプレイヤーに刷り込ませるのを選んだプロットは、物語を進行していく中で如実に違和感へとつながっています。
動機の不在が違和感を招いている事例としては7.0本編の「継承の儀」の冒頭シークエンスから発生しています。この場面でウクラマトに肩入れする動機として提示されているのは、ゾラージャやバクージャジャを”王にするべきではない”という消極的な理由でしかありません。
この「対立候補が相応しくないから代わりに王になる」との動機は一見それらしく見えますが、プレイヤー側の共感を得るには不十分でしょう。否定している彼らを相応しくないと看做すだけの関係性が主人公やプレイヤー側との間に形成されていないからです。
いや、この段階でもバクージャジャに関しては直接的なコンタクトがあり、ウクラマトのタコスを踏み潰した事例を極刑不可避の暴虐行為と採用すれば、それだけで動機として成り立っていると捉えることが出来る方もいるかもしれません。
その理屈を採用してもゾラージャ側問題は残っていますし、この段階で提示される彼に対する印象論は、あくまで世間知らずのお姫様であるウクラマトの主観的な意見と、クルルさんの超える力による曖昧な恐怖に基づいています。
これらは言ってしまえばポジショントーク的なもので、やはりそれを理由にプレイヤー側の動機として採用することはロジックとして非常に弱いです。
況してやこれまでのFF14の物語展開を考慮すれば尚の事、相互に先入観に支配されているだけではないかという疑念もこの段階では拭えません。ウクラマトのバックグラウンドもゾラージャのパーソナリティも十分に理解されていない状況で、一方的な善悪の判断に全賭けするのは早計に思う人も少なくないはずです。
しかしながら、この先入観は物語の中で省みることはなく「正しかった」判断として自動的に処理されてしまいます。故に動機として成立したとされるのは、詭弁のようにしか思えません。
これはバクージャジャの粗暴な振る舞いも含めてそうなのですが、寄り添う形でプロットの意図を汲み取らざるを得ない不自然さに疑問を覚えたプレイヤーほど、物語で保護的に扱われているウクラマトへの共感を持ちづらくなり、好感度のビハインドを序盤から抱え続けることになります。
振り返って解釈するとこの序盤の動機づけからしてウクラマトの思想・判断が「正しい」とほとんど無条件に首肯されるのは「黄金」全体を通して描かれるウクラマトに対しての過剰な無謬主義的な作劇の端点であったとまで言えるのではないでしょうか。
君は完璧で究極の偶像
このウクラマトが「無垢」で「無謬」であることを承認し続ける構造は本拡張の物語が”彼女を好きになってもらうこと”を前提としている故に最大公約数のユーザーからの好意を獲得する為の意図だったのだと察せますが……はっきり言ってしまえばこれはコンセプト段階での設計に難があるわけです。「エアリス使うやつは心が醜い」という方もいるわけですし。
上述したプレイヤーの存在の空洞化に加え、この構造を採用するに辺り、物語から瑕疵になり得る要素を極端に排除しており、承服出来ない文化と衝突する過程で高度な葛藤の体験や、真に折り合いが付かない事へ対しての挫折を描いていないことで主人公としての深みを描くことに失敗しています。
トラル大陸の多様な文化がドラマとして深い洞察や複雑な道徳的ジレンマを提示する可能性を秘めていましたが、それらも単純化されてしまいました。それは何故か。ウクラマトは常に「正しい」からです。
「双頭の教え」のエピソードは、この「画一的な正しさ」を書いてしまった失敗の典型でしょう。
本来であれば、異なる価値観や信仰体系との遭遇は、主人公の世界観を揺るがすばかりか、尊敬する身内の統治の不完全な側面の提示、文化的摩擦の表層的な解決と根本的解決の違いと多角的な問題を掘り起こす契機となったかもしれません。
しかし、ウクラマトはこの教えを表面的に理解しただけで、即座に「正しい」解決策を提示して成功します。さらによろしくないことに、周囲の人々もその解決策を無批判に称揚、協力し、結果として複雑な文化的問題が簡単に解決される陳腐な棄教RTAとなってしまいました。
