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文豪作品をツッコミながら読むセンスは健全だ?!

中島敦の作品と出会ったのは、
教科書に載っていた『山月記』が
きっかけだった。
「なんでこれ、
教科書に載ってんだろ」
というのが私の疑問であった。

教科書が推奨する狙いとしては
「自尊心と孤独について、
またそれゆえの挫折と悲哀について」
といったところだった。
……というのが曲者で、
『山月記』に対する本質的な感想は
初読のときから変わっていない。
ひと言で言うと、
「変な話だ!」だった。
まず虎になるのが変だ。
草むらに隠れた虎が喋るのを聞いて
即座に旧友の声だと思い当たるのも
変だ。
それを言うなら、
虎が漢詩を詠むのも、
虎に妻子の面倒を頼まれて
ふたつ返事で引き受けるのも、
とにかくもう、なにからなにまで
変だ。
文章は硬質で隙がないのに、
内容はブッ飛びまくっている。
高校生だった私たちは笑い転げ、 
すごい小説だと語り合った。
飽かず行間を読み込み、空想した。

……………………

これ、実は私が書いたものでは
ありません。
文豪・中島敦への熱くユーモラスな
印象をこう書いたのは、
三浦しをんさんです。

三浦しをん
『本屋さんで待ち合わせ』
だいわ文庫収録、
「石ならぬ中島敦」です。

文豪の作品に対して、
笑えるポイントを見つけたり、
人物キャラに痛さを見つけたり、
ユーモラスな展開に、
説得力の欠乏を感じたり、
そうした向き合い方で
文豪を読める人が健康体では
ないでしょうか?
文豪を崇めるようでは、
まだまだ読解力が育ってない。

ここ何回か、文豪について
記事を書いてはいたのですが、
毎日、朝から晩まで、
文豪について深刻ぶって
考えてしまったためか、
だんだん文豪に
イヤ気がさしてきました。

もし、三浦しをんのような
健康な心で読んでいたら、
文豪きらいにはならなかったはず。

私はいまだに文豪について
笑えたり、痛さ感じたり、
笑い転げたりしたことができない。
そんな余裕はできないまま。

でも、いつかは、
健康な心で、健康なセンスで
文学に向き合えるようになりたい。
漱石や三島や大江健三郎には
笑えるポイントが実はいっぱいある。
ただ、私はつい、文豪たちを
崇めるスタンスで見てしまう。

純文学なんて、
ツッコミを入れる所が
いっぱいなのを、
普段の読書では、
ついつい、ツッコミ部分には
目をつむっているってことですね。

私は三浦しをんのような
健全な心を、1日も早く
獲得したいと願ってます。

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