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#15 二元論が蔓延る世の中の苦しさ
「それは結局、どっちなの?」
そう問われるたびに、わたしは戸惑う。なぜなら、世の中には「どっちとも言えないこと」が無数にあるのに、多くの人はあまりに簡単に「どっちか」を求めてくるからだ。
たとえば、仕事を辞めたい気持ちと、辞めたくない気持ちがせめぎ合うとき。「仕事が嫌いなの? それとも好きなの?」と聞かれると、「嫌いだけど、でも……」と曖昧に言葉を濁すしかない。辞めたい理由もあれば、辞めたくない理由もある。仕事自体が嫌いなわけではないが、今の環境に息苦しさを感じている。そんな気持ちを説明しようとしても、多くの場合、「じゃあ、結局どっち?」と二択を迫られてしまう。
あるいは、「都会と田舎、どっちが好き?」と聞かれたときも同じだ。わたしは2拠点生活をしているが、都会の利便性を享受しつつ、東北の壮大な景色にも心を奪われるわたしにとって、「どっちが好き?」という質問はあまりに乱暴だ。どちらかを選ぶことで、もう片方を捨てなければならない気がするから。都会と田舎、それぞれに魅力があり、それぞれに息苦しさもある。それを言葉にしようとすると、「優柔不断だね」と笑われる。
二元論はわかりやすい。好きか嫌いか、賛成か反対か、白か黒か。物事を単純化すれば、思考は楽になるし、議論もスムーズに進む。だけど、世の中のほとんどの事象はグラデーションの中にある。「どちらでもない」という答えを認めるだけで、もっと世界は自由になるのに、世間は「結局どっち?」と決着をつけたがる。
これはおそらく、安心のためなのだろう。物事を白と黒に分ければ、世界はシンプルになる。グレーを許容するということは、「正解がひとつではない」ことを受け入れることでもあり、それはときに不安を伴う。「どっちかわからない状態」は、決定を先送りにするようで、もどかしいのかもしれない。だから人は、「結局どっち?」と答えを急ぐ。
だけど、たとえば空の色を見たとき、「青か灰色か?」なんて決める人はいない。夕暮れの空は、赤とも紫とも言い切れない。だからこそ美しい。世界は、もっと曖昧でいいのだ。
そう思いながら、今日もわたしは「どっちなの?」という問いに言葉を濁す。迷い続けるわたしの曖昧さを、いつか誰かが美しいと思ってくれたらいい。