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佐々木マキとは|手塚に狂人と、村上に天才と呼ばれた前衛漫画家

20歳のころ、旅行先の岡山・倉敷市で古本屋に入った。そこで手に取ったのが佐々木マキ作品の集成「うみべのまち」だった。「なんかどっかで見たことある絵やな」と思って、手に取ったのを覚えている。後から「あ〜村上春樹の『羊男のクリスマス』だわ」と気づいたんですが、当時は思い出せなかったんです。

なかを読んで、あまりの衝撃にひっくり返った。開脚後転2回かました後に華麗にロンダートを決めました。まさに「マンガ」に対する概念が変わった瞬間で「あ、こういうマンガがあってもいいんだ」と思ったんです。それから、ずーっと佐々木マキのファンをやっているわけだ。

今回はそんな佐々木マキさんについて、経歴を追うとともに、その前衛的すぎる作品の魅力について紹介させてほしい。なお、佐々木さんはもちろんまだご存命ですので、あくまで今日時点の経歴を紹介します。

佐々木マキの経歴 〜ガロで漫画家デビュー、手塚からの酷評〜

佐々木マキが神戸で生まれたのは1946年。手塚治虫が「マァちゃんの日記帳」で、デビューした年だ。少年時代から大のマンガ好きで「猿飛佐助」で有名な杉浦茂の作品を貸本屋で借りていた。貸本には、どちらかというとサブカルチャーなマンガ類である。

マンガや映画に親しんでいくなか、佐々木は京都市立美術大学に進学。デビュー前からイラストなどを描いている。すでに佐々木マキの西洋風な絵柄は確立していた。

家が裕福でなく、油絵が買えないという理由で日本画科に進むも、ほとんど大学に通うことなく中退した。20歳の頃は兄の影響からマンガ雑誌「ガロ」に夢中になる。

手塚がメインストリームで活躍していたとしたら、ガロを立ち上げた白土三平は完全にサブカルの人だ。「ガロ」という雑誌自体、立ち上げ期は水木しげると白土三平という貸本漫画家2人でほとんどのページを描いていた。

幼い頃から貸本漫画にハマっていた佐々木マキがガロにハマるのはある意味で正しいルートだったわけですね。彼はこのころ、白土三平の「カムイ伝」や、つげ義春のマンガを楽しみにしていたらしい。

そんななか、佐々木マキは読むだけでなく「よくある話」という自作の漫画を投稿。人肉食が普通になった世界を描いた作品だ。これがガロの編集者・長井勝一の目に留まり、デビューした。

「人肉食」という攻めたテーマはもちろん、佐々木マキのマンガはその独特の絵柄が目を引いたことだろう。当時のガロはとんでもないキャラクターの集合体。カニバリズムくらいでは、もはやびっくりしない。しかし佐々木マキの「絵」は、いま読み返しても唯一無二感がある。

このころはまだストーリーがあるが、21歳で出した3作目の「天国で見る夢」から明らかにマンガが不可思議になる。ストーリーはもはやなく、セリフも少なくなる。話のつながりがなくなり、それぞれのコマがほぼ完全に独立したものになるんですね。なのでストーリーもない。もはや画集を観ているのに近い。

これが当時は前衛的すぎた。いや、いまでもまだアヴァンギャルドだ。ある意味で、カリカチュアや北斎漫画みたいな、もともとの意味である「漫画(そぞろな絵)」に戻ったともいえる。

この"実験"について佐々木マキは「うみべのまち」の後書きでこう書いている。

詩の中でコトバとコトバが響き合うように、コマとコマとが響き合う、そんなマンガが描けないものか

極限まで物語をなくす。すると、まったく関係のないコマ同士が「読者の想像力」を媒介して奇跡的に関連し合うのではないか。そんなことを考えていたのだ。

佐々木マキはここからガロで作品をどんどん出していく。そしてその難解すぎるマンガは当時のインテリサブカル層から強烈に支持される一方、「わっけわかんねぇんですけど」と、同じくらいディスられたという。彼のようにまったく新しいことをやるときは、だいたいくっきりと賛否両論になるものだ。

ガロは基本的に「マンガ家に原稿料は払わないけど、好きなものを描ける」というスタンスだ。佐々木のマンガはあまりに攻めすぎていて「佐々木マキのページだけ金返せ」と電話まであったらしい。マンガ描いて赤字である。

しかし23歳にして長井勝一の推薦で、朝日新聞系列の雑誌にマンガを描くようになった。すると作品が手塚治虫の目に留まる。手塚治虫は「こんな狂人みたいな絵を描かせるのは今すぐやめろ。評価もするな」と文藝春秋に文句を発表。ガチギレだったわけだ。

もともと手塚は日本で初めて漫画に長編ストーリーをつけて「マンガ」と呼んだ人だ。キレるのも分かる。佐々木マキの漫画は手塚の真逆なんだもの。

それと手塚はそもそもガロ自体をめっちゃ嫌っている、というか嫉妬してた人なんです。ガロに対抗して「COM」を出したくらい。その辺の詳しい内容は以下の記事に書いています。

