【小説離れ】小説が「共通言語」によみがえるには?
ふと思ったんです。
今では毎日、ほぼ身辺雑記を
書いている私も、思えば
20代は週一くらいのペースで
短編小説をもう呼吸するかの
ように書いていました。
書かないと前に進めない、
呼吸もできない、そんな日々。
全部、恋愛小説でした。
恋人を事故で失った女性とか、
彼の浮気で毎回リスカする女性とか、
太宰治の奥さんが主役の話とか。
全部、20代~40代の女性を
主人公にしてました。
その方が、自分の中で一番
言いたいことが書けたからです。
女性を語り手にしたほうが、
自分を解放してやれたのです。
でも、30代になると、
書かなくても生きていけるように
なっていきました。
ある日突然そうなりました。
そうなった原因はわかりません。
架空の話、フィクションは、
いわば「人間」を創り上げ、
また架空の「仲間や家族」を創り上げ
また、架空のできごとを創り上げて
自分が一番言いたいこと、
人に聞いてほしいことを
アピール?解放?
していたわけですね、きっと。
それは日記を書くのとは違って、
非常に精神を集中させ、
精度の高い状態をキープさせ、
深い井戸を掘り下げていくような行為。
抽象度や普遍性の高い物語は
大勢の人に有効な語りになりますね。
エッセイはこの私という
人間の半径3メートルの話に
縛られてしまうので、
汎用性に関しては非常に狭く、
限られたものになってしまう。
でも、抽象度の高い、
精度の高い普遍的なフィクションは
半径が何千メートル先にいる人にも
共感や主張が伝わるものになる。
それが可能になる、、、、。
だから人はフィクションや小説を
昔から好きで愛好家も多かったのですね。
特に19世紀、20世紀は小説の全盛期。
小説が我々一般人に及ぼす力も絶大でした。
ある意味、奇妙な特別な時代が
たまたま?あったのですよね。
それ以前は、短歌や詩歌や戯曲や
舞台が文学の中心でした。
19、20世紀小説をあまり過信したり
過大評価してしまうと、
小説がいつまでも強く大きな影響力を
もつと信じたくなってしまう。
でも長い歴史で見れば、
小説がそんなに多くの人間に
好まれていたのは、あくまで
その200年だけで、
18世紀まではあくまで
ごく一部の人のためでした。
今は、21世紀に入って、
ネットもあまねく広まって、
個人主義がライフスタイルにも
ビジネス世界にも普及したおかげで、
考えも嗜好もバラバラになって、
よく言えば「多様化」、
悪くいえば「細分化」されました。
「共通言語」としての創作は
とても難しい時代になりました。
一方で、音楽的な、
またビジュアル的なInstagramや
Youtubeで自己表現する時代。
ビジュアル・デバイスや
音楽ツールと連携していくか?
または、それらには絶対にできない
表現方法を見つけていくか?
小説がよみがえるには
小説好きな人が細部の端々に
どれくらい普遍的な内容を
獲得できるかに
かかっているかもしれません。