その原因は何故か。
やはり、本拡張のプロットの中ではウクラマトは正しく、肯定されなければならないからです。
このような展開は例えば、チヌア・アチェベの「崩れゆく絆」のような作品が描く、文化の衝突と変容の複雑さとは対照的です。アチェベの小説では、植民地化による伝統文化の崩壊が、その過程の複雑さと苛烈な痛みを伴って描かれています。
一方、「黄金のレガシー」では「双頭の教え」に限らず、こうした文化的軋轢が表面的にしか扱われず、カジュアルに解決されたり、どこかエキゾチシズム的に消費されてしまっていますが振り返る事はありません。
さて、本拡張の不満を胸にここまで文章を追いかけてくれた方々は、こうした疑問も浮かぶのではないでしょうか。
”無謬主義的な取扱いをすることで、何故これほど物語に引っ掛かりが発生するのか”と。
確かに主人公がこれ以上ない”完璧”でも問題なく話が転がっている作品は探せばいくらでもあるでしょう(たぶん)。
しかし、こと「継承の儀」に関しての違和感の原因は分かりやすく、通過儀礼的構造を下敷きにしている事とのコンフリクトによるものでしょう。
「通過儀礼」としての不完全性
通過儀礼とはフランスの文化人類学者「ファン・ヘネップ」が使った言葉で、「子ども」から「成人」など、ある状態から別の状態へ移行する際に行われる儀礼の事を意味しています。
最も有名なのはバヌアツ共和国ペンテコスト島のナゴール(バンジージャンプの原型)ではないでしょうか。彼の地では、この行為を豊作祈願の行事と成人への通過儀礼としています。
我々に馴染みがあるような日本国内の事例を挙げると七五三や還暦の祝いは、共同体の内部での立場を確立するような形ではないにせよ、通過儀礼と呼称しても差し支えはないでしょう。
へネップはこの通過儀礼に於ける個人の社会的地位の移行を(1).分離、(2).過渡、(3)統合の三段階に分けています。
すなわち、現在の状況から切り離された後に、過渡期を通過して新しい立場に統合されることです。
この段階分類を見ると勘付く方もいるとは思うのですが、創作物においても通過儀礼的構造は典型的なフォーマットとして採用されています。中でもドラゴンクエスト5や天穂のサクナヒメのような貴種流離譚は分かりやすい実例ではないでしょうか。
その上で今拡張の「継承の儀」を「王になる為の通過儀礼」として解釈すると「分離」と「過渡」の過程に大きな課題を抱えているのは分かりやすいのではないかと思います。疑問に思う方もいるかもしれないので先に書いておくと、「分離」の過程にある未熟な人間が通過儀礼の完遂にメンターを要することは他の通過儀礼を題材にした作品を参照しても珍しくはありません。例えば、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」では、千尋に対してハクがメンターとしての役割を果たしています。
重要なのは、これらのメンター的存在を"あらかじめ用意されていた関係の外側"で獲得することでしょう。
しかしながら、「黄金のレガシー」のウクラマトの場合、本拡張のメンター的存在の主人公たちは幼馴染のエレンヴィルというコネクションを通じて得られたものでしかありません。これらの関係性は、ウクラマトが独立独歩で獲得したものではなく、既存の環境の延長線上にあります。
さらに問題なのは、これらの同行者たちの役割です。彼らは「蒼天」でのアルフィノに対するエスティニアンのように強烈な指弾を与えることはありません。代わりに、嬰児をあやすかのように無条件でウクラマトを承認し続けます。
これはとてもメンターとしての機能を果たしているとは言い難く、楽しい旅の同行者でしかないならば「分離」としての強度はますます乏しくなってしまいます。
この過程に一定の厳しさが必要なのは自分自身の価値観や思想や環境を喪失することで「擬似的にそれまでの自分を殺す生まれ変わり」が通過儀礼の意図にあるからです。前段をスポイルしてしまっていることは、その次に繰り広げられる次段の過程も予定調和的になっています。
