【分野別音楽史】#09-3 (コンテンポラリー)R&B の系譜
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
前回は、ドゥーワップからソウルやファンクを経てディスコまでの流れを追いました。さて、この次にどの分野を取り上げるべきか?というのは、実は非常に様々な見解があると思います。
具体的な選択肢を言えば、ディスコのあとを継いだハウスやテクノなどの「クラブミュージックの系譜」、もしくはブラックミュージックの重要な1ジャンルとしての「ヒップホップ史」、そして、モータウンなどのソウルの流れを受け継ぎ、ヒットチャートの王道を占める「ポップス」としてのR&Bの系譜です。
前回の記事の最後に触れましたが、ディスコからの流れを汲むのであれば、その次はハウスミュージックやクラブミュージックの歴史へと繋がる系譜となるでしょう。ですが、クラブミュージック史はアメリカ音楽史から少し外れ、ヨーロッパ中心の潮流にも触れることになるため、タイトルで #09-X として括っている流れ全体を考えると、ここでは後の記事に回そうと思います。
さらに、「ブラックミュージック史」という単語で捉えたとき、ソウル、ファンク・・・と並んだその次に来るのはヒップホップであることも多いですが、ヒップホップはヒップホップで今や巨大な「1ジャンル」となっており、黎明期のアンダーグラウンドな時代から現在の隆盛に至るまで独自の体系を成しているため、そっちはそっちで別途記事を分けて流れを追っていきたいと思うのです。
ということで、ここでは、前回の記事で触れたモータウンなどのソウルの流れを汲む系譜、いわば王道ポップスとしての「R&B」の流れを追っていきたいと思います。
◉音楽史で「ポップスヒット」に触れる重要性
そもそも「ブラックミュージック」というと、「南部発祥」「苦難に打ち勝つ」「泥臭いブルース」「荒々しいルーツミュージック」などといった表象を身にまとい、「ブルース」はギターをかき鳴らすデルタブルースやシカゴブルースを、「ソウル」としてもオーティス・レディングなどの南部のサザンソウルを、「ファンク」もジェームズ・ブラウンなどグルーヴをひたすら追求したサウンドを「黒人らしさ」「価値」としてきた側面があります。
しかし、ブラックミュージックの系譜をもう一度よく振り返ってみると、「ブルース」もシティブルースやブギウギ・ジャンプブルースといったポップなサウンドを携えて成長してきたし、ソウルも最初期はゴスペルやドゥーワップの要素を持ったポップなリズムアンドブルースの系譜の中に誕生しています。その後、モータウンの誕生からノーザンソウルはポップサウンドを牽引する存在になりましたし、フィリーソウルやディスコもエンターテイメント的な側面で成長したジャンルでしょう。
このように【初期ジャズ・シティーブルース → ジャンプブルースやドゥーワップ → ノーザンソウル → ディスコ 】という20世紀のポップミュージックを牽引してきた音楽の系譜を描くこともでき、この流れを引き継いだ80年代以降の「ポップス」としての黒人音楽のヒット曲が多数存在しています。
このような側面を無視し、ひたすら「南部っぽい泥臭さ」のようなイメージに沿うものだけが黒人音楽史として語られているのは、白人から見て「黒人音楽へのステレオタイプ的な“黒人性”の憧れ・期待や押し付け」があったのではないかということもいえますし、黒人聴衆や黒人アーティスト達自身も、白人からの差別や抑圧に対して、黒人としてまとまるにあたってのアイデンティティとして、「黒人っぽさ」のイメージが大切にされていったということもいえそうです。「ポップさ、洗練」というのは白人への「媚び」であり、黒人的なサウンドこそが重要だ、という意識が次第に大きくなっていったのかもしれません。
通常、ブラックミュージック史を追うと、ソウル → ファンクと進んだ次の段階としてヒップホップが配置され、現在に至るように描かれます。一方で、ポピュラー音楽史の主流であるロック史の視点からは、それら自体がオマケのようなサブジャンルの位置づけとなってしまい、詳細には語られません。どのみち、R&Bポップスの系譜は「泥臭い黒人性」を軸にした物語では一番見えづらい現状です。
特定のジャンルに存在する音楽観に沿った「ある視点」から選ばれた音楽史が他の重要な系譜を隠してしまう、という構図は、クラシック史やジャズ史などでもこれまで散々指摘してきていますが、それと同じ構図がまた繰り返されている、ということがご理解いただけるでしょうか。そしてそれが「ジャンルの分断」に繋がってしまうという主張も、もう一度ここに記しておきます。
