【言語】日本語は非論理的って本当ですか?
「日本語は非論理的だ」。
という話はいったい、誰がいつ、なぜ、
言い出したんでしょうか?
私(54才)が中学生時代、
かれこれ40年前は
欧米の音楽シーンが全盛期でした。
マイケル・ジャクソン、
マドンナ、
プリンス、
デビッド・ボウイ、
カルチャークラブ、
クイーン、
ディランディラン、
シンディー・ローパー、
ブルース・スプリングスティーン、
U2、などなどが勢いがあり、
彼らの名曲をリアタイで聴いてました。
あの頃は、
今から40年前ですが、
音楽がきっかけで、
歌詞の英語に触れ、惹かれ、
覚えていく中学生が多く、
英語に憧れていく流れがありました。
教科書から触れ始めたら
英語もきっと苦手になったでしょうに、
音楽シーンから英語に触れ始めたら
英語は憧れの対象になれたんですよ。
いまだに「日本語は非論理的だ」
という偏見が信じられていることは
私たち昭和40年代生まれが、
責任があるかもしれません。
英語には、
ただ憧れるばかりではなく、
明晰な批評力も併せもって
英語に向き合うべきでした。
それにしても、なぜ、どうして
日本語は非論理的だとされたでしょう?
本で調べると、明治時代以来、
英語コンプレックスが
日本人にはあって、続いてきたらしい。
それにしても、日本は非論理的なのか?
英語みたいな論理性はないかもですが、
日本語ならではの論理性は
きっとあるはずなんですよね。
言語は必ずシステムですから。
何万人もの人間が使える約束事の
集積なはずですから。
非論理的でないなら何千人が
使えることはないはずですから。
話はちょっと変わりますが、
英語には、
シロをクロと言いくるめる
討論的な論理性があります。
大統領選での討論会を観ていたら、
つくづくショックを受けますね。
英語圏では、討論する習慣が盛んで
ディベートが発達してますね。
でも、日本語では、
シロをクロと言いくるめる論理性は
ないと思われていました。
それが、最近は
ディベートを学校のカリキュラムで
習うようになったり、
ホリエモンやひろゆき等が
やたらと「論破」「論破力」を
広め出したのは、まだ新しい。
たしかに、最近は
日本語にも、力ずくで相手を
説き伏せる力は
備わってきたかもしれない。
でも、日本人の倫理性では
まだ相手を論破して倒すには
醜さが感じてしまうんですよね。
感性としてですが。
それにしても、
日本人ほど自国語を、
長いあいだ、非論理的だと、
コンプレックスにしてきた民族は
いないでしょうね。
自虐的でした。
だからこそ、
論理的であろう、
非論理的にはなるまいと
日本のインテリは頑張ってきました。
論理的ではない文章や会話は
頭が良くない、みたいな
非難めいた印象に見えてしまう。
だから、
頭が悪いと思われたくない人は
情緒や感性、感覚を
論理という鎧で包んでいる。
その最たる典型人が
三島由紀夫ではないか?と、
密かにずっと感じてました。
とても聡明で明晰な人間で
あろうとして、
マグマのように心の奥深くにある
感覚や感情、情緒を
抑え気味にしているような
背伸びしてる感があります。
頭が悪いヤツと思わるのは
三島には耐え難かったんでしょう。
日本語は非論理的だと、
民族ごと洗脳されてきた
近代日本の最後の悲劇人かな(汗)。
まあ、日本語には
日本語らしい論理性がある、
ということを、
まだ私はみなさんに
この記事でわかりやすく説ける力は
ありませんが、
それはいつかの宿題にさせて下さい。