見出し画像

【戦争】太宰は太平洋戦争をどう考えていたか?

十二月八日

きょうの日記は特別に、ていねいに
書いて置きましょう。昭和十六年の 
十二月八日には日本のまずしい家庭の
主婦は、どんな一日を送ったか、
ちょっと書いて置きましょう。
十二月八日。早朝、蒲団の中で、
朝の支度に気がせきながら、園子に 
乳をやっていると、どこかのラジオが
はっきり聞こえて来た。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は
今八日未明、西太平洋において
米英軍と戦闘状態に入れり。」
しめ切った雨戸のすきまから、
まっくらな私の部屋に、光の
さし込むように強くあざやかに聞えた。
二度朗々と繰り返した。
それを、じっと聞いているうちに、
私の人間は変ってしまった。 
強い光線を受けて、からだが透明に
なるような感じ。日本はけさから、
ちがう日本になったのだ」

これは、太宰治の佳品、
『十二月八日』という短編です。
おしゃべりな話ぶりに書かれてるから、
大変僭越ながら、
部分的に抜粋しながら、
要点だけを引用させていただいた。

とある作家の妻という視点によって、
1941年の真珠湾攻撃の一日を
民衆はどんな模様で過ごしたかを、
うまくすくい上げている箇所です。

中国とはずっと十数年もの間、
戦闘は膠着状態に陥っていたため、
12月8日、とうとう日本は
米英との戦いに舵を切ったこの日を、
太宰はしっかり書き記そうとした。
人によっては、
気持ちが烈しく高揚したり、
一条の希望の光を見い出したり、
真珠湾攻撃の「勝利」を
積極的?に受け取っている人が
実に多かったらしい。
実際の1941年には、
反戦思想なんて、
戦後ドラマが描くような、
正義の人なんて
あまりいなかったようなんです。

この作品の語り部の夫人のように
真珠湾攻撃の「勝利」に
スピリチュアルな明るさ、
感傷的な明るさを見出したのは、
この夫人が特別だった訳ではなく、
どうも日本人の多数だったようです。

色んな作家が日記にそうした類の
実感を書き記しているからです。

この時代には、
軍部の検閲が厳しかった、 
ということよりも、
高揚した民衆から非難されるのが
いちばん恐ろしかった、、、
この「十二月八日」が収録された
『ろまん燈籠』新潮文庫の巻末解説で、
太宰研究の第一人者、
奥野健男がそう書いています。

太宰治は、
軍部や高揚した民衆から 
怒りを買うこともないよう
気をつけながら、
一方で、武者小路実篤のように
戦争に拍手喝采することもなく、
また、多くの作家のように
作品発表を辞めることもなく、
発表をし続けた、唯一の作家、
とも言われています。

戦争といえば夏のイメージ。
だから、毎年、冬にある
真珠湾攻撃の記念日は
激戦のイメージがピンと来ませんね。
アメリカ、イギリスを敵に回して
開戦した大戦争の記念日だから、
忘れないでいたいですね。

それから、太宰治の 
この短編をちょっと読み返したい。

「十二月八日」は
『ろまん燈籠』新潮文庫に収録。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?