各ジャンル史において、語る側がマニアックな音楽知識に詳しすぎる故か、ジャンル愛が強すぎる故なのか、大衆を一番魅了しているはずのポップミュージックがいつの時代も「商業的」として歴史記述上で一番存在を消されがちなのです。たとえ商業音楽がどんなに悪印象だとしても、その「良し悪し」はさておいて、ヒットシーンの音楽は音楽史としてきちんと言及・配置されるべきでしょう。
◉ブラック・コンテンポラリー
70年代後半から80年代に、マイルドに洗練されていったメロディアスで甘いサウンドが特徴のポップスは、「ブラック・コンテンポラリー」と呼ばれました。
1970年代に活躍していた多くの黒人シンガー、ミュージシャンがこの波に乗ってヒットを放ち、1980年代においてはブラック・コンテンポラリーがポップミュージックの主流となるほど隆盛を誇ったのでした。
主に西海岸系のスタジオ・ミュージシャンを起用したタイトな演奏や、シンセサイザーやリズムマシンを多用した都会的な音作り、甘いバラードを特徴とするスタイルが築き上げられました。もちろん、彼らのルーツとなるソウルの要素も引き継がれています。
特にリズムマシンを強調したスタイルについては、1982年のマーヴィン・ゲイのヒット曲『Sexual Healing』が決定的な影響を残し、多くのシンガーがその音作りに追随したといいます。
特にルーサー・ヴァンドロスがこういったサウンドの第一人者とされ、多くのアーティストが追随しました。
◉ポップスターやシンガーの成功
80年代の黒人アーティストによるポップスは、大人で都会的なバラード的な側面が典型的なイメージとして認識されてしまった結果「ブラック・コンテンポラリー」と括られてしまいましたが、黒人アーティストたちはソウル・ファンク・ディスコから連続した流れを持つ音楽としてヒット作を放出していったといえます。バラードはその単なる一側面であり、バラードだけではなく多彩なサウンドを放ったアーティストも存在し、そういった中から、特にポピュラー音楽界で大成功を収めていったポップスターが登場します。
70年代はモータウンでジャクソン5として活躍したマイケル・ジャクソンは、70年代末にソロ活動を始めました。そしてクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎え、1982年12月にモンスター・アルバム『スリラー』を発表します。
収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられ、「史上最も売れたアルバム」としてギネス世界記録に認定されています。また、本作の発表に付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなりました。その基盤となったのがMTVでした。
MTVとは、1981年8月1日に開局したアメリカのケーブルチャンネルで、24時間ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける音楽専門チャンネルとして誕生したものです。マイケル・ジャクソンはストーリー仕立てのビデオを作成し、ミュージック・ビデオを「映像作品」として発展させました。MTVの影響力は絶大で、ここから、ヒットのためにミュージックビデオの重要性が高まったのです。マイケル・ジャクソンのビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなったのでした。
マイケル・ジャクソンと同い年であり、同じくこの時代に活躍したのがプリンスです。多くの楽器を自分で演奏し、音楽業界へ多大な功績を残しました。また、ミュージックビデオなどを活用してセクシーなイメージを前面に打ち出す戦略で話題を集めながら世界的な成功を収めました。
また、驚異的な歌唱力で世界を魅了した女性シンガーらの台頭も無視できません。70年代のファンクバンド「ルーファス」を経て80年代にソロ活動を開始したチャカ・カーンや、85年にデビューしたホイットニー・ヒューストンらが挙げられます。
◉ニュージャック・スウィング・ムーブメント
このように、ブラック・コンテンポラリー、ソウル、ファンクが中心になっていた黒人音楽界ですが、その裏でラップやヒップホップが台頭し、音楽評論家や音楽ファンを中心に話題になっていたのを受けて、打ち込みビートを取り入れた新しいスタイルが模索され始めます。
ジャム&ルイスによるプロデュースによって、マイケル・ジャクソンの妹のジャネット・ジャクソンやSOSバンド、シェレール、アレクサンダー・オニールなどが成功し、新しいポップスの形が示されつつありました。
こうした中で、音楽プロデューサーのテディー・ライリーやベイビーフェイスが中心となり、ヒップホップ的手法をファンクやソウルに組み合わせた、新たなポップミュージックのスタイルが創造されていったのでした。