それは他のFFシリーズのヒロインと成長過程と比較しても、ウクラマトの描写の浅薄であり、例えば、FF9のガーネットは自国と母親の過ちに直面し、王女としての責任、そして個人として生きることに対しても苦悩します。
FF10のユウナはブラスカの功績とスピラの因習に縛られながらも、最終的には父親は与してしまった究極召喚という「まやかしの希望」を拒絶することで自分自身の勇気を見出し、主人公に先行して父殺しの路を開きます。
本拡張で描かれているのは従来作品のヒロインらとは対照的であり、取り繕われる”外的な障害”に対して、彼女を中心に据えた保護的環境下でのレクリエーション的な体験をスタンプラリーのように消化するばかりに留まっています。「過渡」と呼ぶのが相応しいかと問われると首を傾げざるを得ないでしょう。
ウクラマトの旅には真の意味での挫折や深い内面的葛藤もありません。そして周りからの叱責を経験することもありません。ぬるま湯の中で「正しい」判断を下し、それを同行者も、物語も、無限に承認し続ける甘い夢のような構造になり下がっています。
故に、本来潜ませたかったと思しき「縦の旅行」のような作劇意図は半端にしか機能していませんし、要するに「通過儀礼を経由した成長譚のようでありながら、本質的には変化のない退屈な物語」になってしまっています。
結果としてこれは、我々に無意識的に浸透している物語構造からのフェイントのようになってしまっていることで引っ掛かりを覚えさせ、通過儀礼的な解釈としては「統合」におけるカタルシスの欠如によって決定的に共感を得ることに失敗したと言えるでしょう。
また「継承の儀」をレース形式にしてしまったことも、単純なプロット構成の判断に疑問が残ります。時間制限という急いてしまう動機を与えることはトライヨラという国家の成り立ちや各文化を深く理解するという側面を薄めてしまっています。グルージャジャの目的は、後継者たちに国の多様性と複雑さを理解させることで、後継候補者たちの足りていない部分の自覚と改善を促すことだったはずではないのでしょうか。
しかし、この過程が表面的な文化体験ツアーのようになってしまうことは本来の意図が十分に達成されていないようにも見えます。況してや食の試練のような、この様式を採用したことでのプロットエラーまで発生しているとなると、全体としての詰めの甘さを指摘されるのは仕方ないでしょう。
意味なきみそらの道化師たち
これほどまでにウクラマトに注力しすぎた弊害として当然ではあるのですが、主人公以外の他のキャラクターも描写不足で記号的立場に留まり、その存在の必然性が薄弱になりさがっています。そうなってしまった所以も上述した「主観と客観性の不安定さ」と「プロットの強度不足」に起因していると考えられます。
前者の問題は、ゾラージャの描写に最も顕著に現れているでしょう。物語の終盤に至るまで彼のパーソナリティが十分に語られることはなく、その終盤でも父親へのコンプレックスや「奇跡の子」という過大な期待に応えられなかった挫折感といった設定は表層的な開示に留まり、物語として語られることはありません。真に立体的なキャラクターとして彼を描出するためには、劣等感の醸成過程や他者の期待に応えられない恐怖、挫折の具体的な内実を丹念に、そしてドラマとして描写する必要がありました。
この部分の根本的な問題としてゾラージャも含めたウクラマトの過去の家族関係が十分に描出されていないのは今拡張の明確な失敗点でしょう。本作のテーマは「家族」「生きる」といった題材を採用したかったのは分かりやすい中で、これらを十全に描くことは出来ていません。このオミットはゾラージャ以前にウクラマトにも関わってきており、これだけ描写にウェイトを割いても彼女の明確な年齢(※1)やトライヨラでどのような育ち方をしてきたのかも非常にあいまいにしか分かりません。
そして、これが大きい問題なのですが本拡張の語り口は家族の来歴や関係性や彼女の背景が物語としてはプレイヤーにも自明のものであるかのように扱われている部分です。
