山の民の暮らしに学ぶSDGs
昆虫食が話題のこの頃。コオロギがスイーツになっているのを見て、ラオスを思い出した。ラオス北部タイとの国境近くでは、コオロギなどの昆虫だけでなく、リスやモグラといった小動物やオタマジャクシも食べるので、日本では見られない光景が広がっている。山間の街サイニャブリの市場で聞いた彼らの食とライフスタイルから見る、本当の意味での持続可能に気づく。
ラオスの食文化
ラオス滞在で訪れたのは、首都ビエンチャン、ユネスコ世界遺産の街ルアンパバーン、タイ国境近くのサイニャブリ。どこで何を食べてもとても美味しく、もち米を主食として作られるラオス料理は日本人の味覚によく合う。
カオソーイ
そのなかでも忘れられないのが、移動中に立ち寄った、ガタガタくねくねの山道の途中にある集落の小さなお店の、カオソーイ。
幅の広い米の麺と澄んだスープ。そこに辛めの肉味噌(豚肉と豆を発酵させた作られたラオスの味噌を痛めたもの)をのせ、てんこ盛りの生野菜を添えてだされる。
店主一家が化学肥料や農薬を使わず育てた野菜は、規格サイズに慣れている日本人にはワイルドに映る。野菜をちぎってスープに浮かべ、ライムを搾り麺とからめながら食べる。からめる香草や、ライムの量によって味が変わるので、飽きることなくずっと美味しい。途中で味噌を足したり、唐辛子をかじったり、一つのテーブルを囲みながらそれぞれ好きなように食べる、決まりのない自由さも心地がいい。
カオ・ニャオ
もう一つ忘れられないのが蒸したもち米。
ラオスの人たちの主食で、竹で編んだティップ・カオに詰められでてくるカオ・ニャオは、素朴なのにそれだけでもとまらない美味しさがある。そこに、酸味のあるラオスソーセージや、肉や魚を香草と炒めたラープが組み合わさると、無限に食べられそうな気がしてくるから不思議。
訪れた6年前はまだ、稲作の多くが無農薬無化学肥料。
そのため大量生産ができず安定的な収量確保が難しく、ラオスの農業政策は世界から遅れをとっていると言われていたが、これはいわゆる先進国からの視点。実際ラオスの人たちが困っていたかどうかは少し疑問。
昆虫、小動物
ラオスでは昆虫も小動物も、あたりまえに食す。
ルアンパバーンの観光客向けレストランで、アリの卵のスープとバッタのクリームパスタは抵抗なく食べられる。ただ、姿形がそのままのタガメはさすがに…。
ラオスの人から聞いたところによると、コオロギの素揚げは香ばしくビールとよく合うらしいが、タガメは特有の匂いがあるそうで、ラオスの人でも好き嫌いが分かれるのだとか。すべての日本人が納豆を好きではないのと、同じってこと。アリの卵もバッタも、シェフの腕のおかげで美味しくいただいたが、それはあくまで観光客向け。
メコン川が流れているとはいえ、山岳が多くを占める内陸国。貴重なたんぱく源である昆虫は素揚げや姿焼き、スープなどにするのが現地のスタンダードな食べかたで、乾燥させた幼虫は市場でも売っているほど昆虫食は身近。
昆虫の他にも、リスやモグラなどの小動物、カエル、オタマジャクシなども家庭ではよく食べられる。だからラオスの市場では、小動物もオタマジャクシも、川魚の横にシレっと並んで売られている。
日々の営みのなかにある市場
サイニャブリの市場にも、昆虫、小動物、オタマジャクシが並ぶ。どこに行っても何を見ても大して驚かないが、ここで見たモグラには少し動揺した。
なにしろ、生まれてから今までリアルにモグラを見たことがない。きっと以前は日本にもいて、農作物をかじっていたんだろうとは思うが、それは祖母から聞いたり、本で読んだ記憶しかない空想の世界のような感覚。
それが、目の前の丸いプラ容器のなかでモソモソ動いている。グレーがかった淡いピンクなのも、意外だった。市場に持ってくる時も、買った人が持ち帰る時も持ちやすいように、首には細い紐状のものがつけられている。その隣に並べられたリスはすでに捌かれ、腹側から開き乾燥させたような状態で売っていた。
ブラブラ見て回っていると、タイミングよくオタマジャクシを買っているお客さんに遭遇。聞けば今夜のスープにすると言う。ボウルのなかで元気に動くオタマジャクシを、金魚すくいの金魚のようにし持ち帰る。
市場には、野菜などとは別に肉を売るエリアがある。この日は午後から行ったため、残念ながらほぼ売切れ。日本のスーパーマーケットと違い、板を張った台に大きな塊肉を並べて売るのがここのスタンダード。気温の高いラオスでは、ほぼ売切れながら鼻をつくような匂いがエリア一帯に残っているので、長時間いるのは少しキツい。
