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ままならぬ日々を支える「背骨」―『推し、燃ゆ』宇津見りん

『推し、燃ゆ』 宇津見りん/著 河出書房新社/刊

印象的なコーラルピンクの表紙カバーをめくると、鮮やかな青色が現れる。
主人公の「推し」の担当カラーである、青。
「あたし」という「肉」を支える「背骨」の色。

小説の中でも、現代作家の「純文学」作品に手を出すことって、普段なかなかないのだけど、この本は、なんとなく気になっていて。
気がついたら、芥川賞候補作になっていたので、発表される前に読まねばなるまいと、先週、慌てて買ってきて読んだ。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。

書き出しのテンポに引きこまれる。

「推しが燃えた」……現代の読者は、この一文を読んで「有名人がネット上で激しく非難されている」情景を思い浮かべることができるだろう。
しかし、10年前、あるいは10年後に、これを読んでもあまりピンとこないかもしれない。
今、この時代を切り取った日本語。書き出しだけでなく、作品のそこかしこに、現代を生きる人々の、俗っぽい息吹を感じる。
それゆえに生々しい。

「推し」とは、なんだろう。
おそらく、女性アイドルグループのファン界隈から出てきた言葉だ。グループの中のイチ推しのメンバー「推しメン」、略して「推し」。
今では、もっと広く、好きな人や物を指す単語として定着している。
なんとなく「ファン」よりも能動的なエネルギーを感じる言葉だ。

私は、アニメや特撮作品のファンだったり、まあ、一応、図書館の仕事をしていたりするので、創作の世界・芸能の世界に焦がれることは、ままあるし、特に、心惹かれたキャラクターや演者、作者を、便宜上「推し」と呼んだりもする。
しかし、私の場合、文字通り「推し」を、他人に推し勧めたいかというと、必ずしもそうではなく、憧れや尊敬の念から、疑似恋愛に近いもの、応援や共感まで、その時によって様々なので、「使い方、合ってるのかなあ」と首をかしげながらも、「推し」という言葉を便利に使ってしまっている。

強いて定義するなら、私にとっての「推し」とは、「深く知りたい存在」ではないかと思う。
「推し」が、何を見て、何を感じて、どこへ向かうのか。その一片を、彼らが表現するものの中から捉えたい。
そういう意味では、「作品も人もまるごと解釈し続ける」という本作の主人公の推し方と、少し通じるものがあるのかもしれない。

本作の主人公・あかりは、現代を生きる女子高生。
おそらく、なんらかの発達障害を抱え、学校でもバイト先でも、ままならない生きづらさを感じている。
家族も、それぞれ自身の悩みがあり、あかりの現状への理解やフォローが充分とは、お世辞にも言えない。

そんな彼女が推しているのが、男女混合アイドルグループのメンバー・上野真幸。
子役出身のアイドルで、あかりが幼少期に夢中になった舞台・ピーターパンの主役を務めていた。
偶然、舞台のDVDを見返し、彼があの時、自分の頭上を飛んだピーターパンであることに気づいた日から、あかりの推し生活は始まった。
あかりの友人・成美は、触れ合えるメンズ地下アイドルに熱中しているが、あかりは推しとの触れ合いよりも有象無象のファンであることを望む。
推し始めて、一年。けして長い月日ではないが、真幸はすっかり、あかりの生活の中心となっていた。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

あかりのように、明確な診断書はなくとも、日々の生活に、ままならなさを感じない人など居ないだろう。
とかく、この世は生きづらく、それでも明日はやってきて、どこかで帳尻合わせをするしかない。
誰かにとって、それは家族や友人との時間かもしれないし、お酒や煙草のような嗜好品、食事、スポーツ、買い物、あるいは、ギャンブルだったりするかもしれない。
あかりにとっては、それが「推し」だった。

日用品を推しのイメージカラーである青系でかため、散らかった部屋の中で推しのグッズを積み上げた「祭壇」だけは綺麗に保ち、十二星座占いでは推しの星座の順位をチェックする。
一度でも、誰かを推した経験のある人は、多かれ少なかれ、あかりに共感する部分があるだろう。

(前略)自分の星座が見ないまま出発した。興味がなかった。

自分の体力・お金・時間を切り崩して、推しを推している時だけ、自分の存在価値を見出だせる。生きている実感が持てる。
傍から見れば、一見、不健康であっても、本人にとっては満ち足りた瞬間。自分が自分であるために、大切な軸。背骨。

見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。お互いがお互いを思う関係を推しと結びたいわけじゃない。

それが、上手く機能しているうちは、まだ良い。

しかし、そこに飛びこんできたのが、冒頭の炎上騒動である。
なぜ、上野真幸はファンを殴ったのか、どういう経緯があったのかは、わからない。
推しが炎上したからといって、あかりの生活も急には変わらない。
だけど、少しずつ、少しずつ、皺寄せはやってくるのだ。

「推しは命にかかわるからね」

あかりの生きづらさの原因は、真幸の炎上とは直接関係ないけれど、炎上事件の余波が、推しの状況に変化をもたらすにつれ、あかりは否応なく、推しというフィルターを通さない、自分自身と向き合わなければいけなくなる。

誤魔化し誤魔化し「背骨」によって保っていたバランスが揺らぐ。
心のありようを、他人に預けたツケがくる。

推しがいない人生なんて考えたこともないけど、推しがいなくたって人生は続く。
ああ、無情。

こんなにも、ひりつく生々しい物語を、奇をてらわず、格好つけず、生々しいまま文章に落としこめる、著者の覚悟と筆力が凄まじい。
だって、私が、著者と同じ21歳だったら、泣いてしまう。
上手く大人になれない。なりたくない。本当の自分なんて向き合いたくない。目をそらして、背中を向けて、耳をふさぎたい。これは、そういった物語だ。

だが、著者は、最後の最後に、希望を残したように思う。

あかりの歩む道は、これから先も果てしなく険しいだろう。
それでも、彼女は小さな一歩を踏み出した。
その一歩を踏み出すために、彼女が、推しを推していた日々は、必要だったのだ。時間はかかるだろうが、きっと無駄にはならない。

あかりにとって、そして、すべての推す人にとって、推しの存在が、救いか呪いかはわからないけれど。

……というか、それがわかるなら、オタクやってないわなあ。


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