この点はゾラージャよりもグルージャジャを参照した方が分かりやすいかもしれません。客観的に見れば為政者としても、一人(いや二人?)の父親としても疑義が残る部分が少なくないにも関わらず「勇気ある開拓者」「善き王」「尊敬に値する身内」として一面的に描かれており、誰の視点に近接しているかとなるとこれはウクラマトの視点でしょう。それを物語のあるべきところとして据えてしまうことは分かりやすい「主観と客観の不安定さ」の一つでしょう。
本来必要だったのは、プレイヤーの視座から見た複雑な家族関係の形成過程の開示ではないでしょうか。例えば、ルヴェユール兄妹の信頼関係の描写を契機に、ウクラマトが過去の話として自身の複雑な兄妹関係を吐露するようなシークエンスを設けていれば、ウクラマトの内面やゾラージャとの関係性、過去のエピソードから彼の抱える劣等感や自己否定をより立体的に描出するのは難しくないはずです。
後者の問題の代表例はバクージャジャとクルルさんでしょう。バクージャジャに関しては「改心予定の小悪党」というプロット上の役割に拘泥し、その変容のプロセスが急速かつ浅薄なものとなっています。
バクージャジャの改心はウクラマトの寛大さという「正しさ」を証明するための道具として機能しているようであり、一個の人格として確立させるのであれば、彼が抱える動機や内的葛藤を、遅くとも予定調和的にコーナと組んだ食の試練の段階で仄めかしておくべきでした。
クルルさんはゲーム本編以前の情報開示の段階では「黄金のレガシー」の中心人物であるかのようだったのですが、蓋を開けてみると「ウクラマト御一行様」の内の一人となってしまい、彼女の出生の秘密や黄金卿という謎解きは物語の主軸から散逸し、ウクラマトの物語の付随的なものとなっています。もし仮に彼女を主体としていたならば、本拡張で希薄になっていた「動機」の強度も確保することができていたのではないでしょうか。
これは痛みのない物語
さて、ここまでは主に前半部の問題に言及してきましたが、後半に突入することでそれらが解決されるかというと、残念ながらそういうことはありません。
むしろ、前半部で積み重ねた不安要素が顕在化し、物語の中心となるアレクサンドリアやリビングメモリーの描写から「オマージュとしてのクオリティの問題」も露呈し、「無謬主義的な取り扱い」というウクラマトに対しての問題点は物語全体へと拡散し「痛みのない物語」という形で結実してしまっています。
本来の目論見としては、前半部でウクラマトを感情移入の主体として確立し、後半で異形のアレクサンドリアを提示することで、プレイヤーにアンビバレントな感情を喚起させるのが前段階だったのでしょう。
そして、このようなディスリスペクト的なFF9の引用を打開させることでプレイヤー側に掲げているテーマ、つまり"Melodies Of Life"の歌詞を肯定させようとの構図だったのではないかとも推察は出来ます。この構造自体はヨコオタオウ的でもあり、成功すれば「NieR:Automata」のように印象的な物語体験を提供できる可能性はあったかもしれません。
しかしながら、それ以前から"ついてこれなかった"プレイヤーはウクラマトへの好感度に決定的なビハインドが生じてしまっている以上、仕掛けの前段階として両義的な感情を持たせることに失敗しています。
そのため、後半部の展開はアレクサンドリアに"攻め込まれた"という大義名分を獲得したことで侵攻を決意し、現地住民とのコミュニケーションを通じて寄り添う姿勢を一時は見せたものの、最終的には土着の宗教観や死生観を「正しくない」という判断の下に否定し、妥協案を追求することはなく撲滅することを選択した「痛みの無い物語」のようにも映ってしまいます。
ゲームメディアにおける「痛み」は説明するまでもなく単なる感情的な苦痛の強要ではなく、物語描写として優れた手法なのは言うまでもないでしょう。(※2)
例えば、カルト的な人気を獲得した「SPEC OPS: THE LINE」の物語は代表的な事例です。
ドバイを舞台にしたオーソドックスなシューターゲームかと思いきや、中盤に巧妙に誘導される白リン弾の発射によって物語は大きく転換します。