そんな影響力のある手塚の一言もあったのか、はたまた佐々木の漫画はキャラが強すぎて飽きられたのか、この辺りから漫画の仕事が減った。また佐々木自身「前衛はやり尽くした」と語っている。そこで佐々木マキは「稼げる」絵本の世界に入っていくわけだ。

佐々木マキの経歴 〜絵本、イラストレーターに〜

佐々木マキは1973年、27歳で絵本作家としてのデビュー作「やっぱりおおかみ」をリリース。絵本だが、コマ割りや吹き出しの表現もあって、佐々木のバックボーンを感じさせる同作は今でも売れ続けている。

そしてこの作品で彼の代名詞的キャラクターである「オオカミ」を使った。もともとオオカミは佐々木の漫画に出てくるキャラでもあった。観たことある人もいるでしょう。

私も一冊持っているが、絵本としてもまぁ斬新です。子ども向けかは甚だあやしいほど、退廃的なムードが漂っていてたまらない。「け」しか言わないし。表情もない。

その後、29歳の時には絵本「おとうさんがいっぱい」に挿絵をつける。これも有名な本なので持っている人もいるかもですね。

この頃からイラストレーターとしての仕事も入ってくるようになり、1979年には村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」の表紙を担当した。この後から村上春樹といえば佐々木マキというほど、彼の著作の表紙を担当している。

その後、現在にかけて精力的に絵本や、イラスト仕事をこなしている。最近だと「へろへろおじさん」「いないいないばあさん」などの絵本シリーズを出版している。御年74歳、まだまだ元気な方である。

「起承転結は嘘っぽい」という感覚

私は佐々木マキを漫画家として知ったが、彼を絵本作家として認知する人もいるだろうし、イラストレーターと思う方もいるはずだ。

それは彼がストーリーの人ではなく、やはり絵の人だからだろう。彼自身、ストーリーを考えるのが苦手で絵本をやめようと考えたこともあったそうだ。

その背景には「起承転結がどうも嘘っぽく見えてしまう」という感覚がある。「すごい」とは思うが「やろう」とは思わないという。これは、とても分かる。宮崎駿が「泣かせる演出は嫌い」と言ったのに近い。うまくまとめすぎると、冷めちゃうものだ。

だから彼の漫画には明確なストーリーがほぼなく、ずっと夢の中にいるようなフワフワした絵の連続だ。先ほどの「支離滅裂なコマの連続」とは、こんな感じ。

佐々木マキ「うみべのまち」より

画集ですよねもう。まったく話に関係のない絵が連続して現れる……というか話の筋自体がない。コマの輪郭もなんかボヤボヤしているし、余白も一定じゃない。

私はこれを観た瞬間に「すげえ」と声が漏れた。いやとんでもないものを見た、と思って心底感動したのを覚えている。しかも、すべての絵がハイセンスで、ナンセンス。漫画を「見る」という行為をしたのは、初めてだった。

そして佐々木マキの熱狂的ファンといえば村上春樹である。「風の歌を聴け」の表紙を描いたのは、村上側からの熱烈なオファーだったそうだ。

というのも、村上春樹は当時リアルタイムで佐々木マキの作品を見ていたらしく「初めて出す小説は佐々木さんの絵でなくてはならなかった」というほど衝撃を受けたらしい。

ストーリーの名手である村上春樹が、ほとんど物語のない佐々木マキに影響を受けまくった、という事実は不思議だ。それほどまでに、佐々木マキというアーティストの絵には言葉にならないアイディアやユーモアなどを発想できるのである。

日本一難解な漫画は、日本一没頭できる漫画だ

さて今回は、佐々木マキというアヴァンギャルドすぎる漫画家について紹介した。佐々木マキのマンガは日本一難解といってもいいだろう。分かろうとしてはいけない。脱力して、その世界の波に飲まれ、素直に溺れるのが正しい楽しみ方だと思います。

読み終わった時に「何が伝えたいんやこれ……」となるマンガは山ほどある。しかし佐々木の場合は読み始めた時、すでに「どうなるんやこれ」と思う。そして読み進めると、気づいたら深海の中を漂っているような心地になる。

この感覚は本当に不思議なんです。ページをめくっていると、途中で頭がふわふわしてきて、まるで自分が絵の中にいるような感覚になるんですね。

先ほど「漫画を見る」と描いたが、もっと大袈裟にいうと「漫画に飲み込まれる」んですよ。なので佐々木マキの作品はとても危険だ。最後のページまで捲らなければ、浮上できずに溺死してしまうに違いない。それくらい、すごく変な感覚になります。とても漫画を読んでいるなんて思えないです。

もしこれを呼んでいる勇気あるオタクの皆さん、ぜひ機会があれば、シュノーケルなんか外して、その唯一無二の作品に飛び込んでみてはいかがだろうか。

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