1987年、テディー・ライリーのプロデュースによる、キース・スウェットの「I Want Her」がヒットし、サウンドの斬新さにより、音楽評論家やリスナーたちの注目を集めました。
テディー・ライリーによるこの新しい音楽ジャンルは“ニュージャック・スウィング”と名付けられ、1980年代後半から1990年代前半にかけてソウルチャートを中心に大量の追随者や模倣を生み出しながら流行となっていきました。初期は「プログレッシブR&B」などと一部で呼ばれていたりもしたようです。
ガイ、ボビー・ブラウン、ジョニー・ギル、キャリン・ホワイト、ザ・ウィスパーズらをはじめとして、流行の最盛期にはソウルの大御所ミュージシャンから白人ミュージシャンまでがニュージャックスウィングの楽曲を発表するほどのブームとなりました。
このように、ブラック・コンテンポラリーからディスコ・ポップ、ニュージャックスウィングなどといった多様な方向性を含む黒人音楽が、往年のソウルと分離する形で新たに「R&B(コンテンポラリーR&B)」と呼ばれるようになりました。
R&Bとはもともと「リズム・アンド・ブルース」の略称であり、1940年代末~1960年代のサウンドをよく知る層からは違和感を覚える呼称ですが、従来の「リズム・アンド・ブルース」とコンテンポラリーな「R&B」を区別して表記することで何となく棲み分けができるのではないかと思います。
◉90年代~「コンテンポラリーR&B」の確立
ブラック・コンテンポラリーと呼ばれたバラードのスタイルから、シンセポップのようなファンキーなポップス、そして、ニュージャック・スウィングのような新しいサウンドやヒップホップの要素の融合を携えて、往年のソウルと区別される形で確立した、コンテンポラリーな「R&B」。
特に90年代は多くのアーティストがヒットチャートを彩り、そのジャンル名を世間に浸透させました。
◉「ネオソウル」の誕生
このように、1980年代~2000年代にかけてのR&Bの分野では、打ち込みのエレクトリックなポップスやムーディーなバラードが主流となっていましたが、そんなR&Bから派生し、サブジャンルとして「ネオソウル」が誕生します。
デジタルな印象のある同時期のR&Bとは全く異なる、往年のソウルとヒップホップスタイルが結合したようなサウンドがこう呼ばれ、90年代末に出現しました。
ネオソウルの特徴はクールなグルーヴ感だとされます。まず90年代後半から筆頭としてディアンジェロやエリカ・バドゥが登場し、さらに、アリシア・キーズ、エリック・ベネイ、ジョン・レジェンド、ミシェル・ンデゲオチェロ、ジル・スコット、レイラ・ハサウェイ、ローリン・ヒル、ビラル、マックスウェル、アンソニー・ハミルトン、ミュージック・ソウルチャイルド、ドゥエレ、といったアーティストらが90年代末~2000年代にかけてネオソウルの隆盛を創り上げました。
◉00年代のポップス・R&B
ヒップホップやネオソウルといった分野が草の根で勢力を増していたのに対し、「ポップスのメインストリーム」として確固たるポジションに君臨していたのが「R&B」だといえるでしょう。90年代から引き続き、歌唱力を武器に多くのアーティストやセレブ達が活躍しました。
2000年代のメインストリームの音楽性としては、ヒップホップと同じようなビートのループを用い、ソウルと同じような構成でゆったりとポップに歌い上げる形が主流だったといえます。
ところがこの後から、ヨーロッパで発達が進んでいたクラブミュージックのDJ達がアメリカへ進出する手がかりとしてR&Bシンガーとコラボするようになり、次第にフロア志向のダンスサウンドが強まっていくことになります。
◉00年代末~10年代前半のフロアサウンド
ヨーロッパではクラブミュージックが発達していましたが、アメリカでは全く認知されていませんでした。そこで、ヨーロッパのDJたちはアメリカ進出の足掛かりとして、アメリカのR&BシンガーやHIPHOPのラッパーをフィーチャリングした楽曲を発表しはじめたのです。
その結果、アメリカの若者たちに一気に火が付き始め、それまではひたすら細分化が進んでいたクラブミュージックが「エレクトリック・ダンス・ミュージック」略して「EDM」と大きく呼ばれるようになります。
ポップミュージックシーンは一気にフロア志向のダンスサウンドが強まっていきました。R&Bとしても、しばらくの間バラード路線やヒップホップ路線といったディープな空気感が漂っていた時期を過ぎ、80年代のマイケル・ジャクソン以来の華やかなポップ・スターが続々と誕生する時代を再び迎えることになります。
レディー・ガガ、リアーナ、ケイティ・ペリー、アウル・シティ、ニッキー・ミナージュ、カーリー・レイジェプセン、アイコナ・ポップ、ピットブル、クリス・ブラウンといった人々が、歌唱力を武器に、DJとコラボレーションしながらEDMサウンドに則った数々のヒット曲を放出していきました。
