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書く軸を定める文薬-ふみぐすり-(読むセッション)

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書く軸を定めていきたい時の「読むセッション」です。 読むと、自然と「真ん中」に還っていける… 日々のプロセスから生まれる、飾らないことばが あなたさまの自分軸にも立ち返るきっか…
最後まで全文読み放題の買い切りマガジンです。 まとめてお読みいただけることで、より内なる軸と繋がり…
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#自分らしく生きる

ちょっと弱音…(作家のつぶやき)

ひさしぶりかな、こんなつぶやき。 実はちょっと、いえかなり自信をなくしていました。 といいますのも、ライティングで関わらせていただく方々があまりに素晴らしすぎるから… おひとの美しい世界に魅了されて、ふと自分の原稿や本(もうすぐ4冊目を出版)に立ち返ったときに、つい 「なんだか、自分なんて…」と、筆がすすまなくなっていたのです。 「お人の世界の方が素晴らしくて、そして楽しくて」自分の世界になかなか戻れなくなっていたのです。 でもね、ふと目覚めたの。 「いやいや、

家族時間も素の自分も大切に

かけがえのない、家族。 そして家族時間。 でも、それでもこうしてnoteを書いたりしていられるのは「家族といるときの自分」も「物を書いている自分」も並列に存在しているから。 どちらかがトクベツになるのではなく、どちらも変わらない自分でいられること… そこにまるっと感謝して、なんとなくウソ偽りなくまるっと自分を生きられている気がしてささやかに幸せです。 「仮面」をかぶらなくていい… そんな生き方を、もっと広げて。 仕事をしているときも、友人といるときの自分もどこで

もし自分には「何もない」と思えたら…

これ、しょっちゅう思います。 わたしなんて… なんだか、報われないことばかりで いつになったら晴やかな人生を生きているのだと。 もう、なにもないのだったら、いっそすべて手放して 生まれたままの赤ちゃんに返って、ただただいつも笑って、泣いて過ごしたいとさえ思います。 でも、そんなわたしを支えるのはいつも「書く」力。 なんにもないと思えるそんなときでさえ、 なんにもない、何者でもない自分から書き続けて。 もちろん、叶えてきたこともたくさんあるけれど、 基本、「なん

その才能、選べるなら何に使いますか?

そう、選んでいいんです。 あなたのその才能、どう生かすか、生かしたいか… あなたのこころは、知っています。 そしてそこに、あなた自身の活かし方、自分もよろこび、お人もよろこぶ生き方の交錯answerがあります。 …才能? 「そんなこと」「そんもの私に…」「いえいえ」 でもね、多かれ少なかれ0.1㎜は自覚されていらっしゃるのではないでしょうか? そういう部分を、もっともう隠さずに生きていくこと。 その才能、誰に、またどんなことに使い、生かしたいか? もし、自分

究極の本音で生きるとすべてが調和する

真っ先に降りてきたワードです。 「究極の本音で生きると、すべてが調和する」。 ということは、調和しないとき、なにか自分のなかで不協和音がするときは本音を生きられていないとき。 いえ、本音にさえ気づけていないとき。 でも、真の本音に気づくと、ひとはなぜか優しくなれます。 そう、人の究極の究極の本音は、“愛”でしかなくなるから。 そこに、いろんな纏わりをつけて 建前や「~こうあるべき」の常識をつけて生きるから そこが曇りとなり、あなたの真の輝きがまっすぐ出てこられな

自分で後悔しない生き方を知っておく

後悔しない生き方をしていく、とても大切なことだと感じています。 では「後悔しない生き方とは、なにか」。 それは人と比べられないことです。 その答えは、ぜったい人と同じにはなれません。 わたしにとってのそれと、あなたにとってのそれは違うのだということ。 「右にならえ」の生き方をしていると、絶対に見つけられない。 自分で決めて、選んで、行動する。 書くと当たり前なように感じますが、これが一番むつかしいのだと。 一人ひとり、魂に宿っている幸せもよろこびも違うから

人は毎日生まれ変わる ~書いていると気づけること~

書いていて、書き続けていると たった一日でも、自分の意識がすごく先に進めていることがあります。 もちろん、なにも変わらないときも ときには後退するかのようなときもありますが でも、それらぜんぶひっくるめて「生きる」ということなのだと。 書く旅は、書く度ごとに 自分というコマを一つ先にすすめられる行為。 書き続けることは、まさに全自己受容の旅をつづけるということ。 こんなオモシロイことを、自分一人だけでひとり占めしていていいのだろうかと 時々ふと思います。 さぁ