サイニャブリに住む数少ない日本の人によると
全ての家に冷蔵庫があるわけではなく、肉や魚はその日に食べる分を買う。モグラやリス、カエルも、基本は自分で捌くのだそう。
スーパーに、スライスした肉や魚が衛生的に管理され、冷蔵ケースに並ぶ生活があたりまえの日本人にはとても不便に思えるが、自然の流れで生きていてecoを意識しなくてもいい暮らしぶり。なんだか羨ましい。
食べること生きること
ラオスという国
色鮮やかな刺繍をほどこした民族衣装で有名なモン族や、ヤン族、アカ族などたくさんの少数民族と、人口の約半数とされるラオ族、約49の民族が暮らす、ミャンマー、中国、タイ、ベトナムに隣接する山岳の多い内陸国。
都市へのアクセスが良くなかったり、民族ごとに生活様式が異なっていたりと、複数の社会的背景からも各地に伝統的な生活様式が残っている。
食に困る人がいないと言われるほど、自分で米と野菜を栽培(二毛作)し、余った分は市場で売るという、自給生活を送る人もまだ多い。だから市場には食糧が溢れている。農薬や化学肥料を使わないので、商業目線で見ると収量はそれほど多くはないが、自分たちが食べる分には困らない。
化学系薬剤の影響を受けていない土壌には、ミミズや昆虫の幼虫がいるからモグラがいて、除草剤を使わないので、昆虫たちには天然の天敵しかいない。川や池にも微生物が豊富で、カエルにとっても魚にとっても住みやすい環境が各地に残る。
サイニャブリもその一つ。
年に一度象祭りなるものがあり、その時期だけは海外からたくさんの人が来るので、ホテルやレストランもあるものの、宿泊したホテルではドルが使えず英語も通じない。フロント係は夕方になると帰ってしまうので、チェックインも遅れることができず、夜になるとホテル関係者は誰もいない。夜中に開いているラーメン屋もコンビニもなく、街全体が自然な夜の闇に包まれ静かだ。
アルコールを飲むことも、夜更かしすることもなく、静かな部屋でぐっすり眠り、ニワトリの鳴き声で目覚める朝は、禅寺にでも泊まったかのように清々しい。
体は食べたものでつくられる
イギリスの地方の街に滞在した時も、似たようなものだった。
時間になれば仕事を切りあげ、家に帰ってご飯を食べる。だからスーパーも夕方6時頃には閉まり、レストランやパブも遅くまでは開いていないので、寝るのも起きるのも必然的に早くなる。習慣ってすごい。
でもこれは本来、あたりまえのことなのではないかと思う。
文明の発展、産業とテクノロジーの進化によって、大量生産大量消費の時代になり、人が働く時間も長くなった。いろんな職種が増え、男性も女性も働くことがあたりまえのような社会になり、多くの人が効率や便利さを求めざるをえない環境になっている。
そのニーズに応え、あらかじめスライスされた肉、骨まで抜いて食べやすくしている魚、カット済み、下茹で済みの野菜やミールキットがどんどん増えていく。自分たちが口にする食材の原型も名前も知らない、わからない人が増えていく。果たしてそれは、いいことなのだろうか。
体は食べたものでつくられるとよく言うが、ラオスでは、ポッチャリ体型の人を見かけた記憶がない。農作業など体を使う機会が多いというのもあるとしても、ライフスタイルと食事が大きく影響しているのではないかと思う。
何を基準に食べるものを選ぶのか
世界的に食糧が不足するとも言われて数年。家畜のゲップが温室効果ガスが多く含まれているからと、人口肉や培養肉、ゲノム編集食品の開発とともに、昆虫食の開発などフードテック産業の成長が著しい。
農業も、化学とテクノロジーを活用し、人の手をあまりかけずに収量をあげる農法と、無農薬、自然栽培、有機農業といった化学やテクノロジーに頼らない農法に大きく分かれていきそうな流れ。
仕事、子育て、家事、何かと忙しく追われるかのように生活している現代の私たち。ラオスのように、自然のサイクルのなかでストレスなく育ったものと、人の都合で操作され自然のサイクルに関係なく育てられたものと、感じる美味しさが同じだとすれば、価格帯が同じだとすれば、人はどちらを選ぶのだろう。
どちらを選ぶかで、人の体も自然も未来が変わる。
人の体と心の健康も含め、持続可能な社会、世界、地球という大きなサイクルの視点を持つ人が、日本にはまだ少ないと感じることが多い。
食は全ての生態系とつながっていて、人の命も地球の環境も未来につなぐことができるもの。ちゃんと考え判断基準をもって食べるものを選ぶことも、これからのSDGsの向き合いかたの一つとして、とても大事なことなのではないだろうか。