「闇の奥」や「地獄の黙示録」のような戦争の狂気を描き出すだけでなく、主人公ウォーカー大尉が陥った解離性同一性障害を巧妙かつ大胆にゲーム的な仕掛けと絡めるメタフィクショナルな物語に転換していきます。
本作の物語は「主人公の持つ英雄願望は正しかったのか?」という指摘であると同時に「一直線の物語で彼を操作していたプレイヤーはそれを他人事だと割り切れるのか?」という、主体性を理解させることで「痛み」を共有してくる追求してくる構造になっています。
「黄金のレガシー」のリビング・メモリーの構造により直接的に近しい作品としては「ゼルダの伝説 夢をみる島」が挙げられるでしょうか。
ゲームにおいて、プレイヤーは正しい行為をしているようでありながら実際はかぜのさかなを悪夢から解き放つことで、物語の舞台となる島全体を消し去るための行動を求められている構造になっています。
襲い掛かってくる敵たちは、実は自分たちの存在を守るために戦っているのであり、かぜのさかなを解き放つことは文字通り彼らの抹消を意味しておりこの冒険は「正義の物語」ではないというジレンマを突きつける仕掛けとなっています。
本作の巧妙な仕掛けはゲーム的な障害である敵役だけでなく、ヒロインであるマリンもまた、この世界の消失と共に消えゆく運命にあるという点でしょう。
彼女との交流を重ね、感情的な絆を形成したプレイヤーほど目覚めの先で彼女を「消してしまう」という葛藤を強いられるようになっており、この構造はプレイヤーに「ゲームのクリア」で獲得出来るのが何も達成感ばかりではなく、寂しさのような「痛み」でもあることを突き付けてきます。
本拡張も「リビング・メモリー」の物語にそういった痛みのような意味合いを持たせようとしていた気配は伺えますが、NPCとNPCのエモーショナルなシーンを展開することばかりに焦点が当たった結果として、発生したのは永久人を個の命として捉えた故のプレイヤーの葛藤ではなく、故人と悔いの残る別れをしたウクラマトやエレンヴィルの救済ばかりになってしまっています。
消し去られる永久人側が生前関係のある身内をもてなすことで「自分たちは彼らを覚えている」と世界を壊していく過程に正当化をしていますが、それらを承認するのは近接した倫理観の持ち主であり、結局の所、大多数の原住民が消し去れることをどう考えているのかとの部分には向き合っていません。この構造はグロテスクですし、自己憐憫的な物語でしかないでしょう。
この部分のもう一つの問題としてアレクサンドリアの住民の多くが死人の記憶を失っている設定が失念されているとしか思えません。それ故にリビングメモリーをシャットダウンしてしまうことは、生前からの知り合いやリビング・メモリーで接する機会のあったごく少数の永久人以外は、ヨカフイ族の死生観的を採用しても尚「決定的に殺す」ことになっています。
故に「自分たちが覚えているからいい」というスフェーンへの回答は赤点と言わざるを得ないでしょう。「誰に覚えてもらっているか」(※3)というのも同じぐらい重要だからです。
死者を忘れないことで個々人の中で生き続けるトライヨラと死者の記憶を実体として生きながらえさせるアレクサンドリアの対比構造を作りたかったのではないかと思いますが、結果的にこのような疑問を発生させているとなると、そもそもの話になってしまいますが、レギュレータを付けていると死人の記憶を失うという設定自体が必要だったのかは怪しいところがあります。
また「リビング・メモリー」で行った他の死生観を駆逐してしまう構造自体も本拡張がメソアメリカやアンデス文明をモチーフの一端として採用していることを踏まえると、かつてコンキスタドールたちが十字架を掲げ、勧告を行い、異教徒の改宗を迫った光景と相似形にあるかのように見えてしまい、首を傾げる部分があります。
ここで述べているのは「政治的な正しさ」を画一的に採用するべきだという指摘ではなく、現代的な倫理観を物語の推進力に採用するならばそういった視点での検討をしていないのは片手落ちで、この展開のノイズになってしまっている、という点です。
