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勅使河原宏 砂の女 1964(ネタバレあり

岸田今日子が裸体で横たわって寝ている。砂でかぶれないように。
女性の性を感じさせるというよりは、空っぽの身体、動物の生身のフォルムだ。そこには空虚だけがある。

岸田今日子の演じる砂の女は徹底的に無抵抗な存在だ。毎夜、たまった砂を掻き出すという無意味な行為を受け入れて黙って続けている。シジフォスの神話のように。
岡田英次の演じる男に縛られて自由を奪われても、暴れもせず、抵抗も泣き言も一切ない。
きわめて異常な生活状況に疑問もなく、むしろ楽しげに諦念すらもなく暮らしている。いつかラジオを手にいれるのをささやかな楽しみにして。

岸田今日子が本当に見事だ。小柄で引き締まった小動物のような肉体、大きな目の表情は豊かだが、何を思い感じているのかは無気味でよく分からない。人間的というより、動物的な本能の反応だけがある。砂のようにただの無なのだ。一方で、砂のようにただの無になりきることで全てを飲み込み支配してしまう。
安部公房のイメージする砂の女を、これだけ身体性の深いレベルで表現できているのは、ほとんど奇跡的だと言いたくなる。稀有な役者だ。この映画化を完璧な完成度で成立させているのは、ひとえに岸田今日子の功績だろう。
勅使河原宏の斬新な映像や武満徹の見事な音楽も、岸田今日子の前にはただ平伏すしかない。

岡田英次との男女の営みも、現代的な性の悦楽とは程遠い、土俗的で本能的なものである。二人の身体の部分のアップを多用する映像。現代的な性描写よりも、むしろとてつもない生々しさとエロティシズムを生み出している。

岡田英次の男は市民的価値観の代弁者だ。当初は、ムラや岸田今日子の異常な論理、世界観に猛烈に反発、抵抗する。
ところが、岸田今日子との長い生活で次第に知らず知らずのうちに感化されてゆく。昆虫学者という市民社会では周縁的な存在だったので、もともとそういう素地はあったのだろう。
逃亡も企てるが、最後は自主的に逃げ出すことを放棄してしまう。最後の失踪通知は、彼がなんらかの形でムラに定着してしまったことを暗示している。

一見自由な市民社会を捨てて、不自由に思える自主独立的な共同体の価値観を選んだというようなレベルの話ではおそらくないだろう。
岸田今日子の砂の女は、自由を極限まで放棄した存在である。すべてをそのまま受け入れてしまう。世界に対する抵抗を完全に放棄した存在に、もはや世界はなにも害を加えることができない。エゴの求める自由を捨て去ってしまうことで、逆に無敵の自由を獲得してしまう。

それはまた、砂のあり方でもある。何の力もない無抵抗な砂が、人間が築き上げた都市を飲み込んでしまう。何にも支配されない。砂の自由。

映画に随所に挿入される美しくて無気味な砂の画像は、市民社会的価値観に毒されていない人間の極限的な自由を表現しているのかもしれない。

岸田今日子の女は、砂の女ではない。ただの砂だ。


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