「好き」でやっていることなら文句も出ない

ふと、降りてきたこと… 「好き」でやっていることなら 文句も不満も出ない。 「やれ」と言われてのことなら 文句と不満しか出てこない。 結局自発が大事なのだと感じています。 とてもシンプルですが、原点に還ることもとても大切。 「それをやっているのは、誰かに言われたからですか…?」 いいえ、わたしがオレが自分で決めて 選んだ道なのだと 自分で言えるとき、そこにはなんの不満も文句もなくなる。 あるのは、究極「楽しみ」だけ…♪ そういうあり方で、そういう心持ちで

素直な自分を表現できると福がくる

ほんとうの本音を知るって、なかなかむつかしいです。 自分では「怒っている」つもりが、ほんとうは 構ってほしいだったり。 自分では「愛したい」つもりが、ほんとうは 愛されたかったり。 いつもいつも、その奥にある部分と直結して生きることが ほんとうに自分の望みを、自分らしく生きる唯一の道である気がします。 でも、人はつい建前で生きてしまいます。 なぜか? それは、「建て前」という概念もなく、自分自身が本音に気づけていない場合が多いと思うのです。 だから、その感情や行

大きな自由と、出産のよろこびと

果てしない空… とてつもない自由を感じます。 いえ、本当はひとは誰しも自由なのですが、いま感じているのは 「大自由」… これは、大好きな出産をえられたときにいつも感じられる境地です。 そして、幸せ。 これからわたしは、何をしてもいい。 いえ、本当はいつもそうなのですが、 今回の境地は半端ではありません。 ここから、ようやく生まれていくものも生まれるものもがある。 まずは、たくさんの貯まっていることをやり遂げながら 次のステージへ。 人生の「出口」を見つ

万人に好かれる文章はない

太陽のように、万人に好かれる文章はなくて。 例えば「言い切る」と、 上から目線だ/なんだかシャクにさわるという方もいるかもしれない。 そして「ぼやかす」と、 物足りない/逃げていると思う方もいるかもしれない。 また「楽しく」書くと、 ふざけている/どうでもいい人と感じられるかもしれないし 「真面目に」書くと、 今度は硬すぎる/お高くとまっていると捉えられるかもしれない。 結局、何をどう書いたって 賛否両論が存在するこの世の中で。 わたしたちは、そう 「自分」 を生

純粋すぎると一般社会では生きられない? ~透明な涙を流せる働き方へ~

いろんな働き方がありますが、ずっと以前 「こころにウソ」をつく働き方をしたことがあります。 厳密には、お客さまにウソをついていたわけではないのですが 心のどこかでは仕事内容自体に「?」を感じていて。 でも、みんなしているからと、 「わたしも!」と頑張り。 「ちょっとくらいの違和感、ガマンしてこそ」 「みんなに出来ているのだから、出来ないわたしはダメ」と 懸命に合わせて働いていたことがあります。 でも、ある時、仕事中に 一滴の涙が… それはあまりに突然で、 「身体は正

泥のなかで光れるピュアさ

きれいな環境で きれいな服をきて ふんわり微笑んでいられるピュアさ よりも 泥んこの環境で 汚れた身体と衣装で 激しく叫べるピュアさ、純粋さというのがある “ひかり”がある こちらは、前者と違ってごまかしがきかない。 一見、わかりにくいけれど わたしは、こちらの方に本物のピュアさや光、癒しや美しさも感じます。 キラキラ よりも 泥んこ そこでこそ光れる、闇があるからこそ輝ける 蓮の花のように。 いったいどれだけの人が、そこに本物のピュアさを見つけ出せるのだろ

伝えたいことがある幸せ ~「書きたい」との違い~

今日は山の日ですね。 相変わらず「なんの日か?」よくわからないのですが 今日からお盆休みの方もきっと多いはず。 今回は(も?)、のんびり書きたいのですが いま幸せだなぁと感じていることは 「伝えたい」ことがある幸せ。 「書きたい」幸せじゃ、ないのです。 「伝えたい」ことがある幸せ… これ、似ているようでまったく違うのだと 今自分の体感をもって感じつくしています。 この微妙な違いを、自分のなかで感じられるようになると 「書く」はもっと、楽しく集中したものになれ