◉「オルタナティブR&B」
このようなド派手なサウンドが主流となった「本流のR&B」に対し、よりディープな性格を持っていたネオソウル勢力はその流れにはならず、本来のR&Bとしての渋さを保ち続けました。
とはいえ、EDMとは違ったかたちでエレクトロニカ的な電子音やトリップホップ的な要素が取り入れられ、特に00年代後半以降はネオソウルからの流れとして「オルタナティブR&B」と呼ばれるジャンルに発展しました。
ネオソウルから台頭したミゲルやフランク・オーシャンと、2010年から活動を開始したザ・ウィークエンドらの音楽を従来のR&Bと区別するために、この「オルタナティブR&B」という語が評論家の間で使われるようになったとされ、それ以来このようなスタイルがR&Bの主流のスタイルの1つとなっていきました。
2010年代後半には、さらに同時期のヒップホップの分野と結びつきを深めていきました。
新世代のR&Bアーティストとして、SZA、ケラーニ、カリード、ケレラ、ブライソン・ティラー、シド、サマー・ウォーカー、ダニエル・シーザー、マック・エアーズ、ジェネイ・アイコ、スノー・アレグラといったアーティストが台頭し、人気となっています。
EDMに替わってアメリカで主流になりつつあったヒップホップのビートである「トラップ」のようなビートを使い、ラッパーとコラボした楽曲も多く、またこの時期ヒップホップ的にもメロディアスなラップが増加したことから、オルタナティブR&Bとヒップホップは境界線が無くなり、今までで一番ジャンルが一体化した状態になっているようです。
◉10年代後半「ポストEDM時代」のR&Bヒット
2010年代以降、音楽界全体に「レトロでLo-Fi」なサウンドを志向する動きが広がりました。中でも1980年代のさまざまな電子音楽を現代のクリエイターたちが再解釈したシンセウェイヴというジャンルが台頭し、ザ・ウィークエンドがレトロなシンセウェイヴ調の楽曲を発表しヒットしたことによって、メインストリームのポップスにもこのようなサウンドのブームが発生しました。
また、R&Bスターとして大成功したのがブルーノ・マーズでしょう。以下に挙げている動画のように、非常に多くの楽曲がヒットしました。
他にはファレル・ウィリアムスの楽曲のヒットも挙げられます。
また、女優でもある歌手のアリアナ・グランデは、マライア・キャリーを彷彿とさせる歌声を特徴とし、「ネクスト・マライア」と評されることもあるアーティストです。
ソウルから連なるR&Bヒットの系譜として例になるような2010年代の楽曲を挙げてみましたが、上記の楽曲と肩を揃えて、R&B外の様々な楽曲もヒットチャートに並びました。
また、ファレル・ウィリアムスはダフトパンクの作品に参加したことでも話題となり、ブルーノマーズも様々なプロデューサーやアーティストとコラボレーションしていたり、これまでの「ブラックミュージック」という意味合いでの「R&B」という枠組みだけでは一概に語れなくなってきています。
そもそもEDMの段階から、フロアで有名なDJやプロデューサーとR&B歌手のコラボレーションでヒット曲が産まれていましたが、EDM全盛期を過ぎ、クラブシーンにおいても、ヒップホップのトラップビートの影響を受けたビートや、トロピカルハウス・レゲトンといった、テンポが落ち着いたサウンドも登場しました。さらに、ラテン系のサウンドや80年代への回帰など、さまざまな新しいムーブメントが起こっています。
このあたり、ダンスフロア基準での細かいジャンルの解説は、後のクラブミュージック史に回したいと思いますが、もはやこのようなヒットチャートは「黒人/白人」という枠組みや「ロック/R&B」という基準で音楽ジャンルを分類することに無理が生じ始め、ここまでの切り口とは別に、EDM~R&B~ヒップホップ~ロックなどが包括された「ヒットシーン」として見る必要があるかもしれません。
90年代後半から2000年代に生まれたZ世代は、インターネットを介して、ロックもヒップホップも、新譜も旧譜もフラットに、しかも大量に聴いてきたからこそ、既存のジャンル区分を飛び越えたポストジャンル性を身にまとっているといいます。また、ジェンダーやセクシュアリティの在り方などでも、旧態依然の分類を拒否しており、それを音楽で表現しているともされます。
このような世代が音楽シーンの中心的な担い手となってきたことで、1920年代のレコード会社によって人種的に無理矢理切り離されてされてしまった「レイスレコード」の悪しき分断の時代が、ようやく終わろうとしているのかもしれません。
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