さらに、記憶の再現体は本当に生きていないと言えるのか(※4)との葛藤という段階を丁寧に踏むことが出来ていないことで、本作の前半部であれだけ尺を割いた文化の相互理解というテーマとも衝突を起こしているような印象すら受けます。この拙速な展開はこれまでの冒険にまで波及しての疑問を引き起こしています。
本作の終盤は『漆黒のヴィランズ』の終盤の反転的構造で「漆黒」での和解の可能性を模索していたエメトセルクが不完全な人間を最終的に否定したのと類似の道筋を「ウクラマト御一行様」が辿ることになっているからです。その構成を採用しておきながら、逆転的な構図のままに結末に辿り着くだけなら、新しい物語で描く必然性は乏しいでしょう。
加えて、身も蓋もないことを言ってしまうと、その図式に至る「生命エーテル」にまつわるシークエンス自体が「決定的な対立項が物語として必要不可欠だからこうした」とのプロットの都合があまりにも明け透けなのも引っかかります。
仮にこの設定を採用するにしても、決裂を余儀なくされるだけの説得力を提示する為に必要な模索、例えばウルティマ・トゥーレのイーア族やオミクロン族、ガーロンド・アイアンワークスやレポリット族は可能性を提示出来なかったのかといった要素が十分に探求されていない問題は残っていますし、それ故に本作は「暁月」で決着をつけた後で「アシエン側」に立ってしまうような奇妙で周回遅れなフレームを採用することになってしまっています。
過去という甘い幻想に縋ることから抜け出せないエメトセルクやエリディブスの葛藤のような「痛み」は「黄金」の後半の物語からは散文的にしか受け取ることは出来ませんでしたし、こうした関連作品からのズレ方というのはFF9の部分においても同様です。
確かにあの作品ではヨカフイ族の死生観的である「死者」から「生者」への継承的な物語である部分も存在してはいました。
しかし、それは、素直な「生命賛歌」的であると同時に、スタイナーやガーネットが「生きる事への苦悩」と向き合う物語でもあり、ビビやクジャがやがて迎える「死への慰め」としての側面も強く表れている物語でもありました。
だからこそ、あの場面で主人公であるジタンが打算抜きにクジャを救いに行くんじゃないですか。
つまり「要素の短絡的な引用」でもなく「逆転的な構造を採用する安易な作劇」でもなく、作品の掲げていた思想的部分のスポイルこそが最大の「オマージュとしてのクオリティの問題」であり、本作の物語の抱える瑕疵なのではないかと、そう考えています。
「黄金のレガシー」がもし、血を吐くような思いで「折り合いをつける話」であれば、分かり合うことが出来なかった「漆黒」を経由した故の結末になっていたかもしれません。
脚注
(※1) : 「幼馴染」のエレンヴィルが25歳である年齢設定や「16年前にセノーテに落とされた」というフンムルクの説明(前後の文脈的にもこれは乳児が誘拐されて投げ捨てられたり、母親や子守もろとも突き落とされたと言うよりは、一人で歩ける子供が落とされた、と解釈する方が自然)や、英語版だとウクラマトがナミーカを紹介する際に使う単語が"wet nurse"ではなく"nurse maid"であることから推察するに、ロスガルの成長過程が一般的な種族と同じであればウクラマトの年齢は20歳前後と解釈するのが自然ではあるとは思います。年齢相応の言動かはさておき。
(※2) : もっと直接的なのだと「Fate/Grand Orderの2部」は分かりやすいですね。異聞帯というあり得たかもしれない世界を切除していく物語であり、それは従来の人類史を回復する為の動機がある一方で、異なる世界を壊していく行為の残酷さは主人公を通じてプレイヤーに向かっても繰り返し言及されています。
特に6章はアルトリア・キャスターを主役に据えた通過儀礼的構造でもあるので「黄金のレガシー」と比較しやすい部分もありますね。
(※3) : ”君が生きている限り、いのちはつづく"という歌詞があるわけで。
(※4) : こういった部分が物語として重要なファクターになる「SANABI」とかでは、丁寧に向き合った事でヒロインの救済に繋がるわけで。要は他にこのような設定を起用している作品と比較しても……。