読書とは、濃密な塊を受け取ることだ?!
今日、本屋さんで、
不意を突かれた。
「(この本の)ページを閉じたとき、
きっと誰もが、濃密な塊を
受け取ることになる」
魂ではなく、塊(かたまり)と
書いてあるのが良い。
そんな文章を書くことができたら
どんなに楽しいだろう。
私は、自分のうちに
獰猛なケモノも、飼っていない、
ただただ新聞みたいな説明調の
文章しか書けないが、
だからこそ、そんな塊に
憧れるのかもしれない。
だから、濃密な塊を、
カメハメ波のように(笑)、
深い印象を与える文章を
読む人に送り届ける、
そんな達人になりたいと願う日々だ。
向田邦子さんのような
スマートでスキのない文章ではなく、
幸田文さんのような、
クネクネした、
素材感のある文章の方に
憧れてしまう。
「言葉で容易に説明できない
その塊は、読者個々の体内を
長い時間掛けてさまよう」
容易に説明できないからこそ、
読んだ人の体内に、
長い時間、宿ることになる文章。
それは、文を書く人間にとって
とても幸せなことだろう。
塊を送り届ける。
それこそが、文章を書く人の
究極の悲願ではないかしら。
少なくとも私はそうだ。
そのためには、
体内にケモノや野草の如く
伸び伸びと生きた時間が
私の中で蓄積されなくては
ならないでしょうね。
塊を送り届けるためには。
ちなみに、
上記で引用したのは、
絲山秋子『御社のチャラ男』
講談社文庫に解説を寄せた
木内昇さんの文章でした。
絲山秋子さん。
『ばかもの』『薄情』『沖で待つ』等
たまに読みたくなるんですよ。
繊細な心理描写が巧みな方で。
決してベストセラーになる物語は
書かないかもしれないけれど、
ユーモラスな作風の書き手で
あることはまちがいない。